第七話
老婆が残した書き置きには困ったらいつでも呼んでほしいとあったけれど、どうやって呼べば良いのかレイチェルにはさっぱりわからなかった。
でも、エミリーが結婚式の前に会ったと言っていたからこの近くにいるのかもしれない。レイチェルは試しに小声で魔法使いのおばあさんを呼んでみたがやっぱり何も起こらなかった。
そんなに上手くはいかないなと思って今度は外に出て呼ぼうとしたところで庭の石に腰掛ける老婆の姿があった。
「あっ!おばあさん、もしかしてわたしの声が聞こえたんですか?」
「ああ、聞こえてきたからすぐに来たんだ。何か困ったことがあったのかい?」
「はい、あの、おばあさんのおかげで美人になってすごく、嬉しかったんです。それでジョセフ様、えっと、旦那様に出会って結婚することになって、最初はこの人大丈夫なのかなとか色々考えたんですけどいつの間にか好きになったんです。今朝、シンシアの雫を飲みました。それも、きちんと魔法で色がついたものです。魔法は打ち消し合うって聞いて、不安になってしまって…」
「シンシアの雫は魂の結びつきを強くするものだけどお嬢さんにかけた魔法とは干渉しないはずだよ。それに、素敵な旦那様に愛されて幸せなんじゃないのかい?」
「幸せです。だから、騙してるのが辛いんです。元々のわたしは美人じゃないのにずるしているのが申し訳なく思えてきたんです。ジョセフ様のことが好きだからこそ、これ以上嘘をつくのには耐えられないんです。おばあさん、お願いです、わたしの顔を元に戻してください」
「もう、決めたんだね?」
「はい。お願いします」
「今すぐに元に戻すことも出来るけどきっと後悔するよ。きちんと旦那様にお別れをしておいで、明日のこの時間にまた来るから。美しい思い出はこれから先の人生を灯してくれる。これは人生の先輩としてのアドバイスだよ」
「……はい、ありがとうございます」
その日の晩、レイチェルはジョセフの部屋にやってきた。お別れを直接言えば彼は止めるだろう。だから、最後に思い出を作ろうと思った。美しい姿でジョセフに愛される。そしてここから去って元の姿に戻してもらう。
ジョセフのことだからきっとすぐに職場やエミリーのことを調べるだろう。だから縁もない遠くの街へ行こうと思った。必死に頑張ればなんとかなるだろう。
これまでだってそうしてやってきた。ひとりで生きていくことには慣れてるのだ。だから、大丈夫だと自分に言い聞かせた。
「ジョセフ様、わたしにあなたの愛をください」
「レイチェル、良いのかい?それはとても嬉しいけど、焦らなくても良いんだよ?」
「いいえ、わたし、ジョセフ様のことが好きなんです。だからもう大丈夫です。覚悟を決めました」
「なるべく優しくするけど夢中になってしまったらごめんね。レイチェル、わたしの天使、愛しているよ。君がいてくれるから私はまともになれた。愛を知った。初めて会った時にわかったんだ、君に会うために生まれてきたんだって思えた。だから、これからもずっとそばにいて欲しい」
レイチェルは曖昧に微笑んでから彼に近づいた。ジョセフはレイチェルの指先にキスをしてから、その身体のすべてに彼の愛のしるしを残した。レイチェルは緊張したけれどとても幸せだった。満たされることを知って、この瞬間をずっと覚えておこうと思った。
目を覚ますとジョセフが隣ですうすうと寝息を立てていた。起きている時はとてつもなく美しいけれど、寝顔は少しだけ幼く見えた。さらさらの黒髪を撫でると彼は少しだけ身じろぎした。その姿が可愛い、と思った。
老婆が来るまでまだ数時間あった。いつもと違う行動を取ると怪しまれるのでいつも通りに食事をして、本を読んだ。
それから温室で小さな青い花を観察した。異国から取り寄せたというその花は小さく可憐でとても気に入っていた。その花が咲く地に行ってみるのも良いかもしれない、隣の国の北の方にあるらしい。
この屋敷に来てまだそんなに経っていないはずなのに思い出がたくさんできた。見たこともないくらい大量の蔵書、温室で咲く色とりどりの花々、とても美味しい食事、器用で頼り甲斐のある侍女、そして優しい手をした美しい人。そのすべてがレイチェルにとって宝物のような思い出になっていた。
昨日と同じ時間に外に出ると石の上に老婆は座っていた。その周りには小鳥が集まっていて、まるでお伽話の善い魔女のようだった。
「こんにちは、おばあさん」
「やあ、お嬢さん。きちんとお別れはできたかい?」
「はい。素敵な思い出を貰いました。だから、この先何があってもきっと大丈夫です」
レイチェルがそう言うと老婆は微笑んで、ポケットから取り出した銀色の細い棒を振った。きらきらと銀色の粉が舞ってレイチェルの方へと流れてきた。
「魔法の杖、持っていたんですね」
「ああ、なくても大丈夫なんだけどあった方が集中しやすいんだ。お嬢さんに助けてもらった時は、たまたま持っていなくてね。あの日は新月だったから自分に魔法をかけることができなくて、本当に困っていたんだ。魔法も万能ではない、人を生き返らせたりすることはできない。魔法使いにはルールがあって、その理を曲げることはできないんだ」
「魔法ってそんなルールがあったんですね。わたし、魔法がとても珍しいって言うこと知りませんでした。いや、珍しいっていうことは知っていたんですが国中にひとりもいないくらい珍しいとは思っていなくて。だから、すごい体験ができました。人からちやほやされたり、見たこともないご馳走を食べて、それにとても素敵な人に恋をしました。結婚だってしてみたかったんです、諦めていた夢が叶いました。おばあさん、本当にありがとうございました」
「良いんだよ。困ったらまたいつで、いや、半年くらい当番があるからその後ならいつでも呼んでおくれ。優しいお嬢さんの幸せを祈っているよ」
「ありがとうございます。また、いつか会いましょう」
老婆は杖を一振りしてその場所から消えた。石の上には初めから誰もいなかったようにカマキリが鎌首を擡げていた。レイチェルはその場を離れると裏門の方へ歩き始めた。今日の空は何だかとても青くて目に染みた。
魔法が解けてもマーサたちの努力のおかげか髪は前よりは綺麗な灰色だったし、手は相変わらず美しかった。その薬指には内側に小さな青い石の嵌め込まれた銀色の指輪がきらりと光った。レイチェルはこれだけは貰っていこうと決めていた。その輝きを見るだけでいつでも思い出せるから大丈夫だと言い聞かせた。裏門を出る時、小さくありがとうと呟いた。そして彼の街から離れた。
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後半の話の転機の回からタイトルが変わります。