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骨の男  作者: 若井狼介
9/10

    五

 屋根伝いに流れた雨が、水浸しの庭にびしょびしょと落ちている。そろそろ終わりがけのワイドショーでは、アナウンサーがむつかしい顔を作って天候の心配を報じている。衛星から撮った日本上空の画像を根拠に説明をつけなくとも、凶事の兆候なら苗の発育に現れていた。このところは、幸子の町内会の面々が愚痴にこぼすのも議題に挙げるのも農作物の状態と、今後への懸念である。長い間稲作を生業にしてきた地元の者達は、統計の及ばない直感から、昔話になりかけていた未曾有(みぞう)の不作を思い起こさないでもなかった。代替わりをして比較的歳の若い農夫の間からは、すぐにも打てる対策を求める声が早々と挙がっている。例えば止まない風雨に体を晒し、泥まみれになろうとも気にしない祖父は、寄り集まりの前に軽く一風呂浴びて早い晩飯をとっていた。この地区ではいつも神社の社務所を借りて集まる。離れの地鎮祭に来た、あの神主の神社だ。彼を残し先に年老いた妻は、寝込む以前は彼の後について時おり集会に顔を出し、町の行事にも好んで手伝いに出た。今夜は息子が勤めを切り上げて出席したいと言う。四十も半ばを迎えた息子の曇った表情が浮かんだ。

「ごちゃごちゃ考えたところで、どうもならんわえ」

 彼は渋めに出した茶をすすって一息つくと、固い膝小僧を叩き威勢よく「どっこいしょ」と言い、背伸びをして、縁側に立てかけておいた蝙蝠傘(こうもりがさ)を差しながら夕刊を取りに出た。雨が傘布を打ちつける。水墨画よろしく色の失せた景色の三四間程先に、ぽつんと黄色い傘が目に入った。幸子が一人で歩いて来る。その重い足取りを、祖父は大方クラブ活動で疲れでもしたのだろうと思ったが、先月にも農作業の合間に孫がとぼとぼと帰って来る姿を見かけていた。

「おお、帰ったか」

 声を掛けられて初めて祖父に気付いた幸子が傘を上げた。

「ほれ早よ家に入らんか。こりゃあ、ますます荒れるぜ」

 祖父は正面のけぶった山に顔を向けて目をしかめた。幸子は「わかっとる」と言い返し、今度は怒ったような早い足取りで家に入っていく。その後ろ姿を祖父がじっと見守っている。

 彼は今日に至るまで、自分を大切にするから他人も大切に出来るという順序で生きては来なかった。戦前の産まれである。物の本から得た知識教養を応用した体験ではなく、自らの経験を以って心に知恵の年輪を刻んできた。とはいえ、戦中に教わった自己犠牲の精神を意識して実践するでもない。この老農は、人間の惨たらしい屍を踏んで故郷に戻り、以来農業に従事してきたのである。滅多(めった)に愛情を口にせず、態度にすらあらわさないから、何かにつけ無愛想な印象を与える。けれども内面では血を分けた家族を慈しみ、生業を誇りに感じているのだ。彼は彼の親兄弟や祖父母から教わったとおりに、仏壇に手をあわせて神社を拝み、土地に礼を払うことを欠かさない。

 祖父が目線を玄関から離れの方角へと移した。溜まった雨の重みで(くぼ)んだ作業用シートの下の、無縁仏の魂魄(こんぱく)に、彼は家長として非礼を詫びている。続けて治りはしない妻の延命を願い、加えて今日は幸子の幸せを祈った。同居の息子と嫁、そして下の孫娘の平穏な生活を前提にした祈りである。俺だけの頼みごとを上乗せするのはいやらしい。仏さんも大変だったに、おこがましいじゃあないか。素直な祖父は普段どおり「自分はいいから頼む」という結び方で、幸子への気掛かりや集会の予定が頭にあるためか、普段よりも強く願を掛けると、傘を仕舞って縁側に上がった。

 雨のざあざあと降る音のほかに音のない、静かな黄昏時である。青ざめたシートの端から流れた水が、透明な(しずく)となって地面に(こぼ)れた。

 幸子は床の間の隣部屋に寝転び、ぼんやりとしていた。制服は脱いだまま椅子に放って、本棚から抜き出した漫画を手にごろんと横になっている。ページを開けていても頭に入らない。体育のマット運動では、幸子が前転をする番になると、ゴールポストの下に体操座りをした奈美らがにやにやとする。国語の時間には、教師が指した机の縦一列が教科書の羅生門を朗読し、その列に幸子がいるだけで、また決まった面々から今度は笑い声が漏れた。そこで幸子が極力控えめな動作に徹すれば、「ネクラ」だの「ヘン」だのとそしり、努めて明るくすればしたで反感が矢のように降り注ぐ。

 何をしようが、一時が万事こうなのだ。事の起こりは奈美の鶴の一声であった。目立って幸子を追い詰めたのは、退屈しのぎになりそうな獲物を物色していて、奈美に追従した女生徒達である。他のクラスメートへの対面上、始め少女らはかろうじて抑え気味にしていたのが、いやがらせを繰り返すにつれ行動が大胆になっていった。活発な生徒に気に入られやすく、生徒のあしらいが上手い担任に、幸子が告げ口をする心配ならまずない。少女達は端からそうふんでいて、自分達の自由が通らない学校生活の中で共通の刺激を見つけ、楽しみを共有することで仲間同士の結束を固め、個々の自信を膨らませていく。このずうずうしい未成年の力競(ちからくら)べを、同年代の狭い集団においては面白い遊びごとだと見間違える者も少なくない。しかし、女生徒とほぼ同じ数だけいる男子生徒は、女生徒同士の力関係を蚊帳の外に置いて興味を示さなかった。男子生徒は男子生徒同士のポジショニングを、自分達のより単純な基準で決めていたためである。この頃の男子には、思春期の爆発的な発育がまだ肉体にあらわれてはいない。彼らはその中でも一番背が低く細身の男子を馬鹿にした。同時にクラスで一番肥えた女子を極端に嫌い、大声で罵声を浴びせることも既にしていた。奈美達のように体面を気にするでもなく、時にはふざけてあからさまに罵るのである。

 C組の男子生徒にとって、さして目立たない幸子を意識する動機がなかった。むしろ彼等には、奈美の周囲の女子から偉そうな臭いがすることのほうが気に障る。身体測定の時間に教師から叱られていた少女の、鼻の下にある小さな黒子(ほくろ)が不快感を逆撫でする。そのため、奈美達の態度を疎ましがる声もなくはなかった。ただ奈美自身の器量は決して悪くはない。奈美の目つきや大人びた振る舞いは、女生徒の中で特に垢抜けて見えたし、彼等が奈美の鷲鼻(わしばな)を茶化す場合は、明らかに好意の裏返しであった。

 結果から先に書けば、男子生徒をけん引する数人が、ひょんなきっかけ一つで奈美と折り合ったのである。理科の時間、初老の教師が男女を混ぜた五十音順で班に分け、生徒達は各班ごとに簡単な実験を行った。休憩を挟んだ次の給食の時間には担任が来て、C組の自分の机に同じ献立を並べた。それでもなお幸子と朋子の席目掛け、決まった女生徒からちらちらと視線が注がれる。気にした幸子が注意深く椅子を前に引くと、学らんを着くずした男子の席から笑いが起こった。担任は別の生徒と会話を楽しんでいる。頼みの朋子は背をまるめて、パンにマーガリンを塗っている。

 ひ弱な男子とよく肥えた女子に加え、幸子がいじめられる光景が、C組のスタンダードとなった。ただし中には異端もいたと断っておかねばならない。内心は眉をひそめ、いじめる行為が鬱陶(うっとう)しいと感じていたり、陰ながら心を痛めている生徒もいるにはいた。しかし少数派の少年少女にとって、知らないふりをする以外の現実的な行いを、C組というコミュニティーの内側からでは容易に見出せない。友人の朋子でさえ、申し訳なさそうな顔をして幸子から離れていった。

 先にふれたとおり、朋子にはいじめられた経験がある。親譲りの引っ込み思案と朋子自身の注意深い性質が、保育園という新しい環境を受け入れられず、すっかり馴染むまでには日にちが掛かった。保育士が朋子を抱いてあやすたび、ませた園児から妙に手馴れた意地悪をされた。何しろ近隣に保育園は一ヶ所しかない。(わず)かな例外を除き、園児達は同じ小学校に繰り上がるのであるから、卒園しても朋子はいじめられっ子のままでいた。ところが、二年生の夏にリーダー格の女児が転校してから状況が緩やかに一変する。リーダーの周囲に集まっていた面々が仲間割れを始めたのだ。新しい嫌われ者の位置には、()り合いに負けた女児が押し込められた。朋子は、学生生活を一年単位で無難に消化していくために、生徒間のパワーバランスの把握を怠らない。半月前には一部の女生徒から漂うきな臭さを嗅ぎ取ったあまりに、自分の身に迫った災難だとばかり思い込んだ。けれども彼女にとって重要な「当事者は自分ではない」という点を、その日の帰りには敏感に察知していた。幸子が教室を抜けざま浴びた野次を、朋子の耳は聞き逃さなかったのである。しかし、始まったばかりのいじめに自分が巻き込まれない可能性がないとは言えない。心細くてたまらなかった朋子は、例えば朝教室に入るとき、朋子を先に歩かせておいて自分の席に着く幸子の心理をも感じ取っていた。友人だと言った幸子の行動が嬉しいはずもない。反面、心のどこかではわからなくもない気がした。それよりも朋子がはっとしたのは、彼女が先に教室に入っても、一部の女生徒は嫌悪感をぶつけなかったという事実である。

 幸子とは着かず離れず会話を心がけ、家に帰って宿題のテキストを開きながら朋子は考えた。悪いとは思うけれど、やっぱり幸子ちゃんとこれ以上仲良くなれそうにないかも。明くる日、昇降口を入って曲がった角の柱で普段通り待っていた幸子を、朋子は素通りした。呼び止められたので笑い返すだけにして、教室への階段を急いだ。

 幸子のただ一人の友人は、それきり幸子に寄り付こうとはしなかった。給食の時間は辛うじて机を近づけたものの、残りの休憩時間には朋子が教室を出て戻らない。部活動では隣同士で座ったのに、もう反対隣の、余所のクラスの一年生におずおずと話しかけ、幸子の知らない小学校の思い出話を交し合っている。今まで奈美という存在の重圧に怯え、子分にも見える奈美の友人達に虐げられて辛くとも、幸子が飲み食いを忘れることはなかった。むしろ憤懣(ふんまん)を溜め込むたび家の中では間食の量が増したのに、この日は帰宅しても物が咽喉を通らない。翌日はずる休みをしたくて粘った挙句、父に叱られ、母に車で通学路の途中まで送ってもらった彼女の目に、絶望的な答えが焼きついた。いつも黒板の横で、典型的な田舎娘が三人輪になってお喋りしている。野暮ったいのに嫌われないグループに朋子が入り、割りあい打ち解けて会話を楽しんでいる。四人が一緒にきゃっきゃと笑った。

「朋子に裏切られた」

 意識に上った自分の断定にまた動揺しながら、自動的に一時限目の教材を用意する。程なくして始まった朝のホームルームも授業の開始も、「裏切られた」を念じたままやり過ごした。耳たぶと頬ばかりが熱を持っているのに背中は寒い。今日から本当にどうしよう。(うつむ)いた顔のはれぼったい両目から落ちた涙を、使い込んだ机の天板が緩く弾いて(にじ)ませる。その(はし)を鉛筆でつついて横に引き、幸子が使う前から削られていた切り傷へ染みこませる。朝方の明るさが弱まり、代わりに強まった雨風が窓の薄手のカーテンを揺らしている。思考の焦点が定まらないまま、鉛筆の芯の色をした傷をなぞっていると、教師が生徒の机をまわって歩く気配に気付いた。はっとして咄嗟(とっさ)にノートをとっているふりをすると、黒色が普段よりも紙にこってりと付くことに気付いた。そこで下を向いたまま教師が通り過ぎるのを待ち、もう一度濡れた溝をなぞって簡単な落書きをしてみた。やはり書き味がいい。続けて好きなアニメのキャラクターを描いてみる。芯の当たり具合が気持ちいい。なかなか像を結べずにいた彼女の空想が湧き出し、いつもより細部を描きこんだ力作に仕上がった。睫毛(まつげ)と生え際を何度もなぞり返したため、目が異様に大きくなっている。幸子は時間の経つのも忘れ、瞳の中のハイライトや髪の毛を塗りつぶし始めた。芯がみるみる磨り減って添え木の部分が当たり、紙を引っかいてもやめない。横の男子が奇異の視線を浴びせようとも気付かず、片腕でノートを抱くように囲い、腹に溜めた煮こごりを()き出して猛然と叩きつける。

 次の時間も、そのまた次の時間も絵を描いて過ごした。降り始めた雨のお陰で、昨日の夜から幸子を悩ませていた体育の実技が取りやめになったため、教室で授業を行いますと学級委員が言いながらプリントを配っている。またチャイムが鳴り、差し迫ったもう一つの危機に気持ちが焦り出した。給食の時間はどうしよう。――プリントがまた落書きで埋まっていく。埋まるごとに幸子の想像力は大胆になり、この後のシュミレーションを描き始めた。

 C組には早くから男子達に毛嫌いされ、同性の輪からも浮いた少女が一人いることなら、幸子も当然知っていた。彼女自身何となく近付かないでいたこの少女に、わざわざ身を寄せ合っている女子が二人いる。(たと)えるならば陰日向(かげひなた)の陰にしかいない、クラスの底辺を選んで静かにしている二人だ。幸子は、耳年増の女子が二人を指して「親が出戻り」だの、「よそ者」だのと陰口を叩いていたのにも気付いている。ただ出戻りはさておき、本当のところ彼女には、よそ者が何故いけないのかがぴんとこない。彼女の伯父方の誠二は、関東から泊まりに来るのである。誠二は船木をはじめ、近所の誰からも愛されている。耳年増が自分の親から聞いたという(そし)り口調は、どうも良くない二人だという印象を与えるに充分であった。ただ幸子は、よそ者にあたる少女となら、まだ誰もが手探りで中学校に順応しようとしていた時期に、いくらか会話を交わした覚えがある。名を依子(よりこ)という。朋子は、比較的話しやすい相手をあてに居場所を確保した。昼休みの校内放送が流れ始める。背に腹はかえられない。幸子は、教室の後ろの角に机を移動させている少女達に話しかけた。おかっぱの一人が引いた椅子の足が床と擦れて音を立てたのを、内心迷惑に思いながら、彼女は愛想よく一緒に座っていいかを尋ねた。おかっぱも大柄の少女もおずおずした笑顔で頷き、依子が「いいよ」と応えたので、そのまま依子の隣に机を並べることが出来た。地声のか細い依子は、前歯の矯正器具を気にしてか口数も少ない。前髪を眉の上で切りそろえ、こしのあるたわわな髪を三つあみに結って下げている。その髪や肌は色素が薄く、皮まで薄そうな頬には、綾子のようにくっきりとしたえくぼが凹む。幸子は仲良くするなら依子だと思った。

 こうして幸子は、集団生活のアウトラインを踏み越えないで済んだ。依子とおかっぱ頭が気を配って話しかけてくる。残りの一人は食うことに専念している。やはりC組からはみ出しているのは、斜め前で縮こまって汁をすすっている少女であって、幸子が新たに取って代わる事態は起こらなかった。それはいいとして、彼女は今出来た仲間達を、小学校から親しい知人には紹介しないでおこうと思った。依子がいるぶんましではあるにせよ、依然飯が不味く感じられるし、咽喉(のど)の通りもよくない。周囲に見劣りする仲間を、じきに完成する自分の部屋には呼べそうにない。彼女は内心(みじ)めさを噛みしめている。

 午後の授業も保健体育から始まった。近く開催される球技大会に向けたカリキュラムである。昼前と同じ臙脂(えんじ)のジャージの教師が、ぴんと張った弦をはじくような口調で「起立、礼」の号令をかけた。その間にも、伊吹(いぶき)山に絡め取られた梅雨雲がじとじとと雨を降らせている。教師は教壇から生徒達を見渡し、折からの悪天候にふれて首を傾げた。次いで少し時期が早いがと前置きをして、期末テストの出題範囲を進められるだけこなすと言った。中間テストと球技大会の後、間をおかずして期末テストが行われるため、教える側は気が急くらしい。もっとも、口紅を引いただけの顔にはそれらしい表情の起伏が表れていない。この学校には体育の受持ちが二人いた。一人は、板前か整備工にでもいそうな角刈りの強面(こわもて)で、もう一人はショートカットの女性である。後者は今C組で教鞭(きょうべん)を執っている。角刈りは生活指導を兼任するベテランで、素行が極めて乱暴な生徒との対話を一手に引き受けている。左を指せば右に向かって暴走したい未成年に、手綱を引いてなだめるような教育が出来るものでもないが、かと言って彼は、意外や人懐こい目元にブラウンのレンズの眼鏡を掛け、脅しのような反抗にも涼しい顔で応対する。どうやら彼も学生の頃は無軌道で馴らしたらしく、不良であることを自負する生徒ほど、彼に親睦の態度を示しやすい。臙脂(えんじ)のジャージの教師は、C組の担任と同年代で、他の学校に赴任した経験はない。身長は低くとも姿勢がよく、言葉数は少ない。毎年新しく書いては掲載される、校内新聞の教師の自己紹介の欄には、必ず空手の段位と師範の名言を記入する。

 授業の始めに配られたプリントの、マット運動の図解や、バレーボールの審判のジェスチャーを描いた時代遅れの絵柄にクラスから笑いが起こる。臙脂(えんじ)のジャージは苦笑いをした後、(てのひら)を鋭く叩いて響かせた。教室が水を打ったように沈黙する。それでも女生徒からくすくすと笑いが漏れると、

「しつこい。出て行くか」

 後にはもう、チョークが黒板を打つ音しか聞こえない。全体のやや後ろに席がある幸子からは、最後に叱られた女子のしょげ返った背中がよく目に入る。この娘が、女の体育教師に憧れを抱いていることを幸子は知っている。体育の授業の前後に黄色い声を出して(はばか)らないからで、奈美の取り巻きは好意的に茶化している。他の生徒がどう感じているかは幸子にもわからないが、数人の男子が「気持ち悪い」と囁きあう小声なら耳で拾った。また自分に対する陰口かと思ってひやりとしたが、すぐに違うとわかった。いつまでも(うつむ)く女子の背中を気の済むまで見た幸子は、また鉛筆を動かし始めた。授業の内容は半分聞きで、前の時間に使ったプリントの、裏側を表に二つ折りしたのを両腕で囲い、漫画のキャラクターを描いているのである。途中で自然と自分なりのアレンジがつき、だんだんと別物に仕上がっていく。髪のところどころを塗らずに残して艶を表すつもりが、(わず)かな隙間もないほど真っ黒な髪になった。塗りたくることが面白いので眉をなぞって太くさせ、次に両の黒目の光と白目を塗り潰す。目玉全体をずっくり潰しきったら、アーモンド型の眼窩(がんか)が抜け落ちた、性別のわからない顔が出来あがった。湿気と汗を吸ったセーラー服が皮膚にへばりつく。幸子は自分が描いた絵から、不意に骸骨を連想した。さっと消しゴムを掴んで落書きを消しにかかる。日々の憤懣(ふんまん)鬱積(うっせき)するにつれ、怪奇漫画やテレビの心霊特集に惹かれてならない、迷信深くて怖がりの子供らしい、忌み物を回避するための方法である。ゴムの摩擦によれた紙の繊維が、芯の鉛色を噛んでいる。筆圧がかかった部分が(くぼ)んで形だけ留めているので、幸子が思わず指で撫でるとつるつるとしている。良い発見をした心持になって頭を上げ、隣の男子の冷たい視線に気付いた。腕を引っ込めた直後に教師が通過した。幸子は自分のタイミングの良さにほっとして、さりげなく肘つくと、表情を隠しつつ隣を(にら)みつける。細いなまじりが痙攣している。そうしているうちに長い一日の授業が終わった。

 しかしまだ掃除が残っている。とうとう当番が回ってきたのだ。幸子はなかなか家に帰れない。

 (かばん)を持ち、依子には挨拶をして教室を抜けると、幸子は渡り廊下を突き当たりの手前で折れた。引き戸の上に、視聴覚準備室のプレートが下がっている。隣の視聴覚室は閉まっているものの、準備室は普段から鍵がかけられていない。校内暴力は起こりうるとして、凶暴な部外者の侵入は想定されていなかった時代である。部屋に入ると、独特のかび臭いようなにおいが幸子を歓迎した。初めはこの臭気が得意ではなかったが、今では彼女が一番落ち着いていられる場所になった。準備室は整頓された物置といった状態である。教師が清掃の点検をするのは視聴覚室までで、なおかつ幸子にとって幸いであったのは、同じ当番の顔ぶれに、彼女を(さげす)む生徒が混じっていないことであった。壁のドアの反対側から話し声が聞こえて来た。あらかじめ幸子は、同じ当番の生徒達に準備室の担当を申し出てある。皆もじゃあよろしくねと答えた。準備室へは、廊下に面した二枚一組の引き戸と、部屋の突き当たりにある、廊下側から見て右に取り付けられたドアから出入り出来る。奥行きなら言うに及ばず他の教室と変わらないが、横幅は狭い。両端には、パンチで開けたような穴が規則的に並んだ白い壁が施され、壁のほぼ全面を高くて長い棚が塞いでいる。棚の中にはファイルビデオがびっしりと、下段にはまばらに詰まっている。廊下から入ってすぐの左の壁沿いには、人が通り抜けられる隙間が確保されており、右には使わない机が二段重ねにして計六組積まれている。幸子は決まって、この机の山に体を隠すようにして、一番突き当たりの窓辺にある椅子に腰掛けるのである。

 モップを手に持ち、一人で外を眺めながら掃除の時間をやり過ごす。横のドアも廊下の戸も滅多に開きはしない。開ける者があるとすれば、それは昨日まで友人であった朋子であった。雨足はさらに強まり、校内の雑踏を打ち流していく。幸子は思考のスイッチを現実から理想のストーリーへと切り替えた。嫌な相手が転んだり、軽い事故にあう程度の復讐劇を妄想し、それも嫌になると、好きなアニメのアナザーストーリーを夢中で膨らませる。恋愛の真似事のようなシーンを想像したらむず(がゆ)くなって、軽く頭を振ったときに、正面の棚の上段が目に入った。角に置き去りにされた雄の(きじ)の剥製が、見事な扇のような羽根を広げている。隣の部屋は既にしんとしていて、人気のないことに気付くと同時に雨音がぶり返して迫る。少し前にドアごしから「帰るよ」と声をかけてくれたのを、幸子はすっかり聞き逃していた。棚の下にモップを投げ、彼女は(かばん)を取って昇降口へと降りていく。いいストーリーが描けたので口元がにやけてしまう。

 扉を支える暗い柱のフレームが、どしゃ降りの校庭を縁取っている。外から吹き込む雨風に半袖の腕が粟だち、校庭の外縁の坂を下って交差点を越えた辺りで幸子は疲れたと呟いた。歩くと靴下にまで泥水が染みたことが感触でわかる。スカートの裾が濡れてふくらはぎに(まと)わりつく。泣きたい気分になった彼女は、道の水溜りを避けずにばしゃばしゃと進み、帰りがけに作った妄想に(ふけ)り始めた。

 その矢先、幸子は自分の名前を呼ばれたような気がした。

「ああいたいた、サチ、こっちこっち」

 いつの間に橋を渡ったものか、雨がかき曇らせた陰気な田園風景の中に、手を振る母の姿がある。裸足でつっかけ草履を履いた母の脇には、幸子の家の車がワイパーをかけたまま停まっている。

「あれ、お母さん」

 母を見て、彼女は家に着いた時と同じ安堵を覚えた。くたびれている時に運よく迎えに来てくれたのなら有難い。そう思う反面(かん)に障った。考えないようにしていた学校での苦痛が、親への不満を伴って喉元までこみ上げてくる。母は娘の(かばん)を引ったくると早口で喋った。

「良かった、学校に電話しようと思ったんだけど、もう帰ってくると思ったでさ」

「は? 何それ」

 幸子は母の顔を(すく)い上げるように睨んだものの、せっつく母に背中を押されて車に乗り込んだ。

「何いやめてよ、お母さんパートは?」

「早引けした。幸子。お祖父ちゃんが倒れた」

 

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