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骨の男  作者: 若井狼介
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二章 一

 その日は、夜が明けても夜中と変わらない程冷えきっていた。

 天空から圧迫する巨大な積雲めがけて地上の山脈が威を放ち、険しい尾根に下層を貫かれた雲影が山肌を責め(さいな)むと、木々は身を霧氷(むひょう)で固め、寒波が唸り声をあげて岩間や暗い氷穴を駆け抜ける。こうして再び蘇った恐るべき冷塊は、先史から変わることなく人里を呑むとくまなく行き渡った。家屋や車の凍った屋根に、長く伸びたつららが尖っている。道の脇には、数日前の豪雪がぶ厚い壁を作っている。田舎でさえ土地の高騰に湧いた熱気が失せはじめた一九九四年は、先を暗示するかのごとく厳しい冷え込みをともなって幕を落とした。 

「サチ、あんた、いい加減にしやあよ」 

 ぴしゃりと音をたてて(ふすま)を開けたのは、幸子の母である。朝早くからきまって目を覚ます祖母の世話と家事を手馴れた調子でこなす母は、娘達に起きるよう一度釘を刺し、今また念押しに来たのだ。夢心地を中断された幸子はしぶしぶ布団から這い出すと、一転して大慌てで身支度を整えはじめた。昨晩遅くまでかかってすませた冬休みの宿題を手さげ袋につめ込むと、食卓の祖父や妹に挨拶する間も惜しんで外へ駆け出す。きんとこわばった空気が鼻先や耳たぶを刺した。今日から三学期が始まる。

 家の前を通った、やや幅広い二車線の一本道を途中で曲がったところにある小さな公園には、同じ学区の児童達がほとんど集まっていた。中央では既に男児達がゴムのテニスボールを投げては手で打ち、遊びに夢中になっている。彼らが揃って通う小学校では、分団登校を長年実施していた。この校区の分団長は幸子である。六年に進級した際に、同じ学年の男児が一人いるものの長が付く役割を面倒くさがり、女児達が多数決をした結果、幸子にお鉢が回って来たのだ。その際に無駄なく動いた一学年下の女児が、公園に着いた幸子を見つけてよって来た。早速休みの間のあれこれを喋ってから、やおら幸子は公園の隅に立っている少女を呼びつけた。

「ねえ、のんちゃん、みんな集合してるんだっけ?」

 幸子らが通う小学校では、学年ごとに名札を縫い付ける布地の色を変えるよう指導していた。十数人ばかりのグループの中で、六年は男女合わせて三名――のんちゃんと呼ばれた少女は、幸子と同じ色のあて布を胸元に刺している。

「え、うん。ごめん、みんな集まってると思う」

 のんちゃんは副分団長であり、幸子の幼なじみである。

「何い、早よ言ってよ」

 幸子はにべもなく一瞥(いちべつ)をくれると、他の児童達には軽く一声かけて歩き出した。保育園にあがる前から四五年の間、公園や互いの家で、あるいは幸子の家の畑で来る日も遊んだ少女は、顔を俯かせたまま弱々しく詫びた。その一部始終を眺めていた五年の女児が、すかさず隣の仲間に目配せをして歯を覗かせた。歩道の脇には数日前に降ったどか雪が溜まり、ところどころ枯れ草がつき出している。分団の並びは、先頭に分団長、最後尾に副分団長がついて歩くのが慣例とされていた。一見してほほえましい学童の行列からやや距離を置いて歩く少女が、やわい皮膚の下から赤みがさす形の良い唇をきつくつむった実情を、好奇心に目を光らせて観察する子供らの他に関知出来る者はいない。


 岐阜県は、言うなれば「開けた農村部」である。全国の市町村が(あぶく)まじりの甘い汁をたらふく吸った時代、この農村部もご多分に漏れず、一時は溢れてやまなかった財源に漬かっていた。「東京から東濃へ」――日本列島のちょうど中心にある地方ならではのスローガンを掲げ、交通網の整備に伴う開発が急速に推し進められていった。

 しかし反面、中心街である岐阜市内には現在も金華山(きんかざん)が残され、頂にはかつて斎藤道三が、次いでかの織田信長が主に就いた城が復元されている。戦乱の世に一握りの支配階級が布いた政は、世の中のなり立ちを底辺から支えた民百姓にとって、圧政に他ならなかったのではあるまいか。ところがいくつ時代が移り変わろうとも、県民の精神的なシンボルは戦国から安土桃山時代そのものにある。わずかな例外はあったにせよ、産まれ落ちた瞬間から決められた階級の中で営み、うずたかい城郭に御座(おわ)す威光の下で文化の一端を担った日々を、郷土の誇りと歴史を後世に伝える使命を自負してやまない。彼等の祖先は、合戦の最中であれ商いやら野良仕事に精を出し、戦火に怯えて天道を拝んだ手で転がった死骸を選別しては、位の高い首級に仕立てて褒美(ほうび)を得ることもあった。血みどろの混戦が終息した後、村や町ごとの決済か侍のお達しか、とにもかくにも手はずさえ整えば、石ころと一緒に武具や骨片が混じった土壌を開墾(かいこん)し、着々と居住地を固めたのである。

 時代は流れて平成のはじめ、華やいだ好景気が嘘のように消え失せれば、郷土の先達が残してくださったと思う豊富な史跡を、有り難く財源のあてにもするのだ。馬鹿がつくほど世間知らずで人の好い、いかにも田舎者ではない。開放的でおおらかな気質の根底には、極めて保守的な相反する性質を兼ね備えている。例えば嬉々として訪れる日本史にかぶれた観光客をもてなす反面、年毎に政府が減反政策を強めるばかりであれ農村部から政変を拒み、仲間内の不文律をわきまえない変わり者には、家の中から眉をひそめる。

 幸子ら家族が住んでいた家の敷地は、都会の一戸建てに比べれば広い面積を保有していた。木造の母屋の道路に面した表側から向かって東奥には、祖母が寝て暮らす離れが、西には庭から伸びた細い(あぜ)が裏手の方へ抜けている。畦をまたいで降りたところには畑がある。ここも以前は稲を植える田圃(たんぼ)であったが、野菜畑に変えた。家の門構えは、幸子が通う小学校にまだ父が在学した頃造ったコンクリート製で、扉のない入り口は耕運機が通り抜けられる間隔に開いている。その一方の囲いが正面から東の角を曲がってどんつきを裏庭側に折れ、裏庭を回って母屋の左側の途中まで立っている。もう一方は、正面から西の隅を折れた角までしかないから、縁側に出れば庭木の枝ごしに、にょきにょきと伸びた茎や葉や色とりどりの野菜が揺れる畑が一望出来た。畑の横隣は空き家であるが、もう反対側の二軒先にはのんちゃんの家があった。

 アイボリーのモルタルの外壁に、煉瓦(れんが)風のタイルを敷いた玄関先と木目の出窓が洒落た二階建ての新築には、のんちゃんとその両親が住んでいる。建て替えが終わったばかりの頃、まだ背の低い植木の(もみ)に、時節柄可愛らしいオーナメントがいくつも下がっていた。のんちゃんの母親は、腹の子を二度流した後に一粒種の娘を授かった。祖父母という一番の働き手が相次いで他界し、決定的に手が足らなくなった一家が、農業を維持できるはずもない。夫は地元で中途採用の口を見つけ、妻は結婚する前に勤めていた会社にパート勤務として戻った。田地を放棄すればしたで金銭的な負担がかかるとは言え、日本がまだGNPの成長にわき立っていた中、のんちゃん一家が暮らしに困る程の貧しさを舐めたことはなかったろう。けれども一年生の入学式以来、授業参観や運動会といった学校行事から、子ども会の催し物にも親がなかなか姿を見せない少女を、他の子供らとその父母は不憫(ふびん)に感じた。現に幸子は母や担任から「のんちゃんと仲良くしてあげてね」と諭された覚えがある。一家が何年も放ったらかしにした田地を、手放すのは心も痛むであろうがやむを得ないと勧めたのは町内会長であった。

 そんな経緯であったから、もうもうと雑草が生え、農地としては使い物にならない土地に高値が付いたことに誰もが薄々気付きはじめた後も、皆一様に親身なふりをやめなかった。この地域は夏が短い。軒並びに冷ややかな風が吹き始めたのは、季節の変わり目のせいだけではなかった。

 親のまた親、そのまた前から代々ひとつところに集落を構え、みなでほぼ等しく農作業に従事して営みを続けて来たのだ。大人達は波風を立てない術を心得ている。しかし、子供の感性は気配の変調を敏感に察知し、ま新しい刺激に率直な関心を示す。子供らが形成した子供らのコミュニティーにおいて、大多数が友情を固める通過儀礼(つうかぎれい)であるかのごとく、彼らの集団から目ぼしい人身御供ひとみごくうを選別しては、大人と部外者の干渉を嫌いながらも村八分を無邪気に楽しんでいた。

「サチじゃん。おはよう」

 校舎の裏門、引き戸の鉄格子を幸子がくぐったところで背後から声をかけられた。

「あっおはよう、奈美ちゃん」

 すぐにふり返り、奥二重の小さな目を細めて愛想の良い挨拶をする。くつくつと笑いが漏れ、幸子と同じ色の名札を付けた数人の女児が周りを囲んだ。その中心にいる挨拶の主の視線を意識した幸子が、今朝の冷え込みを話の取っ掛かりに、今朝は寝坊をして飯も食っていないと切り出してはおどけてみせる。

「へえ。相変わらずサチは可愛いねえ。で、それはそうと、あれ描いてくれた?」

 長いストレートの髪を冷風にそよがせて話題を変えると、奈美は幸子に問いかけた。鼻翼の小さな鷲鼻(わしばな)にアーモンド型の目、幅が細く綺麗に上がった眉毛が、頭一つ高い背丈や子供らしくない仕草に似合っている。冬休みに入る前に奈美は、自分が熱をあげている若い歌手の似顔絵を描いてくれるよう幸子にことづけていた。

「うん、でも上手く描けたかわかんないから、奈美ちゃん気に入ってくれるか――」

「やだマジで? ああん愛してる」

 幸子が話終わるのを待たずに奈美が声をあげて抱きついたので、周りから笑いが漏れた。この少女を取り巻いているのは、勉強かスポーツに秀でている同級生であり、いずれに当てはまらないとしても見端が良い女児である。中庭を抜けたところの昇降口で談笑する幸子と奈美達は、はた目には親しげに写るに違いない。冬の朝のはっきりしない薄明かりが、せり出したコンクリートの(ひさし)の下に陰をこしらえている。寒い寒いと口々に文句を付ける奈美達であるが、雑談ならまだ尽きそうにない。幸子はどうしたらこの場から上手く抜けられるものか考えつつ、にこにこして相槌(あいづち)に徹している。

 やがて仲間の一人が目配せをしたのと合図に、かしましいお喋りの音量が落ちた。

「ノロコが来た」

 男子生徒の憧れを誘う清楚な雰囲気をした女児が、抑揚のない調子で囁いた。奈美が小首を傾げて腕を組み替える。彼女達は誰からともなく示しあい、のんちゃんをノロコと呼んでいた。黒目を(すが)めて標的を観察する奈美とクラスメートに、幸子は心底気おされて萎縮している。あるいは、仲間の端くれに自分は加えてもらえた高揚感から緊張し、固唾を呑んで強張(こわば)っている。薄氷が張った水たまりを避けながら、(うつむ)いた少女が歩いて来た。

「よく学校に来られるよね。親子揃って図々しい」

「どんな神経してるんだか、ちょっとおかしいわ」

「ノロコのくせに」 

 繰り返してしたためねばなるまいが、我々が個々の集団生活において、その場その時の統率者に目をかけてもらう喜びなら、螺旋(らせん)を組んだ細胞核の束に絡み付いているのではあるまいか。性善説か性悪説か、ほんの二通りを元に裏と表のどちらが軸か断言せしめたところで、生き物が生き延びる欲求と業の根底の根底までをもあまさず掘り起こし、ねじれさせず克明にしてみせることは出来ない。奈美達はそれぞれが、買い物帰りの車中や家の卓上で肉親が口走る世間話にふれ、一様に耳年増ではあった。ただし子供は子供らのテリトリーの中で、各々のキャラクターと身の置き所をし量り、自然とのんちゃんを最下層に措いた。

 校舎の中から自分めがけて突き刺さる視線に射竦(いすく)められた少女が、首を垂れて通り過ぎざま、

「おはよう」

 奈美のほうから挨拶を投げた。慌ててふり返ったのんちゃんを、今度は奈美と仲間がそっぽを向いて置き去りにする。

「ああ寒い」

「むかつく」

 聞こえよがしに口々こぼしては上履きを取り出し、下駄箱に靴を投げ込むと、話題を歌番組やら他の関心事に替えて柱の横を曲がった。明るい笑い声ばかりが尾を引き、昇降口に残っている。後に続いて上がりかまちを(また)いだ幸子は、下のすのこで身をかがめ、無言で靴を履く幼なじみのしぐさに居心地の悪さを感じて、無愛想にしたまま教室へと急いだ。

 六年の教室は、校舎の最上階にある。階段を三階まで登りきって曲がると、渡り廊下の出入り口で談笑していた二人の友人が、幸子に気付いて迎えた。三人はさっそく工作の自由課題を見せ合い、かと思えばやれ休みの間に餅を何個食べただの、他愛ない会話に次々花を咲かせた。この時幸子は、自分の新年がまずまず良い出だしを切ったとばかり思った。

 程なくして始業のチャイムが鳴った。児童達は各々の教室に(かばん)を預けると、運動場にぞろぞろ集まっていく。朝礼では、校舎の屋上にはためかせた国旗を背に、姿勢も体格も良い白髪頭の校長が、主に生活の気構えについて厳しく弁を振るっている。生徒達はと言えば「礼」と「なおれ」の所作に乱れこそないにせよ、セレモニーさえ終われば後は帰るばかりという気持ちにおおよそ急かされている。予定よりも長引いた朝礼から教室に戻り、六年生の親よりも一回りは歳のいった担任がてきぱきとやるべき事を片付けると、良い頃合で終業のチャイムが鳴った。

「奈美ちゃん、はいこれ」

 幸子が手さげかばんから、紙が折れないよう挟んだクリアファイルごと、約束のイラストを取り出した。

「あ、そこ置いといて。ごめんありがと」

 教室の後ろのロッカーに固まって輪をかいた奈美と仲間達は、数人の男子生徒とじゃれあっている。幸子は、今朝に比べればあっさりとした奈美の態度に内心拍子抜けした。まして男子生徒の誰も幸子を気に掛けているようすがない。所在のなさと引け目を等しく感じながら幸子は、気を遣って奈美の机にイラストを伏せて置き、戸外で待つ友達と早く家へ帰ることにした。

 昼前に差しかかる時刻になっても薄曇りが晴れず、交差点で信号待ちをする幸子達の鼻先や頬を、北風がちりちりと刺していく。横断歩道を渡ったところで友人らと別れ、一人になると幸子は歩くのがおっくうになった。朝飯を抜いて出た空腹感に気付いてため息を吐く。神社の角を曲がって公園を過ぎ、一直線に伸びる車道の脇を歩いて行くと、枯田と山と雲ばかりが続く景色から道を挟んだ正面に、遠くに感じていた朱色の郵便受けがだんだんと近づいて来た。幸子の家の郵便受けだ。その斜め奥には、隣家のさえぎりを押しのけるように茂ったモチの枝葉が、青いまま冬日を食んでいる。周囲の土を盛り上げて根を張るこの常緑樹は、やや反り返った幹が黒ずんでいて太く、神社の並木にも引けを取らないほど堂々たる古木であった。梢は母屋の屋根よりも遥かに高い。放射線状に広げた葉の傘の下、ひぐらしの鳴き声を浴びながら洗濯物を取り込んでいた祖母が、たまに頭上を仰いでは、自分が嫁いで来た頃から既に天を突いていたと語っていた。畑から庭に戻って遊ぶ幸子は、モチの木を少し自慢に思ったものである。虫かごを持ったのんちゃんが、恐竜の時代から立っていたりしてと陽気に(はや)した。

 スニーカーの足を早めた幸子が家に着くと、珍しく縁側に祖母をみとめた。

「ただいまあ、ねえお母さん、お母さん、お祖母ちゃん出て来とるよ」

 粉を吹いた干し柿に似てしぼんだ顎を上げ、ぽかんと口を開いた祖母の横から居間に入るや否や母を呼ぶ。母は昼飯の用意をしがてら相づちを返した。

「――はいはいお帰り。早かったねえ」

「ねえお祖母ちゃん出て来とるよ、いいの? お腹空いたあ」

「ああ、たまには庭を見たいんでしょ」

 気のない母の返事にふてくされてサッシを閉めると、幸子は居間に腰を下ろして足を伸ばした。

「ほら手洗った? かばんぐらい置いてらっしゃい」

「違うって、もう、ご飯食べたらやろうと思ったのに」

 幸子は目の前の机に並んだ椀に手を出すと、湯気のたつ(つゆ)を早速すすった。具には細長く刻んだ油揚げと、三センチ程に斜め切りした長葱が浮いている。今朝畑で採ったばかりの葱は、赤味噌に負けない香味を鼻腔に刺し、続けて舌に甘みを溶かしながら、熱い液体と一緒に喉を伝って胃袋に溜まっていく。

「ちょっとサチ、お婆ちゃんも呼んでちょうだい。また雪降りそうだで」

 母がお勝手から一言ことづてると、さっさと奥に引っ込んだ。じきに正午になる。秋口から母は、近くのスーパーで夕方までの半日をパート勤務に割いていた。家でじっとしていられない性分の祖父は、冬場だけ馴染みの卸業者に請われて午前中から出かけている。

「お婆ちゃん、何やっとるの」

 幸子は食べかけの皿に音を立てて箸を置くと、廊下に向かって呼びかけた。祖母はかいまきを羽織った下に厚手のはんてんを着込んでいるものの、裸足で板敷きにしゃがんだままだ。前をはだけて、濁った目に呆然と空を映すばかりでいる。

「もう、ちょっと、お婆ちゃんって」

 立ち上がった幸子がもう一度呼びかけた矢先、

「幸子か」

 祖母が(きびす)を返した。瞳の焦点は、確かに孫を定めている。

 そこで幸子は改めて冷えるから部屋に入るよう問いかけたものの、言葉の終わらないうちにまた祖母は顔を弛緩させ、返事にもならない相槌を打つばかりなのである。丸々とした面差しであったのが、いつの間にか鶏がらのごとく痩せ衰えた。よれた皮膚のどこから染み出すものか、毛量だけは少なくない白髪が脂で固まっている。祖母が始終臭うので、居間の戸口から幸子は思わず鼻をしかめる。これが余所(よそ)の老人であれば、十二の娘であれ不快をおくびにも出さず、気持ちの良い笑顔すらふりまけよう。けれども血の繋がった家族の老化は大人の痴態に思えてならず、本来持っているはずの思慕の情に、多感な年頃にさしかかった反抗心が相まって、幸子が学校や塾で気疲れした日には祖母の老醜が(かん)に障り、大袈裟に腹を立てた。

 今も「昼ご飯を我慢して呼んでいるのに」と思うとむかむかしてならない幸子は、母を大声で呼びつけた。わざと足を鳴らして廊下を来た母は「忙しいのに」と怒りつつ、けれども慣れた手つきで祖母の両脇を抱える。幸子はサッシを開け放してやると、机を部屋の後ろに少しずらして座りなおした。そこを母に支えられた祖母が横切って行く。幸子は米をほおばりながら、テレビが観たいので体を斜め前に傾け、正面を覗き込んだ。

 すり足が止まる。白内障の目が、再び視線を結んだ。

「あれ、幸子。幸子。畑、どうなったよ」

 娯楽番組の軽快な雑音を遮って、祖母が幸子に問いかける。

「何いもう、テレビ見えんって」

「はいはい、良く使わせてもらってますで。安心してねお義母さん」

 一家の畑の土は、程よい湿り気と養分を年中蓄えていた。田圃(たんぼ)にすると上手くいかなかったのが、季節ごとに肉厚で旨い物が生り、冬場には根野菜を抜かずに植えておくだけで、鮮度を損なわず滋味を増してくれる貯蔵庫にもなった。しかしながら反面では、畑としてなら広くもない五十坪程を、祖母という労力を欠いたまま世話をする骨折りが、毎日の生活にかかる負担にもなっていた。そこで父母が中心となって、一家はより有効に自分達の土地を活用する選択に目を向けた。畑をならし、離れをもう一棟増築するプランである。一部屋の奥行きなら充分にある古い母屋の、奥の二間を祖父母が使い、父と母は床の間の横にある六畳で寝起きをしていた。幸子に次いで綾子が生まれ、二人が娘らしくなってからというもの、父母は六畳を姉妹に譲り、自分達は床の間に蒲団と箪笥(たんす)ごと移って共用するようになった。

「このままでは何をするにも狭かろう」

 何かと夫婦に気を遣い、孫娘達を不憫(ふびん)がったのは、他でもない祖母である。頑として聞く耳すら持たなかった祖父も、だからこそ今頃になって「好きにしろ」と折れた。

 幸子にまだ何か言いたげな祖母を、母がなだめて促す。

「お義母さん有難うね、安心して、待っとってね」

 当時、遊ばせている土地が幾らかある一般家庭であれば、増築はまるで手の届かない夢でもなかった。ご多分に漏れずきりの良い年――幸子が中学に、綾子が小学校に入学するこの春をめどに、一家は子供部屋を建てる準備を始めたのである。

「――ごちそうさま」

 先程までとは違い、返事はない。幸子がいる居間の他に、家の中から物音はしない。

 義母を部屋の前まで連れて行くと、母はその足でパートに出て行った。廊下伝いにかすかに届く、痰の絡んだ咳もいつかおさまっている。人気(ひとけ)が失せ、代わりに冷気が強まってきた。幸子はエアコンの設定温度を上げて、隅に置かれた石油ストーブに背中を近づけて温めている。別段食べ過ぎてもいないのに腹が重い。空の皿と茶碗を机に放置したまま、年末にアニメの特番を録画しておいたテープを取り出して、ビデオデッキに入れる。しばらく観て楽しんでから、彼女はシンクに食器を運ぶことにした。家族が帰る前にこれをしておかなくては、母から妹を引き合いに出してたしなめられる。面倒だが仕方がないと思う。

 立ち上がってふと彼女は、台所の窓ごしに降り注いでいる白い粒の影を認めた。凍ったすり硝子にぽつぽつとぶつかっては、可憐な結晶を粉々に散らしている。居間をふり返ると、サッシの外は一面の雪景色に変わり始めていた。見慣れた冬の風物詩ではあるにせよ、雪の降り始めは童心をくすぐるものだ。幸子はさっそく床の間の隣から上着と手袋を掴んで縁側から庭に飛び出した。

 空を仰いでみる。もちの木の天辺に刺さる程たわんだ雲一面から、雪がさらさらと音をたて、次から次へと彼女の眼前までこぼれ落ちて来る。息を吸い込むと、重く熱を持った腹部に清涼な外気が行き渡るようだ。赤茶色の瓦、縁側のトタン屋根の先、ブロック塀の上、赤い郵便受けや、背の低い庭木がみるみる雪にまぶされていく。祖父母の部屋と吹きぬけの納屋の前にある洗い場も同じで、蛇口が凍っているのがわかる。

「畑はどうなっているかな」

 幸子が畑と呼ぶのは習慣からであって、実のところ畑自体は既にない。寒風にさらされた根毛の塊と石ころが転がる他に何もない空き地が、家屋の西から覗いている。

 暮れの大掃除の(かたわ)ら、家族で手分けして根菜類を残さず抜き取り、他の苗や種とあわせて売れるところに売った。後は父が地面を平らになめしつけたが、水茄子だけはどこか日当たりのいいところを見繕って栽培を続けるから、その時にはまた手伝ってね――母の何気ないお喋りを思い出して幸子は、浮かれた足取りで縁側を通り過ぎ、家の横手に回った。庭から地続きになった横手の土は、昔からところどころ凸凹(でこぼこ)と盛り上がっており、幸子の足元には朽ちた切り株の縁が一つ突き出ている。今でこそ学校から帰ったらテレビゲームをするか漫画を読むのが日課であるが、以前は綾子をお供に従えてままごと遊びに明け暮れたものだ。記憶のカンバスには、西日を頂いた雄大な夏山を遠くシルエットに、葉脈を浮き立たせた大判の葉や(つる)が中央から溢れかえり、濃厚な緑と紫を強烈に輝かせている。――しんしんと積もる雪の中、まだ十二の娘が懐かしさに胸を締め付けられた。むずむずとした心持で切り株の縁の突端に上ると、彼女は辺りを見渡した。壁を突き当たった角側の畦には、先日の大雪が屋根からずり落ちた形のまま、氷状に固まって汚れている。足元の土には霜がけばだっている。手前に広がる畑の跡はと言うと、滑らかな淡い衣が地肌に薄く被さり、さも美しく輝き始めていた。これまで見慣れた景色とは違う、まっさらな粉雪の地面には、魅惑的なことにまだ足跡ひとつついていない。

 切り株の尖った先にかけた足の指に重心を乗せる。じわりと汗腺が疼く。

「私が最初に見つけたんだもんね」

 妹の綾子よりも先に、自分が白い畑を踏みしめたい。そう思って彼女は(あぜ)を越えたすぐ下を着地点に定めると、数歩後ずさった後一気に加速して切り株の端を蹴りとばした。

 ずるり、靴底の滑った感触に、あっと言う間もなく両手が泳ぐ。一瞬黒雲が近づいたかと思うと浮遊感を断たれた視界に泥が迫り、濁音(だくおん)と衝撃が響いた。

 ちょうど(あぜ)を背もたれにしたかたちに転んだ幸子の、背中や尻がびしょびしょに濡れている。唇をへの字に曲げた矢先、往来を行く人が視界の隅にちらついた。顔から火が出るのを彼女自身感じたほどであるが、なるべく何事もなかったふりをして立ちあがると、そそくさと縁側まで引き返した。居間に入る前に泥水を吸ったジャンバーを脱ぎ捨てる。下に着込んだトレーナーの裾も冷たいが、コーデュロイのズボンの布地には土ごとべったり食い込んでいる。熟れた土壌特有のすえた臭いが、幸子の鼻を突いた。

「やだ、もうむかつく――」

 泣き言をこぼしつつズボンを脱ぐため膝を(かが)めた拍子、下腹に鈍痛が走った。次いで、熱くぬるりとした感触が尻を伝う。

 幸子は初め、これも泥水だとばかり思った。粘った土がどうにかして服の下にまで入り込んだのだと見間違えた直後、はたとして、下着の染みは膣から垂れたことに気付いた。指に唾をつけて袖で拭い、思わず陰部を(めく)ってみる。またわずかに胎内が疼いた。そこで彼女は倉皇(そうこう)として服を着替え終わると、汚れ物をまとめて台所から洗濯機に投げ、床の間に並べた母のたんすから生理用品を探した。手こずりながらも学校の保健婦が説明したとおりにあてがうと、いよいよ体がだるい気がしたものだから、自分の部屋に入るなり押し入れの蒲団(ふとん)を下ろして横になった。

 体は温まっていくのに疼痛(とうつう)はおさまらず、部屋の静けさばかりが気になって仕方ない。丸めた背で寝返りをうつと、床の間の襖からもれてくる隙間風に線香のにおいを嗅いだ。やけに時計の秒針がうるさい。いよいよ募る心細さを、古い木造家屋特有の軋みが逆撫でする。幸子は毛布に頭を隠すと固く目をつむった。

「――お姉ちゃん、寝とるの?」

 次に気付いた時には、居間からテレビの音がしていた。綾子が肉付きの良い頬っぺを近づけて、小さなつばの黄色い帽子を被ったまま心配そうに幸子を覗き込んでいる。

 幸子はいつ寝入ったものか覚えがないが、綾子が保育園から帰る時分まで眠りこけていた。鼻先の冷たさに毛布をたくしあげる。四隅を凍らせた窓ガラスは、宵の濃紺を早々と写している。母が余った餅でも焼こうかと呼びに来た。夕飯にはまだ二三時間ばかり間があるので、育ち盛りの娘達にちょくちょく軽い腹ごしらえを作りがてら、母もよく間食をする。横になった娘のようすを見に来た親心が、脱いだままにした汚れ物への文句になって飛び出す口の悪い母を、幸子はわからず屋に責められた気分になって蒲団の下から睨んだ。

「お母さんお母さん、お姉ちゃんが、おなか痛いって」

「いいよ、自分で話すから」

 妹を止めて起きあがり、腹に響くのも構わず抗議の代わりに足を鳴らす。知らんぷりして机に皿を並べる母をつかまえて、幸子は耳打ちをした。母は目を丸くしてから、そっと(まなじり)を細めてしげしげと我が子を見つめた。そして小声で「おめでとう」と返すと、おませなお嬢さんでも茶化す要領で腹の痛みを労い、何があったのか教えて教えてとせがむ綾子には「今夜は赤飯を炊くよ、ご馳走を作ろうね」と笑いとばした。訳がわからないのに綾子が万歳をして下膨(しもぶく)れをほころばせた。母が点けたストーブに(だいだい)色の炎が灯り、壁や畳を照らしている。そこで幸子はようやく安らいだ心持ちになった。同時に、畑の跡で遊んでみたいだけであったのが、自分の性の芽生えを思い知らされた事態をふり返り、彼女はあらためて複雑な感覚に身を切なくした。

 夕げ時には、いつもより家の中が賑やかになった。新鮮な餅米で炊いたつややかな赤飯や、大皿に盛られた唐揚げに娘達が喜んだのは言うまでもない。普段から食事の前には茶の間の定位置につく祖父に加えて、職場に忙しさが戻る週明けまでは帰りが早い父も食卓についた。母は普段どおりによく喋り、父に晩酌をすすめている。祖父はと言えば、黙々と赤飯を口に運んでいる。はしゃいだ綾子がポテトサラダを取り皿に山盛りにするものだから、ビール片手に父が叱った。ばつが悪そうにはにかんで取り分を戻す妹の一部始終が可笑(おか)しくて、幸子は吹き出した。見れば父も笑っている。

「ねえアヤ、今夜は私のお祝いなんだよ。いいことあったんだ」

 座りなおした綾子に、幸子が小声で教える。お姉ちゃんすごい、いいことってなあに、謎解きをせがむ妹のおでこを小突いて、すかさず「アヤもそのうちわかるよ」と付け加えた。こうして楽しい団らんを過ごした幸子は、体のだるさが紛れるほど充足感に満たされていた。だから母が、祖母の部屋にお膳を運ぶ支度をするときにも、普段ならば面倒がって嫌がるのに、自分から手伝う気になった。

「おお、有難うな。お祖母ちゃん喜ぶぞ」

 祖父の何気ないねぎらいを心地よく受けつつ、幸子は居間からお勝手のカーテンをくぐった。盆を片手に母が、風呂場の脱衣所に入って突き当たりのドアノブを捻る。かちりと金属が擦れた後から、小舟の(かい)に似た音色が尾を引いて、真っ暗な空洞が口を開けた。流れて来る冷気が温もった肌を撫で、身震いした幸子の下腹がまたつんと縮こまる。母が手探りで壁にあるスイッチを弾くと、蛍光灯が低く呻いて昏黒の通路を示した。

 廊下を左に折れれば便所が、右には土間があり、正面を行った奥には祖父母の部屋がある。しんしんと雪が降る夕べはは、とりわけ夜がふけるのも早く感じられた。外は無音に等しく、居間の声も心なしかくぐもってどこか遠くに聞こえる。古い平屋は広くもないのに、壁を一つ隔てただけで静寂が勝っていた。幸子は本当のところ、母に似て頓着しない性分の綾子よりも暗い廊下が怖い。母がすぐ脇の襖を開けて祖母を呼んだ。

「お義母さん、お義母さん起きとるかね。ご飯持って来たよ」

 豆球だけが点いた傘の下、暗褐色の明かりに縁取られた黒い塊が蠢いている。

 祖母は家族よりも早めに食事を取り、そのまま寝てしまう習慣がついていた。肉体と思考が著しく衰えても、食欲はそうそう失せないものらしい。日の出前から祖母が空腹をこらえて迷わないように、母はあらかじめ、喉につかえにくい物を保温容器によそって寝床に用意することにしていた。

「ほら、今夜は幸子が手伝いに来てくれたよ。お粥はねえ、赤飯で作ったわ」

 母の声を頼りにじっと見つめていると、幸子の目が暗がりに慣れて来た。冥闇の中から蒲団(ふとん)の花柄が浮き上がり、か細い色素をくねらせている。

「わかるでしょ、お義母さん。幸子のお祝いだでね」

「お婆ちゃん、食べてね」

 祖母の塊が、襖のほうにゆっくりと寝返りを打った。明かりが足りないばかりか母が手前にしゃがんでいるため、入り口に突っ立っている幸子からははっきりと見えない。

 どうやら祖母は、幸子のほうに首を伸ばしているらしかった。

 

 

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