第147話 地蔵狸まみお登場2
「よく来たな! おいらはまみお! 地蔵狸のまみお様だっ!」
狸の神の名は、まみお、といった。
魔魅とは狸のことを指し、どうやら男神であるらしく、魔魅に男で安直にそんな名前になったのだとかなんとか。
直立していても身長はみづきの腰の高さくらいで、流暢に人の言葉を操って喋る姿は狸そのものなのに妙に人間臭い。
面食らうみづきに構わず、まみおは意気揚々に大声で続けた。
「そんでこっちがおいらのお師匠様! 二人でこの神の領地を守ってるんだ!」
ささっと祠の前から飛び退いて、後ろのお地蔵様に手をかざして見せる。
静かに佇む石仏が何かを語ることは無かったが、優しげな微笑みを浮かべていて珍しい来客を歓迎しているようだった。
山の峠道から見下ろす眼下には、昔時代の茅葺き屋根の家屋が建ち並ぶ、のどかな村の風景が広がっていて、それらはまみおが神になる前の原風景である。
狸のまみおが何故神へと昇華されたのかは不明なものの、このお地蔵様はあの村を様々な厄災から守っていた道祖神、塞ノ神なのであろう。
厄災は主に疫病を指し、昔の人々は村の境に道祖神を祀り、災いが外から紛れ込まないように祈りを捧げていた。
六道を巡り、人々の身代わりになって苦しみを引き受けて救ってくれるお地蔵様と道祖神とが結びつき、この地を守る守護神となっているようだった。
「客なんて本当に珍しいなぁ。わざわざおいらに会いに来ようとしてる奴らがいるってわかったら、もうじっとなんてしてられなくてよっ。狸に化かされた気分ってのはどんなもんだい? なかなかのもんだったろ?」
再びみづきの前にしゃしゃり出ると、まみおは得意そうに胸を張った。
言うまでもなく、先ほどまでの夜の竹林と狸囃子からの妖怪見上げ入道は、全部まみおの神通力で生み出された幻術である。
みづきと日和を取り巻く世界そのものを幻でつくり、あたかも本物のように見せた化け狸ならではの神威の表れであった。
「日和、大丈夫か?」
「う、うーん……」
手を引いて起こしてやるも、ふらふらとしている日和はまだ朦朧としている。
日和のそばにひざを付いて、赤紅色の着物に付いた汚れを払うみづき。
その様子をまじまじと見ているまみおは黒い目をくりくりさせていた。
「ふーん、おめえが噂の、太極天様のお力を使うっていうイカサマシキだな……。そんでそっちの小っちぇのが最下位の日和様だな。わざわざ会いに来て、おいらにいったい何の用なんだ?」
どうやらみづきが太極天の力を自在に扱う特別なシキだということは、他の神々にも知れ渡っているようである。
当然ながらか、まみおは従者のシキであるみづきから視線を外し、その主の日和のほうに向き直った。
ただ、日和は我関せずと機嫌悪く、腕を組んでぷいとそっぽを向いてしまう。
「私は別におぬしなどに用はない。用があるのはこっちのみづきのほうなのじゃ。次なる試合相手の吟味がしたいと申すゆえ、こうして連れてきた次第よ」
実際に用があったのは日和ではなくシキのほうだったと言われて、まみおは怪訝そうにみづきへと視線を戻す。
「へぇ、そうなのかよ。おいらと天神回戦の試合をしたいってのか。日和様じゃなくて、そのシキがねぇ……」
しかし、まみおは日和の思惑をお見通しと言うばかりに普通の獣ならしないにやりとした笑みを浮かべた。
「ははーん、そんでどうにか勝ちたい一心で、どんけつ二位のおいらを狙ってきた訳だな。一番弱い奴を狙うなんて、日和様のくせにせこいこと思いつくなぁ」
「わ、私が思いついたのではないぞっ。このみづきが無理を言うから仕方なく──」
「おいおい、じゃあ何だ? 神がシキの言いなりになってるってのかよ! そんなかっこ悪い話、おいら今まで聞いたこともねえぞっ! いくら恥ずかしいからってそんなのシキのせいにしてんじゃねえよっ!」
「う、ぐぬぬ……!」
痛いところを突かれて、日和は何も言い返せなくなってしまう。
悔しげに顔を真っ赤にすると、助け船を求めるようにみづきに振り向いた。
「みづきぃ、だから言ったではないかぁ。試合をする神に事前に会おうなど碌でもないことこの上なしじゃっ!」
半泣きになって縋り付いてくる日和にみづきは苦笑いで答える。
何と言おうか迷っていたところだったが、また何か引っ掛かった。
──やっぱり、あからさまな試合の相手選びは神様の立場上みっともないっていう通例があるんだな。卑怯な手は考えずに神様が戦う相手を決めて、正々堂々とシキはその命令に従って戦う、か……。
それは一般的な話としては正しいのだろう。
ここは聖なる神の世界で、善なる神々もまたひたすらに清く正しい。
──だけど、それが全てって訳じゃない。現に、多々良さんのところは弱った神様にとどめを刺して回ってる節がある。
ふと思い出したのは、また第二位の多々良のことであった。
他の目に見苦しい試合をするのを避け、威勢の良さを顕示するのが通例だというのなら、あの高位の神がしていることはそれに外れているように思った。
タイミング良く多々良のことを思い出したのは、みづきが気掛かりだったというだけではなく、当然ながら雛月による差し金だ。
とは言うものの結局の話、それぞれの神の陣営の都合によっては、通例通りとはいかないだけの話なのではないか、など思っていると。
「まぁともかく、こうしてせっかく来てくれたんだ。二人とも、ゆっくりしてけよ。何もねぇが歓迎するぜ」
まみおはにかっと笑い、首の前掛けの下から青々とした葉っぱを一枚取り出し、ひらりと空中に放り投げる。
続けざま、器用な所作で九字護身法の印を両手でシュババッと組んでみせた。
ぼわんっ!
すると、葉っぱから煙が起こり、みづきと日和の前に木の切り株の机が現れた。
その上に湯飲みに入った熱いお茶と、しゃれた焼き物の皿に乗せられた茶褐色の饅頭が二人分用意された。
「おお、これはすまんのじゃ」
目の前に出された茶と菓子に日和は手を伸ばす。
湯気立つ湯飲みを片手で持ち上げ、反対の手は底を持って支えると、そのまま口に運んで、ずずっと一口すすった。
「あ、日和、それは……」
何かを言おうとするみづきだがもう遅い。
にやりと笑ったまみおと目が合った。
「なんだ、おめえはいらねえのか?」
性悪狸はいたずら好きそうにさらに口角をつり上げる。
その顔を見て、みづきは出されたものがいったい何なのかを確信した。
嫌悪感を抱きながら、みづきは渋い顔で言った。
「遠慮しとく……。だってそれ、馬か何かの小便と糞だろ……?」
途端、良い香りがしていたと思ったお茶から、つんとした嫌な匂いがし始めた。
すでに日和の手の中にある饅頭からも強烈な臭気が漂い出す。
みづきに手の内を看破されたことで、まみおの術はその正体を現した。
「うべぇーっ!? ぎゃあああああっ! 何じゃこりゃあぁっ!?」
日和は叫びながらお茶だったものを激しく噴き出し、手の饅頭だったものを遠くへぽーんと放り投げた。
おぞましい固形物には辛くも口を付けずに済んだものの、残念ながら刺激臭のする汚水は少量飲み込んでしまった後だった。
狸に化かされると汚らしい物を飲み食いさせられるだけでなく、終いには小便の風呂に入れられ、翌朝どこかわからないところで目を覚まし、身体中が臭いという酷い目に遭わされるのだとか何とか。
「ひぃぃ……! なんてものを飲ませるのじゃあ……。恐るべき悪行よ……」
「日和、大丈夫か? 気分悪くないか?」
両手を地面に付いて崩れ落ちる日和の背をさするみづき。
さっき暗い森とお化けで化かされたばかりだったというのに、無警戒に出された物に手を出してまんまと術中に嵌まってしまうのもいかがなものだろうか。
そう思って、みづきは呆れて苦笑い。
「きゃーきゃっきゃっきゃ! まぁた引っ掛かってやんの! おんもしれぇー!」
面白いほど悪質ないたずらに引っ掛かってくれた日和を見て、まみおは腹を抱えてごろごろと笑い転げている。
「うぬぬぬ……」
と、四つん這いに顔を伏していた日和がゆっくりと立ち上がった。
身体中から燃えるような怒りの炎を誇張無しに噴き上げている。
その表情は目を血走らせ、ぎりぎりと歯ぎしりをして、激怒していた。
「おぉのれっ、こんのくそ狸ッ! おとなしくしておればいい気になりおって! そこになおれぇっ! 狸鍋にして喰ろうてやるわッ! みづきっ、太刀を貸せい! 八つ裂きのばらばらにしてくれるのじゃー!」
「……試合の外の諍いはご法度じゃなかったのか?」
正気を失った怒りの日和に、もうみづきの声は届かない。
両手を振り上げてきぇーっと叫びながらまみおに突撃していく。
待ってましたとまみおは嬉々として笑い声をあげ、初めて四足歩行の姿勢になると、野生の狸さながらに素早く逃げ出した。
あっという間にお地蔵様の祠の後ろの茂みに隠れて見えなくなってしまう。
構わず、日和も茂みの中へと飛び込んでいった。
きぇーっという日和の奇声とまみおの甲高い笑い声が、ガサガサッと激しい葉擦れの音に混じってしばらくの間、森の中を騒がせていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
ややあって、まみおを追いかけ回すも全然捕まえられなかった日和が、顔と着物に木の枝や葉っぱをくっつけたぼろぼろの格好で戻ってきた。
青い顔をして、肩でぜいぜい息をする日和は死んだ魚みたいな目をしていた。
「つ、疲れた……。口の中が気持ち悪い、吐きそうなのじゃ……。うぐぅ、私もう帰る……。おんのれぇ、我が力が万全ならその脳天に雷を落として罰を当ててやるところじゃぞぅっ……!」
威勢を張ってみせるが、すっかりと気落ちしてまるで元気が無い。
そのままみづきの前を通り過ぎると、峠道の遠くに見える瞬転の鳥居へとぼとぼと向かって、すぅっと消えてしまうのであった。
どうやら本当に帰ってしまったらしい。
「あれっ!? 日和様、帰っちまったのか」
追いかけっこに夢中になっていたまみおが、いつの間にか日和がいなくなったのに気づいて茂みから飛び出してきた。
みづきの前まで来るとまた二足歩行の姿勢になって立ち上がり、朱い鳥居のほうを名残惜しそうに見つめている。
「ちぇっ、だらしねーな! つまんねーの!」
いたずら好きの化け狸にしてみれば、はしゃぎすぎて体の良い遊び相手に帰られてしまい、もっと遊びたかったなどと残念に思っているに違いない。
と、今度はみづきを見上げてまたニヤニヤとし始める。
「それじゃ今度はおめえがおいらと遊んでくれるのか? 主の神様をコケにされてさぞかし腹が立ってるんじゃねえか? おいこら、どうなんだよっ! 何とか言えったらこのおたんこなす、きゃっきゃっきゃっ!」
もちろん次の標的は置いてけぼりになっているみづきであった。
いつ追いかけてこられても逃げられるよう、身を屈めて構えている。
「まぁ、あんなでも俺の主人の神様だからな。同じ神様同士、あんまり意地悪しないで、できたら仲良くしてやってくれよ」
但し、みづきが全然追いかけて来ず、怒り出しもしないのを見て、拍子抜けしたみたいに肩を落とすまみおは残念そう。
変な物を見るような目でこちらを見上げ、不思議そうな顔をしている。
「何だよ、怒らねえのか? なんか変なシキだな、おめえ。ほんとにあの日和様のシキなのかよ? 間の抜けたすっとぼけた顔しやがって」
思っていたのと違うみづきの反応に、逆にまみおは警戒心を強めたのか、ウゥー、と威嚇するみたいに唸り出す。
視線は外さず、みづきの回りをうろうろとして値踏みでもしているようだ。
そんなまみおに、みづきは両手を軽く挙げて戦意が無いことを示す。
「今日は喧嘩をしに来た訳じゃない。もしかしたら試合をするかもしれない相手の顔を直接見に来たんだよ。俺がそうしたいって日和に頼んだのも本当だ」
お互い目線を合わせたまま、元通りの正面に立つ位置にまで戻ってくる。
みづきは握手の手を差し出した。
「改めて初めましてだ。俺はみづき。……えぇと、まみお様でいいのか?」
急に目の前に、にゅっと手を出されて一瞬びくっとなるまみお。
握手の手を小さな獣の手でぺちんと叩いて払い、ぶっきらぼうに言い放つ。
「まみおでいいぞ! だからおいらもおめえのことをみづきと呼ぶからな!」
「おう、よろしくな」
不敵ににかっと笑うみづきを、まみおはじろじろと見やる。
何だか妙に余裕そうに見えるみづきが気に入らない様子である。
「ふん、主の神様を化かされたってのにすかした野郎だな。この不届き者め!」
化かした本人が言うべきではない台詞を口走り、まみおは呆れか哀れみかの感情を込めて長い息を吐いた。
「こんな変なシキを生み出すようになっちゃ、日和様もいよいよ落ちるところまで落っこちちまったんだなぁ。今でこそ弱っちぃあんなだけど、昔はほんとにすげえ神様だったのによ。もう見る影もありゃしねえ」
それはまみおの半ば独り言の嫌味だったが、みづきは引っ掛かるものを感じた。
思えば、相対する間柄ながらも多々良や慈乃の応対には礼があったし、鬼の露天商や見物客からも日和に対する神としての人気は高かった。
それはこのまみおも同じのようで、みづきは問いかけてみることにした。
「皆して随分持ち上げてくれてるけど、日和って、そんな凄い神様だったのか?」
シキとして生み出されたときにはもう順列最下位で後が無く、実際に無力で矮小な女神でしかない日和へのみづきの評価は決して高くはない。
しかしそれは、この神々の異世界に住まう他の者からすれば、大それた見当違いの認識であると言わざるを得ないようだ。
まみおは声を荒げ、みづきを無知なシキだと思ってまた呆れている。
「はぁ? 何をとぼけたこと言ってんだ、おめえはよ! 破壊と創造を司る神様が凄くない訳ないだろー! ここいらの神様の中じゃ、日和様と夜宵様っていったら他に並び立つ奴がいないくらいだんとつに強い神様だったんだぜ!」
そうして日和と夜宵の姉妹神を讃える一方で。
まみおは人差し指を口許に立てて、ひそひそ話をする仕草をした。
「知らねえみてぇだから教えてやる。ここだけの話だぞ……」
人間みたいに喋るうえ、噂話のゴシップ好きとはまるで狸らしくもない。
しかし、出し抜けにまみおが言い出した内容は、みづきの興味を殊更に引くものであった。
「第一、天神回戦が始まったことのきっかけなんだぞ。あの二人の女神様はな」
天神回戦の次なる試合相手に会いに来たら、思い掛けない話が飛び出した。
神々の異世界での試練そのものに日和が関わっているらしい。
日和だけでなく、あの夜宵もである。
みづきの中で能動的な好奇心が活性化していた。
二巡目となるこの異世界でも地平の加護による探求が始まったのである。
天神回戦を勝ち上がるだけが試練ではない、そう物語るように。




