第三話
相談した結果、来週の日曜日に結婚式をあげる事になった。普通結婚式というのは準備が色々必要なんじゃないかと思っていたけどジョセフ様がすごい速さで終わらせていくのできっと決行できるんだろうなと思った。
ジョセフは毎朝おはようと言ってから髪や指に口づけをした。出会ってからずっと流され続けているけれどその美しい青い瞳に見つめられるとレイチェルは蛇に睨まれた蛙のように身体が動かなくなってしまうのだった。
「いよいよ明日、名実共に君が私の妻になるんだね。妻、人妻、ああ、良い響きだね。かなり急がせたけどドレスも間に合ったし本当に明日が楽しみだよ。披露宴ではきっとコルセットが苦しくてあまり食べられないだろうから式が終わったら2人でゆっくりとご馳走を食べようね」
「はい。あの、わたしの方はお伝えした通り職場の同僚のエミリーと店長とおかみさんに来ていただくんですがジョセフ様側の出席者って何名くらいになるんでしょうか?」
「かなり厳選して減らしたんだけど50人位来るんだよね。あっ、親戚とかは挨拶されてもにっこり笑っていれば良いからね。何なら無視してもいいし。もし私がいないところで君に対してマナーがどうとか言う輩がいたら家令でもマーサでも良いから近くにいる者にすぐ言うんだよ?ね、約束」
げんなりした顔をした後ににっこりと微笑んでやたら早口で言い切ったあとこちらに小指を向けてきた。つまり、指切りげんまんと言うやつだろう。短い期間だけど一緒に暮らして来てわかった事がある。ジョセフは意外と子どもっぽいというか可愛らしい一面がある。そういう部分を見つけるとまあ結婚してから好きになれるのかなと少しだけ前向きになれるのだった。レイチェルは自分の小指を差し出してジョセフの小指と絡めた。指切りげんまんなんて子どもの頃以来だなとぼんやり考えた。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
「うん。これで大丈夫だね。嘘ついたら本当に針千本飲ませるからね。いや、君が傷付くのは嫌だから君に失礼な事を言う輩に飲まそうね。あ、そういえば明日特徴的な髭の大男が来るからその人だけは一応来てくださってありがとうございますくらいは言ったほうが良いかも。でも、レイチェルの美しさに心を奪われて求婚されても困るしなあ、どうしようかな。いっそ来られないように足止め…」
後半の方は不明瞭で聞き取れなかったけれど碌な事じゃなさそうだったのでレイチェルは聞き直さなかった。そして、髭の大男が来たら言葉遣いに気を付けようと心に刻んだ。
緊張して眠れないという事も特になくしっかり寝てマーサに起こされるまでレイチェルは一度も目を覚まさなかった。今日は屋敷の人間だけではなく髪結いや仕立て屋も一緒になってレイチェルを磨き、コルセットをきつく締め上げてとても複雑な髪型に結い上げた。
「まあまあまあ!何て美しいんでしょう!まるでおとぎ話の妖精姫のようだわ。こんなに素敵なレディが旦那様の奥様になるなんて本当に嬉しいわ。レイチェル様、本当にありがとうございます」
「あっ、はい。こちらこそ…?」
レイチェルは息も絶え絶えそう答えた。この屋敷に来てからコルセットを着けた事はあったがあれらはまだまだ優しいものだったんだなと思った。本気のコルセットを着けると息をするのも一苦労だった。この状態で式と披露宴を過ごすなんて正気じゃなかった。しかも用意されている靴もすごいのだ。ジョセフとレイチェルの身長差を考えて作られた白いサテンで出来た16センチヒールのパンプスは角度がもはや直角なんじゃ無いかなという見た目でちょっとした凶器にも見えた。何度か履いて歩く練習はしたけどこれで転ばずに過ごせるのかかなり不安だった。
鏡に映る自分の姿を見て、レイチェルはため息を吐いた。とても繊細なレースを贅沢に使ったベルラインのウエディングドレスはパニエでたっぷりと膨らませたスカートの形が美しく、艶のある銀髪は複雑な形で結われ、真珠のピンがたくさん挿されて上品な光沢を放っていた。雪のように白い肌に薄紅色の頬紅と口紅で丁寧に化粧をされたその顔はまるで本物のお姫様のようだった。老婆に美しくしてもらった時も驚いたがたくさんの人の手が入った自分の姿はその何倍も美しくてレイチェルは後ろめたくなった。
「この姿、ジョセフ様は気に入ってくれるかしら?」
「勿論です!奥様!」
若い侍女や髪結いがきゃあきゃあと盛り上がっているのを見てレイチェルは少し楽しくなってフフッと笑った。これからこの締め付け状態で凶器のような靴を履いて半日微笑み続けることを考えるとかなり気が重かったけど皆が頑張ってくれたしやるしかないと両手で頬を叩いて気合を入れた。
いつから立っていたのか扉を開けるとジョセフにぶつかりそうになった。彼はレイチェルを見て5秒ほどフリーズしてからその手をぎゅっと握った。
「あまりの美しさに声も出なかったよ。ああ、こんなに素晴らしい女神が私の妻になるなんて!生きていて良かった。私はこの瞬間の為に生まれて来たと言っても過言ではないね」
「いや、流石にちょっと過言じゃないでしょうか…?」
「さあ、私の女神。手袋を嵌めさせておくれ」
「あっ、はい。お願いします」
繊細なレースで出来た肘上までウエディンググローブをジョセフはうっとりとした表情でレイチェルに嵌めていった。二の腕に彼の指が触れると擽ったくて彼女はびくりと震えた。それを見たジョセフは顔を手で覆ってから天を仰いだ。
「あっ、失敬失敬。ちょっと正気を保てないから10秒待ってくれないかな?」
「はい?ジョセフ様大丈夫ですか?」
普段から言動や行動が変わっているジョセフだが今日はより一層変だった。もしかしてウエディングドレスがツボだったんだろうか。自分でも美しいと思ったくらいだしそうかもしれないなと思ったけれどこのテンションで披露宴が終わるまで持つのかレイチェルは心配になった。
「レイチェル、私は君の美しさに正気でいられそうにないよ。結婚式が無事に終わるとはとても思えない」
「あ、それは同感です。この靴でちゃんと過ごせるかすっごく不安ですし胸が苦しいです」
「もしかするとそれは恋かもしれないよ。私のタキシード姿はどうだい?」
「恋…?いやコルセットがきつくてですね、タキシードはとってもお似合いです。白じゃなくて銀なんですね。光沢があってすごく良い生地ですね」
「生地じゃなくてもっと他を褒めてくれても良いんだよ。色はね、君の髪の色に合わせたんだ」
「なるほど…?とにかく今日は頑張りましょうね、旦那様」
そう言ってからにっこりと微笑むとジョセフが膝から崩れ落ちてしまったのでレイチェルは旦那様と呼ぶのはやめようと心に決めた。妻とか奥さんとか女神とか妖精とかそう言う恥ずかしい呼称で呼ぶので意趣返しをしたつもりだったけれど思った以上にダメージを与えてしまったようだ。
玄関を出てすぐの所に馬車が停められていたためレイチェルはホッとした。もうすでに足が痛いのだ。披露宴は座っていて良いと言われているけど式の間は殆ど立って歩くのかと思うと既に憂鬱だった。
教会に到着すると既に何人か招待客が来ていてその中にはエミリーの姿も見えた。燃えるような赤毛をアップに纏めて瞳の色に合わせた光沢のある深い緑色のドレスを着た彼女は贔屓目なしにとても美しかった。周りにいる若い男性たちもエミリーの方をチラチラと見て明らかに気にしているようだった。
エミリーはレイチェルに気がつくとこちらへと小走りでやって来た。ハイヒールでも何なく移動している所を見てエミリーはやっぱりすごいと思った。エミリーはレイチェルの事を上から下へとゆっくり3回見直してからこう言った。
「素晴らしいわ、レイチェル。こんなに綺麗な花嫁さんは初めて見たわよ。細部まで凝っててすごいわねぇ、さすがジョセフ様」
「このドレスに幾らかかってるか考えるだけでも眩暈がしそうよ。エミリーもとっても綺麗だわ。もう誰かに口説かれたりしちゃった?」
「ジョセフ様の招待客の方は流石に上品ね。視線は感じるけど失礼な事は全くされていないわ。レイチェルを見ててわたしも玉の輿とかちょっと憧れるなぁとか考えてたけどやっぱりこういう大規模な式を見ると大変そうだなって気持ちのが前に出ちゃうわね。それにしても素敵なドレスねぇ、ウエストとかそれどうなっちゃってるの?」
「これはね、コルセットよ。もう息が止まりそうだわ」
「これが貴族のコルセット…!噂には聞いてたけどすごいわね。でもくびれが強調されてるからスカートの広がり方がとっても綺麗よ。お人形さんみたい」
「足ももう限界なんだけど頑張るわ。わたしの勇姿を見ていてね
「あっ、そう言えばいつもより大きいわね。まあ何とかなるわよ。応援してるわ。あとここに来る途中におばあさんからあなた宛にお祝いのカードを貰ったわよ。ほら、これ」
花びらの模様が付いた薄い青色のカードには独特の癖字で【結婚おめでとう。あなたの幸せを祈っています】と書かれていた。
「あー!!これ黒いローブのおばあさんから?わたしあの人にもう一度会いたいのよ」
「あら、そうなの。知り合いだと思ったけど複雑な感じ?また会ったらレイチェルが会いたがってるって伝えておくわよ」
「ありがとう。助かるわ。ブーケトスはあなたの方に投げるからね!」
「勿論、ジャンプしてキャッチするわよう!披露宴の料理も楽しみだわぁ」
「こんにちは、エミリー。そろそろ、レイチェルを返してもらっても良いかな?」
背後から投げかけられたジョセフの声はとても優しかったが多分今振り向いたらきっと怖い顔しているんだろうなとレイチェルは考えた。そして、目の前のエミリーの表情がそれを雄弁に語っていた。
「あはは、長話しちゃってすみません!あまりにレイチェルが綺麗だったので!今日はお招き頂きありがとうございます。改めてご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。それじゃあまた後でね。いつもレイチェルに良くしてくれてありがとう」
エミリーはそれでは失礼と言ってからささっと2人から離れて飾られた花をじっと観察するふりをした。それから誰にも聞こえないような声で「女にも嫉妬するタイプなのねぇ、怖いわぁ」と呟いた。
レイチェルは教会の控室でマーサに長いレースのヴェールをつけて貰っていた。これもまた見事な品でジョセフの財力に慄いた。そんな彼女を見てジョセフはにっこりと微笑んだ。さっきまでの不機嫌が嘘のようににこにこしているのでこの人本当にわからないなと彼女は思った。
「あの、ジョセフ様、エミリーに対してあんまりガルガルしないで下さいね。わたしの大事な友達なんですから」
「ごめんごめん。一生に一度のウエディングドレス姿の君を独占されたのが面白くなくて」
「何を言ってるんですか、独占してるのはジョセフ様の方ですよね?だってわたしの旦那様になるんですから」
ジョセフはまた膝から崩れ落ち、レイチェルはデジャブだなと思った。あんな風にしてタキシードが汚れないか心配になったけどまあ彼の事だから上手く汚さないように膝をついているだろうと考えてから大きなため息をついた。
外に出ると雲ひとつ無い青空でまさに結婚式日和でジョセフの引きの強さみたいなものをひしひしと感じた。教会には既にたくさんの参列者が待っていた。一様にそわそわしているのはジョセフの選んだ花嫁がどんな女性なのか皆知りたくて堪らなかったからだ。
この国の結婚式は白いリボンを持った新婦が先に歩いてその端を持った新郎が後から着いていくというものなのでレイチェルは絶対に転びませんようにと祈りながら一歩一歩前に進んだ。その緊張感が参列者には喜びを堪えて粛々と歩いているように見えた。新婦は妖精のように美しいだけではなく慎み深い女性なんだなと彼らは思った。
「流石ジョセフ様の選んだ方だなぁ。あんなに綺麗な女の人は初めて見たよ」
「俺もだ、何だか奥様が光り輝いているように見える…」
「奥様の友達もすっごい美人だよな、この街の顔面偏差値どうなってるんだ」
「でも、横にいる夫婦は普通だぞ」
「確かに。まあジョセフ様自身が信じられないくらい美人だからなぁ、あれで元騎士副団長でめちゃくちゃ強いなんて信じられないよなぁ」
「だよなぁ、でも副団長に任命されてすぐに領地に引っ込んで伯爵になるなんて思いも寄らなかったよなぁ」
「ああ、天が二物も三物も与えたのがジョセフ様だよなぁ。顔も地位もお金も強さもあるなんてここまで来ると嫉妬する気も起きないよなぁ」
「間違いない」
ジョセフは見た目も血統も頭も良いが耳も良かった。つまり地獄耳だった。なので、こそこそとそんな話をしている元部下たちをどうやって絞めてやるかなと一瞬考えた。けれど、隣にいるレイチェルを見ると他の事は全て些事に思えた。緊張しているのか黒い瞳を潤ませて小さく震える彼女はとても美しかった。早く式を終わらせて2人きりになりたかった。
愛を誓いますかという神父の言葉に、「誓います」と力強く答えた。レイチェルは震える声でか弱く「誓います」と答えた。ジョセフはレイチェルのヴェールを持ち上げてその手首に白いリボンを結んでから頬にキスをした。そして軽々とレイチェルを横抱きにして早歩きでチャペルから出て行った。
「あれ?なんか進行おかしくないか…?」
「だよなぁ、どうしちゃったんだろ」
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