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骨の男  作者: 若井狼介
8/10

    四

 しんしんと夜が深けていく。ほぼ規則正しく並んだ民家の列からぽつり、またぽつりと灯りが消えると、底冷えのする星明りの上に三角錐の黒い紙を重ねて貼り付けたかのごとく、真っ暗な家屋の影がただ続いて見える。生気の失せた通りに立ちつくす電柱が、往来の途絶えた辺りに照明灯をかざしては、誰に知らせるでもなく道路の在りかを知らせている。三つの矢印が三方を指した路面標識の、どちらの行き先も闇の中にある。住人達が暢気(のんき)に睡眠の砂原に自我を沈めた(まにま)に、敷地の外から根を張った遠近(おちこち)の木々は、暗がりと同化して一つの大きな塊となり、花冷えの微風に揺れている。かつてこの界隈が小山であった証を伝える雑木林は、地域の生活環境の美化を念頭に、木立を活かした遊歩道にする構想がまとまっていた。県が主導を取り、自治体の総意のもと来年にも工事が着工される、まさにその予定区域にある個人の私有地から発掘された遺物に対し、結論から述べるとすれば、当面調査を続行しない方針が確定した。

 手荒な造りの石組みが埋もれていたのは、中世の地層である。鎧櫃(よろいびつ)と仕立ての良い辻が花が、平民の持てる物ではない代物なのは論じるまでもない。

 けれども、市の教育委員会の(なにがし)が、頭蓋に皮膚や毛髪の付着が見られない点をまず指摘した。土に触れていないのであれば、乾いて破れた頭皮の成れの果てか、抜け落ちた髪の毛がなくてはおかしいと言うのである。しかし(びつ)には綺麗な骨のみが安置されていた。また、(さいかち)の葉の燃えかすにも疑問視する声があがった。玉のような骨とあわせて、(さいかち)を呪術に用いたろうと仮説を立てる者があったのだ。――古典落語の演目の一つに、反魂香(はんごんこう)という話がある。享保の時代に出版された笑話本が原話とされ、反魂香(はんごんこう)なるお香を焚くと、煙の向こうに死者が現れる場面が見せ場となっている。享保から遡ること数年前、宝永五年に近松門左衛門が、不変の夫婦愛を描いた「傾城反魂香」は、歌舞伎や浄瑠璃の演目として世間から人気を博した。近松の反魂香(はんごんこう)は、漢の武帝が死別した夫人を偲び、反魂を香炉にくべたところ、目の前に夫人の姿が現れたという故事に基づいている。反魂の観念は、かつては通説であった。平安末期から鎌倉に移る動乱の最中に生きた西行法師が、いくつもの墓を掘り起こして集めた骨を、まずよく洗い、人型に並べて灰をかけ、一人の人間にして蘇生させた御伽噺(おとぎばなし)なら忘れ去られて久しい。平安中期の陰陽師が得意とした秘術であるとする言い伝えは、かろうじて今日まで残っている。

 この呪術に、上の者がまず着眼した。西行が行ったと伝わる反魂の術には、(さいかち)の葉を燃した灰が使われたとされている。寄せ集めた人骨を洗ったという話とも照らしあわせ、頭蓋そのものの価値と出所にまで疑問を差し挟んだ。頭蓋から没年齢を割り出し、その他の出土品の特徴と現存する文献を擦り合わせみたところで、さしあたり該当する人物は認められない。中には影武者の遺物の可能性を示唆する声もあがった。それならそれで事と次第によっては大掛かりな発見にもなろうが、しかし奇妙なのは白い骨と(さいかち)だ、小袖は高価でも半紙は安物だと反論が挙がる。

 諸々を考慮した結果、発掘されたのは古墓の類だろうと考えることでひとまずまとまった。町に収まりの良い落としどころに、高潔な彼は再び姿を隠された。


 幸子は大人達の茶の間のやりとりから、追調査が行われない連絡があったのを知っていた。遺物を所有する気のない一家は、諸々の経緯と物品の保管先をわざわざ尋ねることはなく、幸子の関心事の筆頭にあるのは卒業の二文字であった。

また、彼女が咽喉(のど)の奥に引っかかった小骨のように気に病んだ、友人以外の児童の反応であるが、彼女を取り巻くコミュニケーションに急な変化は起こらなかった。分団では、一つ下の女児が率先して気遣ってくれる。クラスのお別れ会では、耳ざとい男児が幸子を茶化したにせよ、感傷的なムードが親睦を取り持って進行した。幸子発案の、紙吹雪に花びらを混ぜるというアイディアをもとに担任が作ったくす玉が、会のフィナーレを華やかに飾る。この演出に奈美が喜び、のんちゃんへの態度まで緩んだが、幸子は中学への期待と不安の入り混じった暫時の連帯感を、ほとんどのクラスメートと繋ぎあえた気分に湧いていた。

 この時期、児童以上に感慨(かんがい)ひとしおなのは児童の家族である。あっという間に迎えた式当日、校門の横に筆字で「卒業式」と書かれた立て札や、桜のまだ固い(つぼみ)がかかる校舎に、生徒と家族が集まってくる。我が子の成長に立会い、ひと区切りついた子育ての実感を噛み締めるための日だ。今日の晴れの姿を記念に残したい親心なら、一人っ子の親であれ次男坊の親であれ変わらない。幸子の母が受付に姿を見せようとも、巨体を一張羅(いっちょうら)で着飾った主婦が飛びついて根掘り葉掘り尋ねた以外は、晴れやかな場で骨だ何だと聞き出す者はない。父は仕事の都合が合わないので立ち会わなかったが、そのぶん母が快活に振舞い、遺物が出た騒ぎを自分から切り出して笑い飛ばした。すっかり都会的に垢抜けたのんちゃんの父母が、教師以外には会釈を交わす程度であったのに対し、母にねだってついて来た綾子は、体育館に集まった列席者の誰にもえくぼをへこませた。綾子は姉の、襟元に薄い水色の襟が付いた濃紺のワンピースに、セットのブレザーを羽織った姉の晴れ姿を(うらや)ましがる。前身ごろの打合わせに並んだ金色のボタンや、フリルのハイソックスと黒い靴の姉を「お嬢様みたい」と言い、自分も着たいと母にせがんでいる。幸子の心配事は靴のかかとが痛む程度で、気持ちは晴れやかであった。滞りなく式が終わり、級友と校門の前で写真を取り合った時には、誰かが泣いたのにつられて涙さえ(にじ)んだ。

 帰りの楽しい道道、機嫌の良い母が軽く愚痴をこぼす。

「のんちゃんにさ、久しぶりだし記念撮影しようって言ったら、愛想ないんだわあ。すぐ奥さんが来てさ、急いでますんでだって。何だかねえ、サチとは仲良くしてたのにねえ」

「へえ」

 幸子は曖昧な返事をした。前から吹き付ける強風に綾子が喜び、母の前髪の乱れ方を見てはきゃっきゃと笑う。こうして、彼女の良い思い出は終わった。


 その日の夕げの前の事。幸子は母にいつもの如く手伝いなさいとどやされ、嫌々新聞を取りに出た。

「――おい、おい」

 彼女を呼び止める声がする。ショベルカーが山型に盛ったままにした土の横に、気持ち隠れるようにして腰を(かが)めた祖父が、顎をしゃくって合図をしている。

「お祖父ちゃん、何しとんの」

 祖父が声を絞って呼ぶので、幸子もなるべく小声で返事をする。夕刊を持ったまま小走りに駆け寄り、祖父の隣にしゃがんだ。地面には庭から摘んだ花が置いてある。祖父はその手前に水を汲んだコップを供えると、

「よし、ここならええだろ」

 頭を垂れ、神妙な面持ちで拝み始めた。幸子も思わず釣られて手をあわせる。

「俺の兄貴はよ、丈夫で、よう働いとったに。急にガクンといってまったでな。可哀想に」

「うん」

 幸子は一寸返事に困った。手をあわせつつ祖父の様子を伺う。祖父は目の前に敷かれた建築用シートを見つめている。

「ええか幸子。誰の骨かは知らんがよ、こういう事は無碍(むげ)にしたらいかん。だで、な、おじいちゃんが拝んどいたるで。どうぞ家族を、よろしく――」

 神妙に(こうべ)を垂れるこの老いた農夫と、彼が手向(たむ)けた早咲きの花の花びらを、黄昏時の風は決して打ちつけようとはしなかった。目前のシートは祖父に向けて、暮れ落ちる寸前に射した痛切な茜色を反射させている。

 幸子はと言えば、祖父の思い出話に触れ、不思議な気分で祖父を観察していた。まじまじと眺めているうちにふと、これまでとりたてて意識したことがなかった家族の面立ちの差異を自覚した。正面よりは横を向いたほうが、顔の輪郭が浮き彫りになって映えるものだ。田舎の炎天下に四半世紀も(あぶ)られた衰えを差し引けば、祖父の容姿は、どうやら悪くない作りをしている。幸子の父には似ていない。父の顔が祖父に似ていないというのが正しい。父の弟で幸子の伯父、誠二の父親のほうが祖父の特徴を受け継いでいるように思う。もっとも誠二が伯父に似ているかと聞かれれば、そうではないと幸子は答える。誠二の面立ちは、母方の遺伝を色濃く受け継いでいるに違いない。ただ伯父よりも幸子の父のほうが、彼女自身コンプレックスを抱き始めた凹凸のない容姿をしている。

 白髪の混じった一文字の眉を頂点に、短く刈り込んだ髪の生え際から額が斜めに出て下り、目元は奥まっている。(まぶた)は細かい縦皺(たてじわ)が寄った奥二重だが鼻筋は通っており、口元から咽喉にかけて顕著に刻まれた老いを、元々形の良い顎がいくらか補正している。幸子はこの時、自分はくじ運が悪いのだとつくづく思った。以前の祖母は丸々と肥えていた。祖母や母の体型に似たのは綾子も同じであろうが、小さな目の(まぶた)には二重のラインが入っている。

「ねえ私もう行くよ。お祖父ちゃんも早く来やあ」

 近頃とみに幸子は、自分の外見が気になってならない。塾に行くにも私服のコーディネートに悩み、セーラー服を試着した時には、想像した以上に目立って見えた腰やふくらはぎの幅がいの一番に気になった。

「おお新聞持ってけ。俺は田んぼよ、ちょっと見てこんとな」

 祖父が幸子の頭をぽんと叩いた。彼女はやめてよと嫌がるふりをしてふくれっ面を作る。

 自分の姿形に対するコンプレックスは、一度強く自覚したが最後、あとは日増しに膨らむばかりとなっていた。例えば妹の、風邪を引いて寝込んだところでお喋りが止まない性質が、幸子には鬱陶しく思えてならない。早速綾子の体調不良を聞きつけ、縁側に果物を置いていった船木の嫁の同情ぶりには、普段よりも気持ちがこもっているように見えた。幸子が祖母に買って貰った花柄のスカートも、着古したおさがりであれ綾子のほうが上手く着こなしているような気がする。ちょっと後に産まれて来ただけのくせに。目元はぱっちりとしているが下腹が出たおかめのくせに。妹と自分を対比して、幸子は度々うんざりとした気分になった。そんな時も当然お構いなしに(ふすま)を開けて入ってくる綾子に、ノックをしろと怒れば、知恵がついて来た綾子も負けじと言い返す。喧嘩が酷ければ母は決まって幸子から先に叱った。幸子は「何で私ばかり」「干渉しないで」と怒り、始めは腹立ちまぎれに、後は苦心してわざと口をきかないやり方で抗議する回数も増えた。

 芽吹きのぬるんだ陽気が気分を浮き立たせる割に、春休みは随分と短い。思春期のホルモンバランスに左右され、もやもやと沸き立つ不満を持て余した気分に浸ると、幸子は「ともかく早く私の部屋を完成させてほしい」と願わずにはいられない。

「早いこと、大工には片付けてもらわんといかんなあ。な、サチ」

 祖父が独りごちた。誠二も来るでよと付け加えると立ち上がった無骨な祖父の背中が、(かげ)った道際の向こうへと小さくなって消えて行く。

「夏になれば、誠二お兄ちゃんが来る」

 昼のうちに日向で蒸れた新芽の匂いが、つんと幸子の鼻孔をついた。


 入学式の当日。幸子の通う中学校は、つい先月まで通いつめた古巣とは逆の方角にあった。近隣三箇所の小学校区から子供達が一つに集い、この先三年間同じ学び舎で一日の半分を過ごす事が義務付けられている。学校まで徒歩だと片道二三十分は掛かるから、初日くらいは一緒に歩いて行くつもりでいた母の誘いを、幸子は断った。なかなか寝付けなかった幸子が予定より早く家の門に出ると、いつもの友人二人とそのまた友人が三人、既にポストの横で彼女を待っている。みな公文教室で面識のある者同士であったから会話はすぐにはずんだ。各々の制服姿をからかいあい、今日の持ち物の確認を済ませ、話題は早速気になるクラス編成へと移る。

「ね、ね、クラス、みんな一緒だといいよね」

「うん。はあ、私だけ違うクラスだったらどうしよ。そしたらサイアクだあ」

「何いサチ、考えすぎだって。でも、わあんもしも全員バラバラだったらさあ」

「ちょっとお、やめてよー」

「ええ、やだあ、いきなり登校拒否するしかないじゃんね。……あ、あれちょっと見て、男子、男子。ほら頭、頭」

「どこどこ、わあマジ悲惨」

 おぼこいセーラー服姿の少女達は、車道を挟んだ隣の男子生徒を横目で追いつつ声を潜ませた。新品の学生服の固そうな詰襟の上に、いが栗頭が乗っかっている。生徒とその親には学校側から事前に、服装や持ち物の指導とあわせて、男は短髪、女はおかっぱよりも髪が長いなら縛り、男女共前髪は眉にかからない程度とする通達がなされていた。親の世代のそのまた前から続けられて来た、地域ならではの校則である。

 物質的な豊かさに恵まれた八十年代は、落ちこぼれ、不良と見なされた未成年の暴走が社会に影響を与えるまでとなった。暴走族やツッパリという単語がマスコミを賑わせ、彼らが当時の若者文化と流行の担い手にもなる。とはいえどの地方も校則が現在より厳しく、髪型からスカートの丈の長さまで、地域によって厳格さにばらつきはあったにせよ、各校は常から独自の指導を実施していた。小中高とあわせて、生徒達はゆとり教育以前の教科書を机に広げ、月曜から土曜まで学校で学ぶ。依然冷めやらない受験への関心と比例し、我が子を塾に通わせる世帯も年々増加の一途を辿(たど)った。やがて不良の無軌道よりも、学生の登校拒否やいじめを苦にした自殺の多発と、教室で執拗に行われた残忍ないじめの実態が、ショッキングな事件として世間に知れ渡ることとなる。食い盛りの鯉を一度に狭い池に詰め込んだと思えばよい。この第二次ベビーブームに産まれた子供達の青春は、多用な発展を遂げた身近で開放的な娯楽メディアの影響と、スパルタ教育の名残の狭間にあった。

 幸子が中学校にあがったのは九十年代――昭和の体制から平成の体制へと、世の中が意識して移り変わろうとした過渡期にあたる。八十年代後半から世論は開かれた学び舎を求め、これを受けたという名目で、政府が詰め込み教育を長期に渡って見直す計画を打ち出した。幸子が中学にあがる二年前には「教育のゆとり路線強化」の方針がまとめられている。しかしながら東海地方は、従来の教育方針を保持した地域の筆頭であったと書いても語弊はなかろう。岐阜の片田舎が変化の風に折れるのは、もう幾分後のことである。

 お喋りが絶えない少女達のほうを振り向くでもなく、坊主頭の男子生徒はさっさと先を歩いて行く。民家と個人店舗の並びを過ぎ、近々始まる環境整備に先駆けて完成した橋にさし掛かると、渡りきったところの道を越えた先に目的地が見えた。なだらかな高台にある新興住宅地に、使い捨ての剃刀の刃のような形の校舎が、山と淡い青空を()いで建っている。幸子達は息を切らせて小走りに急ぎ、鉄製の門扉が開いた正門のレールを跨ぐと、広大な運動場と校舎が一望出来た。正門から見て手前には三階建の校舎が、校舎の左端には大きな体育館が並び、新入生を出迎えている。幸子は家の母屋と自分の部屋の完成図を大人の会話から聞いた、(かぎ)型という言葉を思い起こした。この町にも東軍と西軍の陣跡が点在し、近くに通る国道を越えた東海道本線の辺り一帯は、約四百年前の開戦地跡として知られている。横に長い校舎の前には木が街路樹のように植えてあり、その後ろに水飲み場や昇降口が見え隠れしている。幸子は運動場で母親を見つけた面々と一旦別れ、一対一で話したことのあまりない友達と一緒に隅のフェンスに沿って歩きはじめた。二人してきょろきょろとする間にすぐ幸子を呼ぶ声がしたので、見れば一番手前の木の(そば)で母が手を振っている。一緒にいた女生徒が後でねと言うのでうんと返事をして、幸子は母のことろへ駆け出した。

 母は胴回りの寸尺にあわせて新調した、黒い礼服を着ている。丈が膝下のスカートや胸のコサージュが、他の女親に比べて洗練さに欠いている気がした幸子は口を尖らせたが、母はお構いなしで(たくま)しい手を降ろした。この日、市内の小中学校はほぼ一斉に入学式を執り行なう。母は出掛け、自分と綾子の身支度に奮闘し、幸子の入園式以来仕事の休みが取れた父が、綾子を連れて保育園に向かった。素直に表情には出さないが、幸子は母が来てくれたのを嬉しく感じている。

 朝礼台の下では、縁の太い眼鏡をかけた教師が、集まり始めた来賓(らいひん)と生徒に対して声を張って引率している。先程別れた友人達がまたやって来た。

「サチ! 下駄箱のとこでクラス分け発表になっとるよ」

「本当?」 

 母に気付いて頭を下げる友人の背を押し、幸子は昇降口のほうへと急ぐ。心の中で「友達と一緒になりますように、嫌な子達とは離れていますように」と願いながら人だかりを分けると、閉めた硝子の扉にクラス票が張り出されているのが目に入った。先に集まった生徒達が、アルファベットで六組ぶん書き出された編成表から各々の名前を探している。他の生徒の頭が視界の邪魔をするので、幸子が背伸びをすると、

「なんだ。またサチと一緒じゃん」

 彼女の斜め後ろから、先に結果を告げた生徒がいる。奈美だ。思わず振り返った幸子に、奈美は別段無頓着な態度で、周囲を固めるいつもの仲間達と上を見ながら、やれ誰それは何組だという話題に夢中になっている。幸子は奈美の「なんだ」という一言に緊張を覚えながら愛想を返した。

「ああ、うちらC組。よろしくね」当の奈美はさばさばとした態度で、また軽く返事をした。それでも幸子は、奈美の後ろでかしましい取り巻きの、名指しする相手によって声のトーンが変化するのが気になる。隣でクラス票を見ていた友人は、C組の名簿には名前がなく、自分と同じクラスになった女子に声を掛けて交流を始めている。友人を待っていても間が持てない幸子は、後ろのやかましいお喋りのうち、相槌(あいづち)が打てそうな話題にのることにした。

「ええ最悪う。またノロコと一緒だよノロコと」

 意地悪な含み笑いが口々に漏れている間に彼女はすかさず振り返り、苦笑いをしてみせる。だが取り巻き達の反応は存外薄かった。奈美がいつもの面々に呆れたような顔をして、すぐに別の話題を振ったので、居心地が悪くなった幸子はそれとなく人いきれを抜け、一人で先に体育館へと向かった。今日の式典の会場である体育館の奥の中庭では、教師達の指導で新入生が整列をはじめている。

 中庭で待っていた母が何組になったか尋ねながら、娘の前髪を手でなおしつつ「なるべくいるけれど、綾子のとこにも行くで。ごめんね」と詫びた時の心細さを、後に幸子は度々あげつらい、両親を無関心だと責めることになる。結局、一緒に登校した仲間はクラスがてんでばらばらになった。けれども、C組の列に並んだ幸子の横隣は同窓の生徒であったから、話しかけられて一寸(ちょっと)お喋りするうちに、彼女の気持ちも元どおり晴れた。組ごとの列を崩さず、自然と無駄口を閉じて移動する。体育館の扉が開いた瞬間広がった奥行きや、シューズのゴム底の擦れる音、高い舞台の後ろに下がった深緑の幕のドレープや、ぶ厚い幕の色に映えた日の丸の白地のどれもが、厳かな祝いの式典を演出している。都会に比べれば生徒数も教員の数も少ないのであるから、そのぶん入学式は粛々(しゅくしゅく)と行われた。良い式であったに違いない。しかし大人になった彼女がいくら記憶をなぞろうとも、思い出せるのは暗い体育館と(かび)臭さばかりである。

 彼女の学生生活が暗転したきっかけを、彼女自身ははっきりと自覚していない。

 入学式の帰り道は、朝来た仲間のうち幸子の家と同じ理由で親が退席した友人達と、好きなアニメや笑い話に花を咲かせて歩いた。道々別れてポストのある門を潜り、家に入るや満面の笑みで出迎えた綾子に、幸子が黙ったまま一瞥(いちべつ)を返す場面ならばあった。しかし、ものぐさがって留守番専門の祖父を除いた家族四人で車に乗り、駅前のファミリーレストランに着いた頃には、幸子の機嫌も良くなっていた。デパートで祖父母の土産を買い、一晩開けて日曜をのんびり過ごした次の日には、近場の仲間とまた笑顔で学校へと歩く。通学路や始業式の最中に上級生とたまたま目があい、新入生らしく緊張した程度の無難な出来事しか起こらなかった。むしろ朋子という同級生と親しくなり、朋子と一緒に下校した良い日になったのである。C組を受け持つのは中堅の教師である。三十に差し掛かった彼は、この校内では若手の内に入るし、彼自身若さを自認している。持ち前の軽快な話術で子供達との距離を縮め、気持ちを解きほぐしていく。生徒達は新しい環境に慣れていくにつれ、校長や担任を筆頭に教師達の特徴を茶化したり、どのクラブが良さそうか面白そうかを、クラブと先輩達の雰囲気を情報交換しながら相談しあっている。幸子も毎朝登校する仲間達や朋子と学校の話をするのが楽しかった。

 四月も半ばにさしかかった頃、一年生に身体測定が実施された。

「もうマジかったるい」

「体重やばいかも。いやだなあ」

 春の長雨がまだ引きそうにない三四時限目。学校指定のジャージに着替えた生徒達が体育館に集合し、クラスごと男女に分れ、視力と聴力以外の検査を受けている。男子は先に身長を測定し、突き当たりの倉庫側に置かれた体重計の後ろには、女子が列を作っている。少しでも待たされると暇そうにする生徒達が壁にもたれ、女子はお喋りに華を咲かせ始めた。奈美の右側にいる少女が目配せをする。

「奈美ちゃん見て、ほらあれ」

 視線の先にいるのは幸子だ。順番待ちは苗字の「あ」から五十音順で列を作っている。幸子は前後の生徒と特に会話が弾まないこともあり、担任の目を盗んでは、朋子のいるところまで行ったり来たりしている。

「ああ、わかる。なんかさあ、おどおどしてるっていうの?」

 今度は奈美を挟んだ左側の少女が相槌(あいづち)を打った。両隣のどちらも似た背格好をして、同じような表情を浮かべながら幸子の挙動を目で追い始める。左側は奈美や幸子と同窓で、校内の噂話にアンテナを張り、人の癖や容姿を話の種にしてはコミュニケーションを図る術に長けている。奈美はといえば相変わらず、気が向けば話題に乗ってやるといった具合で、この時も面倒くさそうにこう断った。

「うるさいなあいちいち。他の子もやってんじゃん」

 寒さが厳しい土地柄とは言え、あと十日もすれば五月になる。ところが一向に止まない冷たい雨も鬱陶(うっとう)しければ、雨が染みた渡り廊下をまた戻るのも(わずら)わしい。加えて奈美は、目に付いた生徒をすぐにも笑うほど子供じみてはいないという、彼女なりの自負があった。すかさず左側と他の仲間が違う話題を振り、リーダーの顔色を伺ったぶん会話に乗り遅れた右隣が、身振りをつけて調子をあわせる。

「おい、そこの女子。静かにしろ。壁にもたれるな」

 学級担任の注意を響かせた拡声器の口が、奈美達目掛けて開いている。飛んできた担任に壁際を追われた彼女達を、横ニメートル程離れた身長測定の列に並んだA組女子の、勝気そうなグループがちらちらと見ている。右隣が神妙に詫びたのを「謝らなくていいって」と奈美が言い、黒目をA組の標的に移すと小首を傾げてやや顎を上げ、堂々と両腕を組んだ。その間をたまたま二三人が割って抜けた。問診票に気を取られたまま横切る幸子の姿もあった。

 四時限目が過ぎて給食の食器を片付けた後、奈美の周りがまず学級担任を話題に挙げては文句を言い、面白おかしく茶化し始めた。

「そう言えばさあ」先程とは違ってよく喋る奈美が、仲間達を近くに寄せて小声で切り出す。「このところ幸子って、何か変わったよね」

 雨が廊下の窓にへばりつき、午後の風が校舎を冷やしてゆく。この頃から巷では、天候不順による稲の発育への懸念がぽつぽつと囁かれ始めていた。田地の面積は年々狭まっているものの、一見すると昔のまま山際まで続いていそうな田圃(たんぼ)の水鏡に、分厚い黒雲が映りこんでいる。国を挙げて取り組んだ減反(げんたん)政策とは、米作農家に対して一定の転作面積を配分し、米の作付(さくづ)け面積の削減を促すことで、米の生産調整を行う制度である。農家の自主的な取り組みをうたった一方、転作地への作付(さくづ)けには転作奨励金という補助金が支給され、転作面積の達成如何(いかん)で稲作の補助金が下りるしくみになっている。耕作そのものを放棄した土地は補助の対象にならない。米の余剰が問題化した高度成長期も今は昔、開田を禁じられたどの地方も過疎と老齢化に歯止めがきかず、バブルの好景気には土地転がしという言葉が流行した。幸子の住む町では依然農地を売る選択を良く思わない気風が根強いものの、同じくマスコミを賑わせた財テクを上手くやる家が、のんちゃんの家の他にも(わず)かに目に付くようになった。

 四月末の祝日を挟んだゴールデンウイークの中日(なかび)、幸子は朋子と橋の手前で別れた後、田圃(たんぼ)沿いの道で朝一緒に登校する友達を見つけた。庭から男の骨が出土した時に、電話を掛けた二人だ。

「ね、のんちゃんて、明るくなった気がしない?」

「ああ、あの子ね。昨日廊下で見た。ってそれだけだでわからんけど」

「のんちゃん? サチもさあ、もうあんな子知らんぷりしときゃいいって。ところでさあ」

「え、うんうん」

 ほんの二ヶ月前までは共通の関心事であった「のんちゃん」というキーワードが、二人の会話のホックに(はま)らなかった物足りなさを覚えつつも、幸子は違う話題についていく。入学式の段でも触れたが、三人共同じクラスにはならなかった。顔を合わせるのは朝と週二日の公文教室ばかりになったものの、変わらず親交は続いている。ただ幸子が朋子とどのクラブに入ろうかと迷っている間、この二人は揃って吹奏楽部に入部届けを出し終えていた。祝日の前日に一人が、サチは運動や楽器を嫌がっていたからと前置きして事後報告し、もう一人がごめんねと微笑んだ。

「そういえばサチは部活どこにした?」

「うん私は美術部。朋子がさあ、あっ仲良くなった子なんだけど、どうしてもっていうから」

「へえ、いいじゃん絵上手いし」

 幸子は今日、朋子と連れ立って美術部に入部した。二人は交互に、美術部ということはキャンバスに向かうのか、油絵も描くのかと尋ねては茶化す。冗談まじりで返事をする幸子の胸中は、頭上に広がる空模様と同様に晴れきらないでいる。

 ゴールデンウイークが終わり、いつものように登校した幸子は教室を開けた。何も感じなかったわけではない。ただ彼女は特に意識もせず、いつもの如く廊下で朋子とお喋りを始めた。教室の開け放した戸やじゃれあう男子生徒の隙間に隠れて、数人の女生徒がちらちらと見ている。この異変に先ず朋子が気付いた。二限目の音楽の授業では、縦笛の練習をする幸子と朋子目掛けて、再び悪しざまな視線が注がれた。またも敏感に察知した朋子の、怯えた態度に幸子は気付いた。休み時間を待って廊下の角に身を寄せ、朋子の萎縮の訳を聞き出した幸子は、正直なところぞっとしたのである。寒々とした公園の端の日陰で背を向けていた、幼馴染のランドセルがよぎる。

「でも何でにらまれなきゃなんないわけ? 勘違いだよそんなの」

 意に反して幸子の口から飛び出したのは、励ましの言葉である。

「朋子ちゃん、ずっと友達でいようね」

 (うつむ)いていた朋子が幸子を見上げる。険悪な予兆を理解してもらうために、まず朋子は小学校の低学年まで(いじ)められていた思い出を、恥部でも晒すかのように打ち明けた。幸子の返事に朋子は頬を紅潮させ、下がり眉を一層愛想よく下げた。幸子は額の奥に(しび)れを感じている。庭から骨が出た日に、友人だった二人と交わした約束の台詞が記憶に浮かんだ。

「気にせんでいいって」

 不愉快そうに、自分に言い聞かせるように強く念押しし、長い廊下を戻って教室の戸をくぐる時、幸子は心持ち朋子の体に隠れて席に着いた。一部始終を静まり返って注視していた面々がある。幸子はまた脳味噌が痺れる感覚を覚えながらも、明らかに様子がおかしいのは、奈美と取り巻きの数人だけであることを判別した。次の休みも廊下の角際で潰し、目立たない動きを意識して机に給食の食器を並べた幸子と朋子は、今日一日をともかくやり過ごしてしまいたいと思っている。乾いた食パンを飲み込み、幸子が努めて明るくふるまった矢先、

「あー、うっとうしい」

 教卓の前を陣取った奈美のグループから一声あがった。一瞬教室から音が消え、すぐにまたざわざわと生徒達の談笑が交差する。標的は自分だと思い込んでいる朋子がすがる目をして詫びたのを、すっかり肝を冷やした幸子は気付けなかった。あらためて相手の人数を頭で数えてみる。奈美らは六人しかいないはずが、緊張した幸子は好物のクリームシチューの味もわからない。

 この日は午後から職員会議が予定されていた。幸いにも二人して掃除当番ではない。時計を見上げては進まない針に落胆し、ようやくのチャイムに安堵した気持ちを保ちつつ短いホームルームをやり過ごす。起立礼の礼をしたままの体制で教室を出た朋子からやや間を空け、幸子が戸を跨ごうとした手前でまた一声あがった。

「逃げんな馬鹿。お前だよ、お前」

 かっと頬が熱くなる。鼓膜の働きが鈍り視界が狭まって、戸を出たすぐ脇で待っていた朋子の姿を見えなくさせる。

「幸子ちゃん」

 朋子に呼び止められた幸子は、咄嗟(とっさ)にとぼけて冗談事を装い、後は押し黙って階段を降りる。幸子の中には一つの仮定がむくむくと膨れ上がっていた。悪意は自分目掛けて浴びせられたのではないか。まさかそんなと打ち消そうにも「お前だよ」の一言が圧し掛かる。沈黙に耐えかねた朋子が気候の話をした時、相変わらず浮かない朋子の表情を確認した幸子は、ちぢに乱れた気持ちをすばやく一つに帰着させた。「誰が標的なのかを、朋子にはまだ知られたくない」

 彼女が朋子と帰るのは、緩慢な勾配(こうばい)を降りきったところの交差点までだ。学校の話題は避けて進む。朋子もやはりそれがいいようで、言葉少なではあるが返事をする。別れ(ぎわ)にのみ、明日もまた二人で頑張ろうねと幸子が明るく言うと、朋子も例の気弱な笑顔で頷いた。信号が点滅したので幸子はただ習慣から足を速めた。一人になると、奈美と少女達がのんちゃんに行った仕打ちの数々が、あらためて頭の中に染み出してくる。急いでも急いでも遠いような、あっという間に家の傍まで来たような道々、水かさが増して淀んだ川の草叢(くさむら)やら、青黒い藻が浮いた田圃(たんぼ)の中の蛙ばかりが(やかま)しく、幸子の前から横から後ろから、いつまでも(はや)したてている。

 

 

 

 

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