第六話
その日の夜、初めてジョセフとレイチェルは一緒のベッドで眠った。レイチェルは緊張して心臓が止まりそうだったがもう夫婦なのだからこれは普通のことだと思い直してジョセフに向き直った。彼は微笑みながらレイチェルの髪にキスをした。それから頬、くちびる、鎖骨、手の甲、指と優しくキスをした後、震えるレイチェルをそっと抱きしめた。
「君が怖いならまだやめておこうか、私はこうやってそばにいられるだけでとても幸せなんだから」
「ジョセフ様、わたし、あの」
「しっ、これ以上言わなくて良いよ」
いつかのようにジョセフはレイチェルのくちびるに人差し指を当ててそれ以上の言葉を封じた。レイチェルはもう彼への気持ちを自覚していて、それを隠すことに限界を覚えていた。幸せは甘くて、ひとたび与えられると際限なくそれを望んでしまう麻薬のようだった。もうすでに彼の虜で中毒のようになってしまったのだ。レイチェルの潤んだ目を見つめて、ジョセフはにっこりと美しく笑った。そして彼女のくちびるにもう一度キスをした。
目が覚めると隣にジョセフがいて、レイチェルのことを愛おしそうに見つめていた。昨夜は結局あれ以上のことはなかった。それでも彼の腕の中で眠るのは幸せだった。近付くと彼からは柔らかなムスクの香りがした。それが自分にも移っていることがとても特別でレイチェルは嬉しく思った。
食卓に着くと搾りたてのオレンジジュースに分厚いトースト、カリカリのベーコンの入ったサラダにチーズの入ったオムレツが用意されていた。今日もとても美味しそうだった。レイチェルは久しぶりに満腹まで食べた。最近は悩むこともあり食が細くなっていたのでマーサも心配していた。空になった皿を見て侍女たちも嬉しそうだった。
食事が終わると家令がとても美しい瓶に入った青い液体を小さな杯に注ぎ、レイチェルとジョセフの前に置いた。今までそんなものを食後に出されたことがなかったのでレイチェルは不思議に思った。そして、ジョセフの方を見ると珍しく困った顔をしていた。
「ジョセフ様、この飲み物は何ですか?とても綺麗でジョセフ様の瞳の色みたいです」
「うん、あはは、これはね、うーん」
言い淀む彼に呆れ顔のマーサが言った。
「何を口籠もっているんですか旦那様、仕方ありません、わたくしが説明致しましょう。それはシンシアの雫といって初夜を無事に終えた夫婦が飲んで家の繁栄を祈るものです。飲むとお互いの結びつきが強くなるという言い伝えもあります。味は蜂蜜酒に似ていますがお酒は入っていませんので、ほら、ぐいっと召し上がってくださいませ」
マーサが急かすように言うのでレイチェルは何もなかったとは言えないままその杯を呷った。喉が灼けるような濃くて甘い味がした。咽そうになったが何とか飲み切って杯をテーブルの上に乗せた。そんな彼女を見てジョセフも覚悟を決めたようにそれを呷った。
「相変わらず毒みたいな味だ、これは苦手なんだ」
「え、ジョセフ様は以前にも飲んだことがあるんですか?」
「はい。旦那様は昔、その瓶の美しさに惹かれてそれをこっそり飲んだのです。しかも、当時いた若い侍女と一緒に。それはそれは大騒ぎになりました。旦那様はその意味を知らなかったでしょうが侍女の方は下心があったみたいですね。14歳とはいえ美しい少年でしたから、それにとても将来有望ですしね」
「騙されたんだ。これを飲めば愛する人に出会えると言われて信じてしまった。当時の私は人を好きになるということがわからなくて悩んでいたんだ。その後、両親にとても叱られて1週間家から一歩も出ずに聖書の書き写しをさせられたよ。苦い思い出だ」
「ジョセフ様にもそんな頃があったんですね。わたしにとっては初めて会った時から完璧な人だったのであんまり想像できないです」
「ああ、まだ未熟だったんだ。でも、今は人を愛するということがわかった。それは君のおかげだよ。私の天使」
「大袈裟じゃないでしょうか?」
「いいえ、ちっとも大袈裟なんかじゃありません。旦那様が女性をこの家の応接室以降に入れたのは奥様が初めてでした。この年齢になっても縁談を断り続けるなんて普通じゃありません。だからわたしは奥様が来てくれて本当に嬉しいんです。旦那様は人よりとても優秀ですが変わった方なので…」
確かにジョセフは変わっている。でも、先程の言い方だと彼が初めて好きになったのがレイチェルという風に聞こえた。20代後半の男性の初恋がこんなに遅いというのはやっぱり少し変なのかもしれないなと思った。
レイチェルの初恋は孤児院にいた頃に一緒に過ごした褐色の髪の少年だった。一緒に野原を駆け回って大人たちに怒られたりした彼女よりも年上の彼はいつの間にか遠くの街へと働きに出て、それ以来会っていない。その後は自分の食い扶持を稼ぐために必死で恋をする暇なんてなかった。だから、今まで誰ともお付き合いをしたことがなかった。なのに気付いたら何故かこの美しい人の妻になっていた。人生というのはどうなるかわからない。
「ところで、レイチェル。シンシアの雫を飲んでから私のことが特別に見えたりするかい?」
「いや、普段とあまり変わらないですね」
「そうか、やっぱり迷信なんだろうか。これは子どもが生まれた時に親が用意するんだ。本来は透明な液体を子どもの瞳と同じ色に魔法で染める。庶民でも手に入れることができるものは初めから色がついていて魔法はかかっていないが、これは私の両親が魔法使いを隣の国から呼んで染めさせたというから何かが起こるんじゃないかと思っていたが杞憂だったようだ。でも、君が私を愛してくれるようになれば良いなと考えてしまったよ」
「魔法ですか、魔法って二重にかかったりすることってあるんでしょうか?」
「何故そんなことを?魔法は打ち消し合う作用もあるから二重にかかるとはあまり聞いたことがないな。でも、この国には今、専属の魔法使いはいないから一般人が魔法にかかる機会はないんじゃないかな?」
「……そうなんですね。魔法使いってそんなに貴重な存在だったんですね」
「ああ、遠い東には魔法使いの国があるというけど目眩しの魔法がかかっていてその存在は謎に満ちている。私も幼い頃には魔法使いに憧れたよ」
レイチェルは手遅れになる前に今すぐにでもあの老婆に会わなければいけないと考えた。これ以上、ジョセフに迷惑をかけないためにもそうしようと決意した。
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