第112話 融和する異世界1
「ふわーん……。ふわぁーん……」
宿屋の夜、冒険者と山猫亭の一室。
ベッドの枕に顔を突っ伏して寝転がり、嗚咽に背中を震わせながら大泣きをするエルフ、アイアノア。
この国のハーフ問題に言及したところ、思いがけずミヅキの怒りを買ったばかりか、人間が嫌いという失言を重ねてしまい、涙まみれに逃げ出してきてしまった。
「私の馬鹿ぁ……! ミヅキ様に怒られたぁ……! せっかく色々なことがうまくいってたのにぃ……!」
涙で濡らした顔をくしゃくしゃにして、昨晩から今日のことを思い返す。
初めは渋っていたが、勇者に頼みを聞き入れられ、使命のためにパンドラの地下迷宮へ意気揚々と出発することができた。
勇者と力と合わせて窮地を乗り切り、良い相棒になれそうだと言ってもらえた。
ダンジョンで用意した食事を美味しいと思ってもらえた。
このときのために必死に勉強してきたことを褒めてもらえた。
エルフである自分に、得られた金銭の管理を任せてもらえるほど信用された。
魔力切れで意識を失っても、仲間だと認められて身体を心配してもらえた。
そして、頭を撫でて頑張りを労ってもらえた。
しかし、それらは全部台無しになってしまった。
使命の勇者が苦手な人間だったことに驚きと落胆を抱え、努めて不安を押し殺して奮闘した成果だったというのに。
少なくとも今のアイアノアはそう思っている。
「私、またやっちゃったぁ……。どうしていつもこうなの……? だ、だけどっ、ミヅキ様だって、わからないことはもっと教えてほしいって言ってたじゃないですかぁ……。混血の人たちのことであんなに怒るなんて思わなかったぁ……。人間が嫌いだっていうのもばれちゃったし……。ああもう、これからどうしたらいいの? うぅぅ、ふわぁーんっ……!」
投げ出した両足をじたばたさせて、誰に言うでもないうわごとを漏らした。
喚き散らす自分の泣き声を聞くと何とも情けない気持ちにもなった。
追い詰められた彼女は、震える唇で物騒な最後の手段を口走る。
「……もう、こうなったらしょうがないわ……。かくなるうえは、闇の精霊の力を借りて、ミヅキ様のお心を強制的に操るか、単純にエルトゥリンの星の加護の力で脅して、無理やりパンドラに着いてきてもらうか……!」
自分でも知らず、アイアノアは人相の悪い顔になっていた。
ただ、すぐに間違いに気付き、浅はかな考えをしていることにはっとする。
「い、いいえ、やっぱりそんなのは駄目……。そこまでしてうまくいかなかったら、私たちへの信用は完全に失われて、今度こそ本当におしまいよっ……!」
やはり非情にはなりきれない。
再び顔を伏せって、ベッドの枕に塞ぎ込むアイアノア。
苦し紛れに飛び出した苦肉の策で問題が解決するはずもなく、彼女の願う理想の結果には程遠く結びつかない。
「姉様……」
そんな哀れな姉を見つめ、エルトゥリンには掛ける言葉が見つからなかった。
あれから二人が宿の個室に引っ込んでから大して時間は経過していない。
アイアノアはベッドで泣いていて、エルトゥリンはドアの前で立ち尽くしている。
悲しみに揺れる姉の背中を見ながら深いため息を一つ。
──やっぱりどうにもならないのかな……。姉様がそうしたいって言うから、人間に良い顔をするのに口を出さなかったけれど……。土台、私たちエルフと人間じゃ仲良くするのは無理があったみたい……。あんなに頑張ってたのに本当に可哀想な姉様……。
「……でも、ミヅキはいったい何をあんなに怒ってたんだろう」
呟くエルトゥリンにも、どうしてミヅキが急に怒ったのか理由がわからない。
異種族間の不和に関しては特に何も思っていなかったようだし、何なら自分たちエルフに対して好意的に接してくれていたようにも感じた。
なのに、キッキが人間と獣人の混血児だとわかり、それを当たり前の社会常識に照らし合わせたアイアノアの見解を聞くと、見る見る内に機嫌を悪くした。
姉がそんなにおかしなことを言ったとも思わない。
エルトゥリンが怪訝そうに小首を捻っていると、背後のドアの向こうに人の気配が立つのがわかった。
コンコン、とノックの音の後、彼女にとっては予想外だった来訪者の声に驚く。
「俺だー、ミヅキだ。話を聞いて欲しい、開けてくれー」
「……ミヅキ?」
一瞬、思考が止まったみたいにドアに振り向いたまま硬直していたが、反応しない姉を横目に見つつ、意を決してゆっくりとノブを掴んだ。
先ほど決定的な訣別を交わしたばかりで、一息つく間もない内に今度は何を話しに来たというのだろうか。
普段から勝ち気なエルトゥリンでも、不安そうに少しだけドアを引き開ける。
僅かな隙間から外を覗くと、そこには悪びれた顔のミヅキの立つ姿があった。
「なに? まだ何か用?」
険のある青い片目がじろりと廊下のミヅキを見つめている。
「う……」
迫力満点な視線に射竦められ、ミヅキは早速と心が重くなった。
さっき姉を泣かされたエルトゥリンの気持ちを考えれば、警戒されて構えられるのは仕方がない。
が、諍いの前後での態度には明らかなよそよそしさがあり、これが本来の種族間にある友好関係の温度差なのだろうと感じた。
冷たい目にたじろぐミヅキだが、そこは負けじとしっかりと要件を伝える。
「さっきはごめん。俺のほうから勝手に怒り出しといて何言ってんだって感じだけど、仲直りがしたい。どうかお願いだ」
「……!」
それはエルトゥリンからすれば思い掛けない申し出で、目を丸くしてしまう。
何を言っていいかわからずに、黙ったまま目をぱちぱち瞬かせているとミヅキは申し訳なさそうに続けた。
「みんなの前でアイアノアを悪く言ってごめんよ。頭に血が上って、言いたい放題言っちまった。同じ怒るんでも良くない怒り方だったよ……。エルトゥリンも気分が悪かっただろ……?」
「う、うん……」
どうやら喧嘩の続きをしに来た訳ではないのはわかったものの──。
エルトゥリンはミヅキが何を言っているのか理解が追い付いていない。
戸惑った様子で頷いていた。
ごめん、仲直りがしたい。
その言葉の意味を何度か頭で繰り返して考える。
ミヅキの弱った顔と後ろのベッドで伏せる姉を見比べて言った。
「姉様を泣かせたのは許さない。仲直りできるかどうかもわからない。……でも、話があるなら聞いてあげる。いいよ、入って」
エルトゥリンは心の中の憤りと諦めの気持ちをぐっと抑えた。
決して他人事では済まない使命のため、ミヅキとの和解に淡い期待を込める。
「ああ、助かるよ。きっちり釈明させてもらうからさ」
ドアを引き開けられ、部屋の中に招かれるとミヅキはアイアノアを視線で探す。
彼女はこちらに足を向けて、ベッドにうつ伏せに寝転んでいた。
アイアノアは背中を嗚咽で揺らすだけで振り向かない。
ばつが悪そうにしながら、ミヅキはもう一台あるベッドの横に立った。
「アイアノア、ここ座るね」
突っ伏して横たわるアイアノアから返事はないが、ミヅキはベッドに重苦しく腰を下ろした。
そのまま、反応のない彼女にがばっと勢いよく頭を下げる。
「さっきは言い過ぎたよ、ごめんっ! アイアノアの気も知らずに俺の都合だけで怒って、ガミガミひどいことをいっぱい言ってしまった! 本当に申し訳ない! ごめんなさい!」
割と大きめの謝罪の声に、エルフの彼女の身体はびくん、と震えた。
弱々しくしおれた長い耳がぴくぴく動いて微かな声で答える。
「……もう怒ってはおりませんか?」
「うん、怒ってないよ」
「……本当ですか? もう怒鳴ったりしませんか?」
「本当だよ。怒鳴って悪かった」
「……本当に本当ですか?」
「本当に本当さっ!」
「……」
少しの間を置いて、力無さげにむくりとアイアノアは起き上がる。
しょげ返った様子でミヅキと向き合って両手を膝にして座り、今まで泣いていた上目遣いの視線がおずおずとこちらを向いている。
しおらしくも美しい泣き顔に見つめられるのは胸が痛い。
最近どうにも女の子を泣かせてばかりだとミヅキは自省に心を痛める。
深呼吸して息を整え、緊張を抑えつつ口を開いた。
「単刀直入に言うね。俺は二人と仲直りがしたい。それで、今まで通りパンドラの踏破を続けていきたい。だから、どうか俺を許して欲しい」
落ち着いた口調で話し、ミヅキもアイアノアの目を真っ直ぐ見つめた。
仲間関係の修復を求め、謝罪を伝える。
その言葉にアイアノアの悲しむ表情は一瞬明るくほころんだ。
しかし、すぐにまた曇ったものに戻ってしまう。
視線を落とし、沈んだ気持ちのままに心の内を吐露していく。
「……許すも何も、私たちには初めから選択の余地は無いのです。エルフと人間、不仲な種族同士とはいえ、どうあっても使命の勇者様と共にパンドラの地下迷宮の踏破を果たさなければなりません……。だけど結局、私は気持ちを抑えられずに、ミヅキ様たち人間を……。き、嫌いだと、はっきり口にしてしまいました……」
ぐっと瞳を閉じ、決定的な感情を露わにしてしまったのを後悔した。
膝の上で握る手には力がこもり、縮こまった両肩をわなわなと震わせる。
ひとしきりそうして、ゆっくりと目を開けてミヅキを見上げた。
「ミヅキ様はお嫌ではないのですか……? 私たちのようなエルフと一緒にいて、身も心も嫌悪感に苛まれておいでなのではありませんか? 当初、使命に臨まれるのをお渋りになられていたのは、……やはり、私たちエルフと一緒なのがお気に召さない、というのが本当の理由だったのではないのですか……?」
それはこの世界における昨日のことだ。
アイアノアは複雑な気持ちを押し殺し、ミヅキに神託の使命を果たすよう伝えたところ、これをけんもほろろに拒絶されてしまったのをひどく気にしている。
使命を断った理由は別にあるのだが、当のアイアノアにしてみれば、必死の決意を軽く一蹴された格好となってしまった。
今となっては当時の態度が裏目に出てしまい、ミヅキは失敗したと後悔した。
「全部記憶喪失の所為にするのは何だか都合がいい気がするけど、俺には昨日今日以前のことはどうにもよくわからん……。だから、実はエルフと人間の仲が悪い、だなんて言われてもちゃんと理解できてるかどうかは怪しい」
言ったそれは本当のところである。
たった二日しか過ごしていないこの世界の記憶は無いに等しい。
知り得ない常識に無頓着なのは仕方がなかったと思うしかない。
理由も無く、ダンジョンに挑む使命を告げられてもそれは同じだった。
「……正直に言うとさ、ダンジョン攻略を渋ったのは、その、言い辛いんだけど、勇者の使命なんかよりも、お世話になってるこの宿屋のことのほうが大事だと思ったからなんだ……。あと、単純に面倒だったってのが本当の理由、かな……」
もう今更体裁を繕う理由は無く、ミヅキも率直に気持ちを語る。
それは思い掛けない言葉だったに違いない。
エルフの二人が驚いて、唖然とする視線を浴びながら弱腰に先を続ける。
「だけど、成り行きだった訳だけど、アイアノアに後押しをされて困ってるパメラさんを助けようと思ったのは本当の気持ちだよ。これが使命だから、だなんて大層なことを思ってパンドラに行った訳じゃないんだ。でも、それが俺が正しく感じる信念に従った結果だったってのは間違いない」
遣わされたエルフの彼女たちと同道するパンドラの地下迷宮の踏破。
どうもそれが世界に魔が溢れるのを防ぐことに繋がるらしい。
「……第一、俺にはもう使命に臨むちゃんとした理由があるんだ。ダンジョン攻略を終えて無事に帰ってくるっていう理由がさ」
但し、ミヅキの至上目的は現世に、夕緋の元に無事で生きて帰ることだ。
そのついでに使命を果たせるのなら結果オーライ、そう考えていた。
だからか、ミヅキの考えを見透かしたエルトゥリンは呆れて首を横に振る。
「軽薄ね……。とんだ勇者様もいたものだわ」
「や、やめてっ。エルトゥリン、余計なことを言わないで……」
ミヅキの意外な本音が飛び出したのには驚いたが、今はエルトゥリンの横槍に話を邪魔されたくないアイアノアは語気を荒げた。
ふん、とそっぽを向く妹を涙目に睨みつける姉の姿を見て、ミヅキは苦笑い。
軽薄と言われれば確かにその通りだと思いつつ。
「利害の一致だなんて言い方は良くないかもしれない。ただそれでも、俺もアイアノアもエルトゥリンも、パンドラの地下迷宮の踏破っていう使命はやらなくちゃならない。だから、先に怒鳴ってしまって我ながら身勝手だと思うけど、二人には引き続き協力をしてもらいたいんだ」
人間と他種族の仲違いは、結局のところでは、この世界の人間ではないミヅキには関係のない話だ。
気持ちを抜きにしてやらなくてはならない使命があるのなら、目的を共にする協力者は多ければ多いほど良いし、それが相当の使い手であるなら尚更お互いの関係は良好であるほうが好ましい。
何よりも、こんなことでせっかく出来たエルフの友人を失いたくはない。
「仲直りしよう。俺が人間で気に食わないってのは一旦飲み込んで、そこは大人の対応で仕事だって割り切ってくれると助かる。だから、今まで通り付き合ってもらいたいんだ。この通り、お願いだ」
そうして、ミヅキは膝に両手を付け、もう一度深く頭を下げた。
直球な思いを伝えられ、アイアノアは両手をあたふたさせて慌てる。
「あっ、頭を上げて下さいましっ! 仕事だと割り切るだなんて……。そ、それはさすがにミヅキ様に失礼というものですっ。協力をお願いしたいのは私たちも同じなのです。私もエルトゥリンも使命を果たすため、誠心誠意ミヅキ様に尽くし、心身を捧げる覚悟に嘘はありません。だから、そのように謝られては……」
頭を下げ続けているミヅキに視線を落とし、エルフの彼女は困惑する。
アイアノアたちだって、何も嫌々仕方なくやっているのではない。
エルフの里の族長より正式に下った勅命により、この使命に臨んでいるのだ。
運命を共にする勇者が、苦手な人間だったからといって任を放棄するなどできはしないし、そんなつもりもない。
「そっか、わかった」
アイアノアの意思を汲み取り、上げたミヅキの顔は安心に笑っていた。
彼女たちのこれまでの行動を思い返し、代わりに語る。
「二人の使命に対する気持ちは本物だよな。そうでなきゃ、無双の強さのエルトゥリンがこき使われてくれたり、魔力切れを起こすまでアイアノアが無茶したりすることもないもんな。うん、その気持ちだけで十分だよ。俺を嫌いにならない程度の付き合いでいい」
瞬かぬ瞳でじっと聞き入るアイアノア。
あらぬ方向に顔は向いているが、視線はこちらを向けているエルトゥリン。
すっ、と右手を差し出すミヅキ。
「二人とはいい関係でありたい。これからもよろしく頼むよ」
求められた握手の手と、ミヅキの顔の間を往復するアイアノアの迷う目。
使命を果たすため、こじれた関係を修復できる願ってもない好機だ。
なのに、彼女は何故か逡巡している。
仲直りの手をなかなか取れずにいると、思わず先に声が喉から出ていた。
「……何故ですか? ミヅキ様は、どうしてそのように簡単に頭を下げることができるのですか? さっきのミヅキ様は……。その、とても怖かった……。わ、私は使命を果たすのは絶望的で、もうおしまいだと思ったのに……」
差し伸べられたミヅキの手に飛びつきたい衝動に駆られる。
下唇を噛みしめ、わなわなと身体を揺らし、潤んだ瞳はミヅキを見つめた。
「教えて下さいまし。何故、あのようにお怒りになったのかを。お恥ずかしい限りですけれど、私には何がいけなかったのかが本当にわからないのです。私の言ったことの何が間違っていたというのですか?」
膝に置いた両の拳をぐっと握った。
思いの丈をぶつけるように必死に声をあげた。
アイアノアの内にあるのは負の思い。
この世界の当たり前への疑念。
決して他人事では済まされない鬱憤がわだかまっている。
今の自分を取り巻く環境には不満しかない。
それらに対し、ミヅキが何かしらの答えを示してくれるのを期待して。




