間話イオリの初陣
師匠の元を離れた私は町のメインストリートを歩いていました。
師匠には、メインストリートと呼ぶと変な顔をされましたが、どうしてでしょうか?
そんな大仰な名前は合わんじゃろうと言っていましたが、私には充分すぎるほど大きな通りです。
そんな通りを歩いていると、ふと影が太陽を遮りました。
鳥でしょうか。私は何の気なしにそちらに目をやり、目を疑いました。
人でした。
正確にはまだ幼い少年、私と同い年かもう少し小さいかもしれません。
そんな子が、屋根の上に立っていました。
なんでこんな所に――、そう思う間もなく少年は飛び降りていました。
飛び降りた先には美味しそうなパンを載せたトレーがありました。
少年はトレーをおもむろに掴むと器用にバランスを取りながら走り出します。
店主のおばさんがすぐに気づきましたが、少年は小柄な体型をうまく使っておばさんの両腕を綺麗に躱しました。そのまま一目散に逃げ去っていきます。
「だ、誰かー! また悪ガキが来たよー!」
すると、ガラ……! と、あらゆるお店の戸が開かれ、一斉に大人たちが現れます。
こんな騒ぎは一度や二度ではなかったのでしょう。
少年も大人も流れるように広い交差路に飛び出します。
大人たちが次々に飛びかかりますが、少年は踊るように避けます。
少年は帽子を深く被っていて、顔は未だに窺えません。
ですが、どうにも手馴れているような……?
やがて少年は大人たちの手を躱しながら、器用にトレーの上のパンをむんずと掴みました。
「お前ら、取っとき!」
ポンポンポンっ! と投げられたパンはそれぞれ三方に散っていた他の少年たちの元へ放り投げられてしまいました。
呆気にとられる大人たち。
そしてその間隙を縫うように、少年は私の方へと向かってきました。
止めなくちゃ! と慌てて剣を構えますが、人間に剣を向けるのは(師匠を除くと)初めてです。
私は少し、視線を下げてしまいました。
そこをチャンスと捉えたのか、少年は私に向かって腕を振り抜きました。
途端に、ガキィン!!!
と、重たい振動が私の剣を弾きました。
少年の手に握られていたのは、取り回しがしやすそうな短刀。
風のように走り抜けようとする少年の影へ向けて、私はとっさに剣を振り抜きました。
剣の切っ先が、少年の帽子を掠めました。
ヒラリ……。
飛んだ帽子を目で追いながら、少年は足を止めませんでした。
いえ、帽子の中にしまわれていた髪は、紐で結われていて、その姿は少年のそれではなく――。
――少女のようでした。
私は走り去る彼女を呆然と見つめることしかできませんでした。
「くそぅ、相変わらずあの主犯格の小僧はすばしっこいなぁ!」
「小賢しいチームワークだ! 四方向に分かれて逃げるなんて!」
「お嬢ちゃんでも捕まえられなんだか。こりゃお師匠様のほうじゃねえと無理だなぁ」
町の大人たちが私を慰めてくれていました。
しょうがない。相手が上手だった、と。
けど、私はまだ負けていません。
ちゃんと勝負をしたら勝てるはずです。
追いかけっこだから逃げられただけです。
だから、今度こそは真正面から勝負をします。
私は意を決して、走り始めました。
どうせ居場所はわかっています。
昨日も近くまでは向かったんです。
町跡の廃墟に彼らは住んでいるはずです。
私は呼び止めようとする大人たちを無視して、郊外へと向かうのでした。
崩れた市壁。落ち葉は誰も掃いたりはしないようです。
朽ちた土壁に屋根だったものがわずかに残っているだけ。
そんな廃墟に人が住んでいるなんて、ちょっと信じられません。
ですが、ここに彼らがいるはずです。
私はゴクリと唾を飲み込みました。
人の気配がないだけで、こんなにも雰囲気が変わるものなんでしょうか。
一瞬だけぶるりと震える背中を気にしないようにして、私は一歩一歩落ち葉を踏みしめます。
彼らは、いるはずです。
姿が見えないだけで、どこかに、必ず。
石壁の裏? 崩れた家の影? それともまた屋根の上?
キョロキョロと見回しますが、誰もいません。
僅かな風に揺られて木々が囁くだけで、私の心臓はきゅうっと縮み上がってしまいそうでした。
怖くないです。怖くないです。
そうやって胸を押さえつけながら、私は警戒を厳にしていました。
「よう来はったな、おチビ」
木陰から姿を現したのは、あのときの少女でした。
「……ひとりだけですか」
「んなわけないやろ」
途端に、ぞろぞろと周りから少年たちが現れました。
すでに取り囲まれていたようです。
ゾクッと、背筋に悪寒が走ります。
「ついてきたっちゅーことは、ウチらにしばかれたいっちゅーこっちゃな?」
「お店から物を盗むのは、いけないことです」
「せやったらなんや? おチビが騎士様の真似事でもしにきたんか? 笑わせんな」
少女はパンをかじるとモグモグと口を動かしながら喋ります。
行儀が悪いです。
私は不快感に眉に皺が寄ってしまいます。
「こちとら食うのに困っとるんや。恵んでもらえへんのやったら奪うしかないやろ」
「きちんと働けばお金をもらえます!」
「そら、恵まれたやつだけや。おチビみたいになぁ」
少女の目つきが鋭くなりました。
「そんなことありません! 真面目に働けばちゃんと――」
「それがあかんかったからこないなっとるんやろ!!」
私は思わず身が竦んでしまいました。
たぶん、初めて見たからだと思います。
ここまで明確な悪意というものを。
言葉が通じない。話ができない。
それを痛感してしまったんです。
だから、私は剣を抜きました。
私にはこれしかありませんでした。
師匠からもらったものは、剣だけ。
ううん、命も、名前ももらったけれど、それでも師匠はきっと剣だけに生きています。
だから私はそれを受け取るんです。
師匠が大切にしているものだから。
それが師匠の魂だから。
だから私も、剣を持ちます。
言葉よりも剣のほうが雄弁に物を語るって、師匠はそう言っていましたから。
「ほーぅ……、奇遇やな。実はウチも剣持っててん。昨日山小屋で拾ったんやけどな」
「昨日? 山小屋? 一体何のことですか?」
「ほれ、この剣、見たことあらへんの?」
小振りな短刀……、そういえば何処かで見たことがあったかもしれません。
けど、刀剣の類なんて持っているのは師匠ぐらいしか……。
ま、まさか……!
「それは、師匠の剣!」
「はは、ビンゴや」
師匠の剣を悪事に使われた。
その事実が、私の頭を鈍器で殴りつけたかのように痛みつけました。
……許さない。
……師匠の剣を悪さに使うなんて、絶対に許しません!
「やああああああああああ!!!!」
私は全速力で駆け出しました。
木の葉を巻き上げながら、全力で少女の元へ。
その剣だけは、取り返さなければなりません。
ですが、ズボッッッッッ!!!!
急に視界が揺らぎました。
私の眼前が突然低くなっています。
動こうとしても動きません。
足が何かに絡め取られてしまったような……?
「落とし穴や。自分、嵌ってもうたんやで。意味わかる?」
その瞬間、物凄い勢いで少女の爪先が突っ込んできました。
最初に思ったのは怖い、という気持ちでした。
落とし穴に嵌って身動きが取れない恐怖。
集団に囲まれている恐怖。
初めての人間の悪意。
蹴られた鼻はツンとなって痛い。
師匠にぶたれたときよりも、地面に転ばされたときよりも、ずっと痛い。
怖い。
痛みよりも、恐怖が勝ちました。
自分に向けられる底なしの悪意が、何よりも怖い。
顔をボコボコにされるのよりも、人に向けられる暴力のほうが、何倍も恐ろしかったです。
鼻血を垂らして、涙を流しながら、何度も何度も「助けて、許して」と言いました。
悔しかったです。
師匠の剣を悪いことに使われて。
だけど、それを止められなくて。
自分が弱かったせいで、罠に嵌って。
申し訳なくなりました。
こんな弱い自分でごめんなさい。
師匠の剣を守れなくて、ごめんなさい。
私は譫言のように謝り続けました。
私の意識が霞みゆく中、師匠の顔が浮かびました。
師匠は相変わらず優しく微笑んでくれました。
そして、言いました。
『で? それでお主はどうするんじゃ?』
……私?
私ですか……?
『このまま負けで良いのか? 諦めてしまって良いのか?』
だって、仕方がないじゃないですか。
向こうは四人がかりで。こっちは一人。
罠に嵌って、抜け出せません。
勝ち目なんて、もうないですよ。
『ふむ。まぁ、それもひとつの答えじゃろうな。それをわしは否定はせんよ。ただ、それはわしのやり方とは違うな』
師匠のやり方?
何なんですか、一体?
『わしのやり方? そんなものは決まっとる。たとえ刃が届かずとも、必ず一矢報いる。わかるか? 反撃するんじゃ。どんな僅かな一撃でも良い。立ち向かうんじゃよ。こなくそ! ……の精神じゃ』
こなくそ。
あのときは分かりませんでしたけど、今ならなんとなく分かるかもしれません。
そうですね。こなくそです。
数で負けても、罠に嵌っても、初めての悪意に怯んでも、屈辱に泣いても、こなくそです。
勝負に負けても、心まで負けるわけにはいきません!
顔面に向かってくる蹴りを、今度は正面から受け止めます!
そして、今度は掴みました!
「いつつつ!!! 何しとんねん自分! 靴越しに噛みついてきよる!」
「うううううううう!!!! ぐうううううううううううううううう!!!!!」
「離せ! 離せっちゅうねん! アホ!! 痛い痛い痛い!!!」
どんなに惨めでも良いです!
私の心は、絶対に折れません!!!
少女が引き剥がそうと拳で殴りかかって来ますが、どうでも良いです!
死んでも離してやるもんか!
「痛いいいいい! やめてええええ! 誰か、助けてええええええええ!!!!!!」
泣きわめく少女を睨みながら、猛犬よろしく歯を食いしばり続ける私でしたが、さらなる闖入者のお陰で不毛な戦いは幕を閉じるのでした。
「イオリ。もう充分じゃ」
私を引きずり出してくれたその温もりに感じながら、私は意識を手放しました。