第133話 ダンジョンの深奥に潜む蜘蛛
繋いだ手を通して、アイアノアから魔力が伝わってくるのがわかった。
薄暗くなった店内を、ミヅキの顔の回路模様の光がぼんやりと照らした。
パメラの手の剣、ノールスールが同様に光り出して、ミスリル鉱石の表面に何やら変化が起き始める。
『対象選択・《ミスリル鉱石》・記憶投影・《妖精剣ノールスールの残留思念》』
『対象選択・《この場の全員》・効験付与・《感覚共有》』
地平の加護の効験を付与した全員にミヅキの感覚を共有させた。
ミスリルの表面に映し出した映像を感じることができる。
安息の心象空間内で、雛月が三月の部屋のテレビに記憶を映したように。
視覚と聴覚の感覚を通して、今は亡き英雄の記憶が蘇らせる。
『……えるか、の声が、聞こえる、か……? 誰か……。見て、いるか……?』
それは確かに聞こえ、確かに見えた。
途切れ途切れでぼやけていたそれらは、すぐにはっきりしたものに変わる。
ミスリル鉱石の表面に映った姿は目に映り、声は耳に届く。
『……この呼び掛けが誰かに届くのを祈って、意識の一部をノールスールに残す。──俺様は冒険者アシュレイだ』
まさかの俺様キャラだったのには驚いたが、最高の冒険者であり、キッキの父親、パメラの最愛の夫、アシュレイが記憶の映像の中で息づいていた。
いつか見せてもらった家族の肖像画通り、金色が掛かった髪、大人にしては幼げな見た目はまさに健在であった頃のまま。
「あぁ、アシュレイッ!」
「パパッ! ママっ、パパだよ! アシュレイパパだっ!」
パメラとキッキは感極まって叫んだ。
どういう形であれ、死に別れでもう二度と会えない家族と再会できたのだ。
その感動は何にも代えがたい。
それは、ミヅキにもよくわかる気持ちだった。
『せっかくまた話せる機会に恵まれたが、残念ながらこっちから一方的に伝えることしかできねえ。……もう何も見えねえし、何も聞こえねえんだ』
肉体を失った記憶映像のアシュレイはもう何も知覚することはできない。
地平の加護の集積能力で、意識の一部を抽出しているだけである。
『いま俺様の声を聞いてるのが誰かはわからねえが、あの巨人の魔物を倒してくれたってことだよな。俺様の無様の尻拭いをしてくれてありがとうよ。そんな強え奴を見込んで、おかしくなっちまったパンドラの状況を伝えとこうと思う。少しでも今後のダンジョン攻略に役に立ってくれれば本望だ』
そして、アシュレイの遺志は語り出した。
妖精剣ノールスールに意識を宿し、命を落としてからの今までの間──。
かの魔物に突き刺さって、共に過ごしてきたこの10年間のことを。
それは、パンドラの地下迷宮の状況を告げる奈落の底からのメッセージだった。
『俺様は巨人の魔物と一緒にパンドラの中をひたすら徘徊するようになった。何を考えてやがるかはさっぱりわからなかったが、どうにも何かを探し回っているような感じだったな。その途中で敵に遭遇しようものなら、何が相手だろうと見境なく襲い掛かる凶暴ないかれた野郎だ。討伐してくれて本当に助かったぜ』
ミスリルゴーレムは不明で不規則な行動を繰り返していた。
アシュレイは剣の中で、魔物の意思に任せて、異変の後となるパンドラの地下迷宮の様子を知ったのである。
ミスリルゴーレムは広大な迷宮内をうろつき、侵入者等の外敵を排除しつつ、何かを探すような素振りを見せていたとのことだ。
『やっぱり、あの地震の後のパンドラの様子は何かがおかしい。俺様のよく知ってるダンジョンじゃなくなっちまったのかもしれねえ。これまでに巣くってた従来の魔物共はすっかりいなくなったし、地の底から湧き上がる魔素の濃さが段違いだ。うまく言えねえが、得体の知れない異質な何かを感じる。この魔物だってそうだ』
ミヅキと同様、アシュレイも妖精剣ノールスールに付与された精霊の力で、ミスリルゴーレムのことをじっくりと洞察していた。
五感を超越した超感覚で、窺い知れなかった魔の正体に確かに触れていた。
事は大いなる闇の外縁から、内側中心の真相へと迫る。
アシュレイは言った。
『こいつには真の名前があるらしい。──饕餮の戟雷。何か変わった名前だよな。ノールスールの精霊様が言うにゃ、魔物の肉体こそこの世界にある物質で形作られてるが、その魂はまったく別次元のモンで、何と異世界から来てる存在なんだそうだ。……どうやら、この世のモンじゃあ無いらしい』
「い、異世界だって……?」
それを聞くミヅキの心臓は大きく鼓動を打った。
ミスリルゴーレムの真の名前が明かされたのもそうだが、異世界の存在であるということに激しい胸騒ぎを覚える。
饕餮。
ある神話の何でも喰らう怪物の名で、「四凶」という四柱の悪神の一つ。
戟雷、というのはこの魔物の固有の名前だろうか。
ミヅキの動揺を感じて一瞬乱れる映像のアシュレイの独白は、なおも事件の核心へと大きく近付いた。
『精霊様はこの魔物を神霊の類、異界の神獣と呼んでいた。そんで、さらに厄介なことだが、この手合いの強え魔物、異界の神獣は全部で七体もいるらしい。まだ底の知れねえパンドラのどこかで今も鳴りを潜めてる。おそらく、例の地震騒ぎの時にこいつらは現れたんだ。──異世界、って所からな』
戦慄の事実のせいか、他の理由のせいか。
ミヅキは身震いして息を呑む。
雪男を、ミスリルゴーレムを見た時に感じたあの脅威のイメージ。
初めて遭遇した魔物、レッドドラゴンも同様だ。
あいつらが異界の神獣、なのだろうか。
『剣になって刺さってただけだから、詳しくわかったのはこの魔物のことくらいのもんだが、まぁ何かに役立ててくれ』
終始、緊張感を持って話していた英雄の遺した言葉はそこで終わった。
打って変わり、穏やかな口調になったアシュレイは最後に告げる。
それは彼の未練が言わせる名残の思いだ。
『……なぁ、これを聞いてる奴が誰だって構わねえ。頼みがあるんだ。トリスの街の冒険者と山猫亭のパメラとキッキっていう、俺様の最高の女たちに伝えて欲しい。恥ずかしがらずにもっと伝えておけば良かったけどよ……』
死して肉体が滅んだ後もなお、家族を想い続けていた。
異種族間を越えて結実した愛が昇華され、共に幸せを築いた家族へ送る言葉。
『パメラ、キッキ、愛してる。俺様はずっと見守ってるぜ。あぁ、もっと長くお前らと宿屋をやりたかったなぁ。二人と一緒に店の仕事をやってたあの穏やかな時間は本当に最高だったぜ……』
それは幻ではなく、みんなの頭に流れ込んできた過去の情景。
パメラが相変わらず美味しい料理をつくり、幼いキッキと共にアシュレイが掃除や皿洗いに悪戦苦闘をする幸せな記憶の映像。
『……まったく、何もかも全部が心残りだが、これでお別れだ。死ぬんじゃねえぞ、俺の仇を討ってくれた誰かさんよ!』
ミスリル鉱石の中で、アシュレイはにかっと笑った。
元気いっぱいの笑顔はまるで少年のようだった。
それは、紛れも無くキッキが見せるとびきりの笑顔そのものであった。
声が途切れて姿が消える瞬間、ミヅキの脳裏にある記憶が垣間見えた。
パメラと、アシュレイの、過去の記憶の一幕。
『出直しなさいな、人間のおチビちゃん。生意気を言いたいのなら、私よりも強くなってごらんなさい。そうしたら話を聞いてあげるわ』
『本当だな! 俺様のほうがパメラより強くなったら、約束通りに結婚してもらうからな! 俺様とめおとになって、生涯ずっと相棒同士でいようじゃねえか!』
ちょっと冷たい感じのパメラと、血気盛んに求愛をするアシュレイ。
冒険者時代の二人の掛け合いを最後に、記憶の再生は終わりを迎えた。
もう何も映ってはいないミスリル鉱石の表面。
もう何も聞こえない静寂の空気。
「アシュレイ、私もよ……。私も愛してるわ……!」
「ママ、ママッ……!」
抱いていた剣を床に落とし、獣人の母娘は抱き合って涙した。
母は亡き夫を想い、娘は父の愛情を思い出し、力いっぱいお互いを抱きしめた。
「パメラさん、キッキ……」
その姿を見て、ミヅキも自分の過去を思い出して涙ぐむ。
親しい者を失った後の悲しみは、自分だって痛いほどわかるから。
「あの、ミヅキ様……」
滲んだ涙を拭っていると、ふとアイアノアが言った。
「アシュレイさんの意識は消えましたが、ノールスールにはまだ何か残留している思念があります。……これも、拾い上げますか?」
床に転がる妖精剣のブレード部を見ながら、彼女の表情は何故か曇っている。
その理由はすぐにわかった。
アイアノアは続けて言った。
「……これは、あの巨人の魔物の思念です。長く行動を共にしたせいなのでしょう。アシュレイさんの意識に混じって、奥底に溜まっていたのだと思います」
地平の加護が干渉したのは、妖精剣ノールスールに宿った残留思念。
そこには、持ち主のアシュレイの記憶はもちろん、突き立った相手のミスリルゴーレムの記憶もまた、焦げ付きこびりついた鍋底の黒ずみのように残っていた。
「……う」
何故か嫌な予感がする。
とてつもない胸騒ぎがする。
言い知れない忌避感に心がざわつく。
この記憶をすくい上げれば、見てはならないものを見てしまいそうな気がする。
やめておいたほうがいい。
きっと後悔をすることになる。
「……」
なのに、地平の加護の探求衝動を止められない。
「……アイアノア、頼む。見てみよう……」
打ち鳴らされるけたたましい警鐘に反して、ミヅキはそう答えていた。
頷く従順なアイアノアと、太陽の加護の無情なる起動。
すると途端、魔物の記憶はミヅキの頭の中に直接流れ込んできた。
アシュレイのように丁寧に言葉で語り掛けてくれはしない。
乱暴に、一方的に、激しく黒い精神を叩きつけられる。
どくんッ……!
全身の血管が脈打ったようだった。
やはり、嫌な予感は当たっていたのだ。
忌まわしき惨禍の記憶が──。
恐怖と絶望のトラウマが再生されてしまう。
ミヅキは禁忌の一端に触れ、愕然としながら苦悶の悲鳴をあげた。
「……ッ! ……うぁッ!? あああぁァァ……!?」
赤黒い濃霧の如き渦巻く瘴気が、視界すべてを覆っていた。
見上げる空は暗黒の闇で、深紅の嵐が荒れ狂う。
ミヅキの見ている魔の記憶。
それは、荒れ果てた廃墟の街の姿だった。
暗褐色のアスファルトで固められた道路は、ひび割れて破損だらけ。
カーブミラーはへし折れて使い物にならず、道路標識は錆び付いて変色していて何が記されていたのか識別不能だ。
建ち並ぶ鉄筋コンクリートの背の高い建物はぼろぼろで、窓という窓のガラスはすべて割れ落ち、部分的に崩壊してしまっている。
バキバキバキ……! ガシャァン……!
ミスリルゴーレムはお構いなしに歩行し、巨体に引っ掛かる壊れた車両用信号機を支柱ごと勢いのままになぎ倒した。
消えかけた横断歩道の白い舗装の道路を踏み砕き、廃墟の街をうろついている。
ミヅキにはその町の姿に見覚えがあった。
──この道を行くと俺が通ってた高校があって……。そこを右に曲がって真っ直ぐ行けば親父の職場の市庁舎があって、それでそれで……。な、何だよここ……!
ミヅキの意識は廃墟の風景に没入してしまっていた。
魔物の巨体の後ろ、少し高い所から俯瞰気味に崩壊した街を見下ろしている。
ここはミヅキのよく知る町だった。
それも故郷の、生まれ育った町だ。
声にならない声で、滅んだ町の悲惨な光景に嘆き叫んだ。
──これは、俺の故郷、天之市だ……。10年前のあの時に消えてしまった、俺の住んでいた町だ……。どうして、俺の街をこの魔物は歩いてやがるんだ……!
遺都、天之市神巫女町。
現代の街風景に混ざって、ダンジョン特有の巨大な石柱や、巨石ブロックを交差させて積む方式の千鳥積みの洋風建築の壁がそこかしこに散見される。
崩壊した建物の隙間や、道路で廃車同然に壊れた自動車の残骸から、見たこともない巨大な植物の太い根がはみ出している。
そして、あちこちに無残に転がる人骨に混じり、魔物としか思えない異形の死骸や骨が散らばっており、混沌とした死の風景が広がっていた。
極めて広大な暗黒空間に、現実世界の都市の廃墟とファンタジー世界のダンジョンが混在し、歪に融合してしまっている。
ミヅキは本能的に確信した。
──ここはパンドラの地下迷宮だ……! 天之市の神巫女町が、どういう訳かパンドラの地下迷宮の中にあるんだ……! こんなにもぼろぼろの廃墟になって……。
信じられないが、そうとしか思えなかった。
この漂う赤い気流は魔素だ。
それも異常なほど濃密な。
地平の加護がパンドラの地下迷宮の魔素と同質だと照合している。
この廃墟がミヅキの故郷で、ダンジョンの深奥であると指し示している。
ずしん、ずしん、ずしん……!
そのままミスリルゴーレムは、廃墟の天之市を踏み潰しながら歩いていく。
ミヅキの意識はそれに追従する形で、変り果てた故郷を見せられ続けていた。
と、正面のかろうじて崩壊していない、3階建ての雑居ビルに目がいった。
その屋上に設置されている給水塔、穴が開いた貯水タンクの上に何者かが立っているのが見えた。
赤い瘴気の風に、着流しの黒い着物の裾と、乱れた黒髪をなびかせている。
黒い着物の柄は蜘蛛の巣で、袖口から幽霊のような白い肌がのぞく。
切れ長の不気味に光る眼、禍々しき気配をまとう飄々とした長身の男。
ミヅキはその姿に見覚えがあった。
──あっ、あいつは、蜘蛛の着物の男……! 夕緋の近くにいたあいつが、どうしてパンドラの地下迷宮に……?!
驚愕してわななき、訳もわからず心身に耐えがたい悪寒が走った。
ぎろり……!
と、蜘蛛の着物の男の顔が不意に振り向いた。
視線はミスリルゴーレムと、その背後にあるミヅキの意識を捉えている。
地の底から響くような悪声が発せられた。
「……何だ貴様は? 戟雷の中で何をしている?」
恐ろしいほど鋭い眼光が射すくめられ、心臓が凍り付きそうだった。
明らかに蜘蛛の着物の男は、居もしない知覚できるはずのないミヅキの存在を魔物の記憶の中から見返していた。
億劫そうに向き直り、苛立たし気に怒気をはらんだ声色で凄む。
邪悪な怒りの感情がまともにぶつかってきた。
「不愉快な奴め! 許しなくおれを覗くとは命がいらんと見えるな」
容赦のない闇の意思が襲い掛かってくる。
耳鳴りがしたかと思うと、感じたことのないくらい激しい頭痛に見舞われ、心の中に黒い何かが強引に押し入ってきた。
視界が断続的に、斑模様に黒く塗り潰されにごっていく。
どろりッ……! どろどろどろどろどろッ……!
「死ね、無礼者が」
いったい何をされたのか不明だった。
何らかの精神攻撃を受けたのかもしれない。
ぶつんッ……!
それは意識の糸が切れる音。
瞬時に気が遠くなり、心がかき消されていくみたいだった。
ミヅキの意思は強制的に接続を切られた。
抜け殻のミスリルゴーレムの魔などまったく比較にならない。
もっともっと危険で凶悪極まる。
深い闇より出でる暗黒の思念波は、いとも簡単に人間風情に過ぎないミヅキを消滅させることができるのだろう。
思いがけず触れてしまったのは、ついに巡り合った蜘蛛の着物の男の意思。
「うあああぁぁァァァッ!? い、痛いっ! 頭が割れるッ……!!」
「ミヅキ様、危険です! 加護のお力を止めて、意識を切り離して下さいまし! 闇に心が汚染されてしまっては手遅れになってしまいますっ……!」
現実に戻ったかどうかも定かではない状況の中、ミヅキは頭を両手で抱えてその場に倒れて苦しみ転がり回った。
テーブルの足や椅子にぶつかってのたうつが、もうどこが痛むのかも曖昧だ。
もう蜘蛛の着物の男の声は聞こえないのに、頭痛が治まってくれない。
意識が激しく明滅している。
正常な思考がまったく働かない。
何もかもがぐちゃぐちゃでわからない。
「ミヅキ様ッ! ミヅキ様ぁッ……!」
ミヅキの身を案じる、必死なアイアノアの叫び声が遠のいていく。
頭の奥のほうでブレーカーが落ちるみたいな、バツンという音が鈍く響く。
地平の加護のノイズ混じりに乱れた声が聞こえたような気がした。
『同期、……強制、切断・緊急、事態、発生……』
 




