第150話 日和との約束
みづきはまみおとの試合を決意した。
試合申し込みの白羽の矢を、風を切って撃ち放ったのであった。
「おお、上手いもんじゃな」
まみおの領地へ飛んでいった矢を、額に手をかざして遠くに見やる日和。
互いの戦意が合致している以上、これでまみおとの試合は確実に執り行われる。
力を抜いて弓を下ろすと、みづきは横で空を眺めている日和に声を掛けた。
「なぁ、日和」
「んん、何じゃ?」
見上げる日和の円らな瞳と視線が合う。
朱色の目弾きが大きな目を縁取っていて、幼い顔立ちながら女神としての美しさを引き立てている。
きょとんとしている日和に、みづきは落ち着いた口調で言った。
「俺さ、とりあえずは天神回戦の試合、頑張ってみるよ。それで、日和からの信頼を勝ち取ってみせる」
「むむっ、どうしたのじゃ? 急に改まりおって……」
ぱちぱちと目を瞬かせている日和に、みづきは願いを伝える。
この神々の異世界を往く真の目的、みづき自身の使命を果たすために。
「日和が納得したらでいい。そのときに俺の願いを一つ聞いてもらいたいんだ」
「みづきの願い……。ふむ、そうか──」
日和は視線をみづきから外し、また遠くの空を見上げる。
いつものおどけた感じはその顔からは消えていた。
「この私と、我が巫女の朝陽との繋がりを知りたいのじゃったな。何故そのようなことをみづきが気に掛けるのかはわからんが、試合に勝利して身の証を立ててくれれば望み通りに教えよう。たやすい願いじゃ」
「やった! 日和っ、ありが──」
日和の満足のいく答えに、みづきは喜びの声をあげてお礼を言おうとする。
しかし──。
「但し! 誓っておくれ、決して私を裏切らぬと……! 私と歩む道を違えることは決してせぬと誓っておくれ……! 約束を、して欲しいのじゃ」
日和はひときわ大きな声でそれをぴしゃりと遮った。
勢いよく振り返り、真っ直ぐにみづきを見上げて目をしっかりと見つめていた。
「日和……?」
みづきは日和の顔に鬼気迫る何かを感じて一瞬戸惑った。
怒ったような、悲しんでいるような。
希望と不安を抱えた表情を浮かべている。
朱い唇を震わせ、答えを待つ小さく弱い女神はそのままがばっと頭を下げた。
「この通り、頼むのじゃ! みづきのことを信じるためにもどうか約束を……!」
地面に向けた顔の日和の表情は見えない。
その声には切羽詰まっている。
追い詰められた者の必死さのような何かがこもっていた。
ただ、二つ結いのお団子頭を見下ろすみづきの答えは決まっている。
朝陽のことを知るため、あの在りし日を取り戻すため。
「約束するよ。俺は裏切らない。日和を守るって言った約束に嘘はない。だから、顔を上げてくれ。言ったろ? 神様が頭なんか下げるなって」
「……そうか、ありがとう。みづき……」
少しの間を置いて、顔を上げた日和と目と目が合う。
そのときの小さき女神は本当に複雑そうな顔をしていた。
当初、みづきを試合の身代わりに差し出したときのような狡猾さでもなく。
心強いシキの頼り甲斐のある言葉に歓喜し、安堵する感情でもない。
自らの手詰まりな運命に射した救いの光に、すがってもよいかどうかをまだ逡巡している、そんな風に見えた。
「誓ってもいいけど、その約束、何か制約みたいなものはあるのか? 俺にその気は無くても、知らない内にやったことで勝手に裏切り者扱いされるのは勘弁だぞ」
ゆっくりと日和は首を振る。
八の字に眉尻を下げて、口許はもう笑っていた。
「妙な心配はせずともよい。制約など何も有りはしないのじゃ。力があった時ならいざ知らず、今の私にはみづきに何らかの枷をつけることなどできんし、罰を与えることも同じじゃ。みづきを信じて約束を交わすというだけのことじゃよ」
「そっか。じゃあ、約束の印に指切りでもしとくか?」
みづきは右手の小指を立てて、日和の前に出して見せた。
この主たる女神はみづきを信じられるかどうかをまだ迷っている。
端から日和を裏切る気は無く、信頼を勝ち取るまでは決定事項である。
約束をすることに何らリスクは発生しない。
「おおっ、これは人間たちがしている約束を誓い合う風習じゃなっ」
ぱっと顔を明るくした日和は、はしゃいで自分も立てた小指の手を出した。
互いの小指が絡み合い、何だか喜々としている女神と約束を交わす。
満面の笑みの日和の小指は、か細くて少しひんやりしていた。
「同じ約束をするのでも、これはなかなかに趣があっていいものじゃなあ」
「そういうもんかな。はい、指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます、と」
お決まりの指切り文句の物騒さに日和は少々泡を食っていた。
ちなみに「げんまん」は拳万と書き、もしも嘘をついたら一万回殴られても構わないという意味で、針千本は文字通り裁縫針を千本飲ませる、である。
約束を終えて上機嫌な日和を見つつ、ふとみづきは思い出していた。
それは、帰るべき場所で自分を待っていてくれている夕緋の言葉だった。
あのときの彼女の、普段見せない狼狽ぶりは尋常のものではなかった。
『本当に、自分が何をしたのかわかっているの……? あなたは女神様との契約を正式に交わしてしまったのよ……? もう取り返しがつかない……。本来の運命が捻じ曲がり、過酷な試練から逃れられなくなってしまった……』
血相を変えた夕緋が、日和のシキとして女神様と交わりを持ってしまったみづきのことを本気で心配していたときにそう言っていた。
神と約束を結ぶことの、後戻りのできない恐ろしさを必死に訴えていた。
──だけど、もう引き返せないし、そんなつもりもない。
何より目の前で約束の印となった、自分の小指を無邪気に笑って眺めている日和にそんな恐ろしげなものはやはり感じられなかった。
神を畏れて祀り、祈りを捧げる巫女の夕緋だからこその特有な考えなのだろう。
そのとき、みづきはそれ以上のことは思いも考えもしなかった。
「神」という存在との約束と、夕緋の言っていた言葉の本当の意味を。
みづきが身をもってそれを知るのはまだまだ先の話である。
◇◆◇
ひゅっ、という風を切る音がして、続けざまに、たんっと的中の音が響いた。
そこは赤い夕焼けの峠道で、お地蔵様の祠がひっそりとある、まみおの領域。
祠の後ろの木の高いところに備え付けられている弓の的に、今し方飛来した白羽の矢が突き刺さっていた。
みづきが放った、試合申し込みの報である。
それを地面から見上げる狸の神の両手には力がこもった。
「来やがったな! 日和様のことをどんけつだって笑ったけど、おいらだってひとのことを偉そうに言える立場じゃねえ。後が無いのはおいらも同じなんだ。絶対に負けられねえ、あの村と山のみんなのためにも……!」
まみおにも負けられない事情がある。
試合に勝ち、太極天の恩寵を得て、ますます強い神へと成らなければならない。
峠から眼下に広がっている昔姿の村を見るまみおの目に悪ふざけの光は無い。
『まみお……。まみおや……』
ふと、後ろから決意に燃えるまみおを呼ぶ声がする。
途端、まみおは嬉しそうな顔ですぐに振り返った。
祠のお地蔵様から声がする。
「お師匠様ぁー!」
前足を付き、畏まって丸くなるとまみおはお地蔵様を笑顔で見上げていた。
感情が仕草から見えにくいと言われている狸だが、その様子は誰が見てもわかるほど歓喜に満ちていた。
「お師匠様と話するの久しぶりだー! おいら、次の試合が決まったんだ! 日和様のところのみづきっていう、なんかおかしなシキが相手でさー! お師匠様と村や山の皆のために、おいら頑張ってくるよー!」
と、試合の報告をし、抱負を語るまみおにお地蔵様は穏やかな声で言った。
不思議とその声はまみおと同じ声色で、お地蔵様と狸の神が一心同体であることを物語っているかのようだった。
『試合の武運を祈ります。どうか、身体に気をつけて無事で帰ってくるのですよ』
石仏の表情は変わらないものの、元来の優しい顔はまみおの無事を願う。
一歩間違えれば、天神回戦は神の破滅をもたらす死地と化す。
敗北の眠りの危難は、どの神にも等しく訪れる結末なのだから。
そして、何を思うのかお地蔵様は一つの預言を語った。
たまたま末席と準末席という関係だったからこそ。
偶然の巡り合わせが生んだ、この運命の結び付きに福音を唱える。
『日和様とそのシキ、みづきとの縁を大事になさい。此度の出会いは、人の子らと山の子らにきっと幸福をもたらしてくれるでしょう。そしてまみお、貴方にも』
お地蔵様と道祖神が習合し、安全祈願や五穀豊穣を祈るだけではない。
縁結びの神様としても信仰を集める神は、まみおとみづきと日和の繋がりに希望を見出した。
その絆の行方は、正に神のみぞ知る、である。




