第11話 悪い夢
赤い竜は薙ぎ倒した兵士たちを悠然と見渡し、足元でへたり込むキッキと、伏したガストンを縦瞳孔の目玉でぎろりと睨んだ。
そして、無造作に開く口から火炎をメラメラと漏らし始めた。
暗いダンジョンが赤い光で照らし出される。
「あっ、やばい!」
瞬時に冷たい殺気をミヅキは悟った。
ドラゴンは灼熱の炎を口から吐き出すのだ。
必殺のファイアーブレスで、兵士たちもろともキッキを焼き払うつもりである。
鉄の溶解温度は1500度以上であり、鉄製の甲冑を容易に溶かすドラゴンの炎はそれ以上の超高温だ。
人間だろうが獣人だろうが、まともに浴びれば骨も残らない。
「ぐ……!」
キッキたちの命が風前の灯火なのは明白だった。
ミヅキの両足も恐怖に絡め取られて動きが鈍い。
──怖い、恐ろしい……。無理だ、どうやったって助けられない……!
ひりひりと全身を刺すような焦燥感に駆られた。
これから目の前で恐ろしい光景が繰り広げられようとしている。
そんなものを想像すると居ても立ってもいられない。
どうにかしなければ、と心の奥底から衝動が突き上げてくる。
「ゆ、夢ってのはさぁ……」
思わず呟きながら、ミヅキの足は弱々しくも前に出ていた。
独り言は自らを奮い立たせるための勇気の素であった。
「夢の中で自分がひどい目にあったり、寝てられないくらいのストレスが掛かったりするとさ……。自然と、すぐに目が覚めるもんだろ……?」
誰に言うでもなく、声を絞り出しながら少しずつ前に進む速度を増していく。
一歩を踏み出すごとに石畳の床を踏みしめる力は強くなった。
「──猫耳の可愛い女の子がっ、ドラゴンの炎で焼かれるシーンなんて見せるんじゃねえよっ……! 胸くそ悪いこんな悪夢はさっさと終わりやがれってんだ!」
もうミヅキは駆け出していた。
やけくそ気味に両手を派手に振り、キッキの元へと一心不乱に走っていく。
「くっそッ……!!」
叫んだ罵倒の言葉は何に向けてのものか。
今朝起きてから、さっきまでの短い付き合いの猫の獣人の少女、キッキ。
夢か現か、いるのかいないのか、それすらはっきりしない幻想の対象であり人物である。
今日一日にも満たない短い間の付き合いだ。
たった一回朝起こしてもらって、たった一回朝食を共にし、たった一回店の掃除をして、たった一回重い荷車を引いてここまで来ただけの仲だ。
身体を張って、命を懸けて、守ろうとするには理由は足りないかもしれない。
しかし、ミヅキが知らない忘却の記憶の彼方では、パメラと親子二人で行き倒れていた自分を保護し、今日まで世話をしてくれていた。
夢の中の話だから恩返しは不要、と思えるほどミヅキは薄情ではなかった。
「……助けて、ママぁ……!」
絶対的な死を目前にした哀れな少女は最後に母親に縋り、絶望と恐怖に身を小さく折り曲げた。
伏せた絶望の顔、閉じた瞳に浮かぶ涙。
頭上には炎を浴びせ掛けようとする獰猛な巨竜の姿。
ミヅキは無我夢中に、その刹那の瞬間へ飛び込んだ。
「──うぉおおおおおおあああああああああああああぁぁぁぁァァァァッ!!」
雄叫びをを上げて、ミヅキはキッキとレッドドラゴンの間に割り込んで入った。
竜に背を向けた格好で、両手を広げて立ちはだかった。
それは、レッドドラゴンが灼熱の炎を吐き出すのと同時だった。
瞬間、空間が真っ赤に染まる。
ゴオオオォォォッ、と激しく荒れ狂う炎がミヅキを、キッキを、ガストンら兵士たちを瞬く間に飲み込んでしまう。
ミヅキが身を挺して庇ったとて、どうにかできる状況ではなかったのは言うまでもない。
覚悟を決め、目を閉じて最後に思った。
──まぁ、これが夢だっていうなら、もうそろそろ目が覚める頃だろ。猫の獣人の女の子を格好良く庇って、はっと気がつけばもう朝さ。子供を庇う夢は大切な人を守りたいっていう意識の暗示らしいな……。俺の守りたい大切なひとか……。
真紅の光が視界を埋め尽くす中、ミヅキはやけにスローモーションに流れる時間をぼんやりとした意識で感じていた。
大切なひとを思うと、アパートの自室にあるフォトフレームに収められた思い出の写真のことが頭に浮かんだ。
写っている二人の少女の顔を思い出す。
──夕緋ちゃんと、それに……。
そして、炎に巻かれて絶体絶命の瞬間が訪れた。
寝覚めは悪いが、夢を見続けるのも潮時だったろう。
随分と凝った設定の夢だったものだと、またも自身の想像力に呆れていた。
「……んん? 何だ……?」
但し、不思議なことにいつまで経っても目が覚める気配が無い。
それどころか、自分を取り巻く状況が一向に進んでいないのに気付く。
ミヅキは怪訝に思い、恐る恐る目を開けた。
すると、明らかな異変が起こっていた。
「な、何が起こったんだ……?! これはいったい……」
狼狽えるミヅキは、未だにダンジョンの中に居た。
キッキたちを庇って両手を広げたまま、その場に立ち尽くしている。
何がおかしいのか理解するのに時間は要らなかった。
「みんな、止まってる……。時間が停止でもしてるのか……?」
呟きつつ、ミヅキは広げた両手をだらんと下ろした。
唐突に周りのものすべてが、時が止まったかのように動きを止めていた。
炎を吐きかけるドラゴン、怯えて縮こまっているキッキ、倒れている兵士たち。
いずれもぴたりと制止して身動き一つしていない。
動きが止まれば音もせず、修羅場の割に静まり返っているのは滑稽であった。
通りで熱さ苦痛といった感覚や、目覚めの時がこなかった訳だ。
『太陽の加護・緊急接続』
「うわっ?!」
無音の世界に急に声が響いて面食らう。
いや、声がしたのは自分の頭の中からだ。
時間が止まり、音を失い、明らかな異常事態に謎の声が聞こえてくる。
いよいよこの夢か幻が、突飛も無い様相を見せ始めたのかもしれない。
「あ、全部消えていく……」
驚いている暇は無く、ミヅキを取り巻く環境にさらなる不可思議が起きる。
キッキも、兵士たちも、ドラゴンも、ダンジョンそのものまでが。
ミヅキ以外全部、徐々に薄く白んで消えていく。
あらゆるものの輪郭がぼやけて滲み、色を失って見えなくなってしまった。
「なんだよ、何も無くなっちまったじゃないか……」
不安げに呟くミヅキは途方に暮れる。
どちらが天か地かもわからない白く広大な空間で、ぽつんと漂っている。
頭の中まで真っ白で呆然としていたが、意識だけは妙にはっきりしている。
研ぎ澄まされた冷えた感覚が身体を芯から覚醒させていく。
そして、再び──。
声とも音ともつかない、その言葉が静かに頭の中に流れ込んできた。
『太陽の加護との同期確認・並行処理を開始』
「誰だよ、さっきから頭の中でよくわからんことを言ってるのは……」
果ての無い白い空間で、ミヅキは感覚に直接響く声に顔をしかめた。
何とも機械的で無感情な声が自分の奥から聞こえてくる。
訳がわからず不機嫌にしているミヅキを無視して置き去りにし、声は勝手に状況を進行させている様子だった。
『迷宮の異世界用素体「勇者のミヅキ」・照合完了』
『──加護本体の開封を開始』
「ああもう……。いくら夢だからってもうちょっと説明してくれたっていいだろ。俺を置いてけぼりにして勝手に話を進めんでくれよ……。意味不明でわかりにくいのは嫌われるぞ。ちゃんとわかるようにやってくれないと困るなぁ」
不親切な不可思議に、ため息混じりに不満を漏らす。
そうして視線を落としていると、言った苦情に答えてくれたみたいに音の無い白い世界に変化が訪れた。
不意に金色の光が目の前に飛び込んでくる。
「これは大変失礼を致しました。緊急を要する事態の為、このような形での出会いのご無礼、どうかご容赦下さいまし。──神託に選ばれし勇者様」
それは頭に響く無味乾燥な声とは別の、澄んだ女性の声だった。
何かを言う間もなく、やって来た金色の光はすぐにミヅキと同じくらいの身長の人の形を取り、淡い光を放って立ち上がる。
ふわっと背中側に広がる長く美しい金色の髪。
この世のものとは思えない美しい顔立ちに長く尖った両耳。
その身体は金色に輝く光で出来ており、まるで女神が降臨したようだった。
ゆっくりと開く二つの緑の瞳がミヅキに優しい視線を向けた。
慈愛に満ちた、柔らかな微笑を浮かべている。
「うわぁ……! きっ、きき、君は……!?」
いきなり現れた光の美女にミヅキは大層驚いた。
と、その顔と姿には見覚えがあり、すぐに記憶が巡って思い出せた。
名前も知らず、面識も無く、今はただの赤の他人。
「街で見掛けた、エルフのお姉さんっ……!」
ミヅキはうわずった声をあげた。
現れた光の美女は、ここへ来る前にトリスの街ですれ違った美しいエルフの旅人の内の一人、金髪ロングヘアーの姉のほうのエルフだった。
憧れのエルフの存在が印象深かったお陰か、彼女の記憶は即座且つ鮮明にミヅキの脳裏に甦ってきていた。
「きちんとしたご挨拶はまた後ほど……。まずは貴方様に眠っている大いなる御力を目覚めさせます。力を抜いて心穏やかに、あるがままを受け入れて下さいまし」
そう言うと、エルフの彼女は光を放ちながら両手を差し出した。
滑らかなその手の先から、さらに眩しい光が溢れた。
光は火の玉さながらに黄金色に燃え上がる光球である。
光球は二人の上へと緩やかに昇っていった。
「──これなるは太陽の加護。与えられし役目を今ここに果たします」
太陽が上がればそこは空となる。
真っ白なだけだった空間に光が生まれた。
世界に概念が訪れ始めたのである。
「貴方様は探し求めていた使命の勇者様です。お会いできるこの時をずっとずっと心待ちにしておりました。ただ今、馳せ参じさせて頂きますねっ。……ですので、どうかそれまで持ち堪えていて下さいまし」
今ここに居ないかのような言葉を残して、そのままエルフの彼女は光を舞い散らせ消えていく。
消える最中、微笑みを浮かべ続ける彼女の表情には、隠し切れない歓喜が溢れて見えた。
「あっ、待ってくれよっ! 結局、何も説明してくれないのか……。みんな言いたいことだけ言ってくよな。まったくもう……」
どうやらあのエルフが助けに来てくれているらしい。
彼女が探してた勇者が自分だとも言った。
しかし、詳しい事情は教えてもらえない。
はっきり言って状況がよくわからず、置いてけぼり感が著しい。
「すぐに終わりますから、ね」
ふて腐れるミヅキの耳元に、困った風に笑うエルフの声が届いた。
再びの機械みたいな音声が響き、事態はさらに大きな変化を起こすことになる。
『基本能力の解放・及び、加護使用に於ける情報の転送を開始』
「うおっ!?」
瞬間、ミヅキの足元から火山の噴火のような光が爆発的に立ち上がった。
光はただの光ではなく全身の隅々、心の奥底にまで入り込んできて満たす。
それらは言うなれば、魔力や霊力といったものであり──。
ミヅキがこの不可思議なる「加護」を、すべからく使うための情報であった。
文字であり図であり絵であり映像であり、様々な形状をとった知識の洪水だ。
無数の情報や知識は、無限の白い空間に広がって宇宙のようになっていた。
とてもではないが、覚えられそうにない膨大な情報量に関わらず、すべて頭の中にすいすいと吸い込んでいく。
次々と物凄い勢いで頭に飛び込んでくる情報群に、まるで自分がブラックホールにでもなった感覚になり、累積していく情報を成すがまま受け止めていた。
「俺の想像力、すご過ぎないかっ……!? ピンチになったら取って付けたみたいに眠っていた力が目覚めたぞ……! 覚える気なんてさらさら無いのに、色んなことがどんどん頭に入ってくるっ……! ご都合主義だなぁ……!」
ミヅキは自分の突飛な発想に驚くを通り越し、感心をする思いだった。
少なくとも、まだこれをよく出来た夢の類いだと考えているからだ。
状況はまだまだ終わりを見ない。
『──地平の加護・発動』
そして、脳に響く案内音声はその能力の名を告げるのだ。
全身に大きな力が漲って充足し、頭の中心、精神の深奥に集束して備わる。
潜在していたそれは無理矢理引き起こされた。
明澄に覚醒していく意識は、頭上に輝く太陽の如き光を認めていた。
今度は純白の世界の彼方に、ゆっくりと水平に走る線が浮かび上がる。
茫漠の空間は上下真っ二つに分かれていく。
それは、限りなく広がっていく地平線、その現れであった。




