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骨の男  作者: 若井狼介
4/10

    三

 炎天にアスファルトが(あぶ)られ、住宅街と青田の間を割るように伸びた道路の彼方が揺らめいている。一九九三年の夏。折しも栄えたバブル景気は終わりを告げ、関ヶ原インターから東のにわか資産家が早々と淘汰され始めていた。しかし高速道路の下に続く農村地帯では、土地を元手に資産運用をする流行りがまだ廃れるでもなかった。

「けったくそ悪い」

 寄る年波をさほど感じさせない褐色の腕を伸ばし、農作業から帰ったばかりの幸子の祖父が、食卓に置かれたやかんをつかむ。毎年夏になると、台所の流し台の中には決まって氷水をためた底の深い鉄鍋が置かれ、使い込まれた大振りのやかんが浸かっていた。やかんの中には煮出した麦茶がなみなみと入っている。こいつが暑い盛りの家族の喉を一日潤してくれるのだ。麦茶を煮出すのは祖母の日課であったが、今年は母が用意していた。

「何だ。幸子も飲むか」

 横でテレビを観ていた幸子に、祖父は麦茶が一口残った湯のみを差し出した。飲み残しなんてと嫌がる素振りをしてみせたものの、彼女は祖父の無骨な仕草が嫌いではない。

「ほらサチ、あんたまたテレビばかり」

 開け放した縁側から部屋に入って来るなり小言をこぼしたのは、幸子の母である。片手には畑からもいだ水茄子だの、土がついた葱だのを詰め込んだ、使い回しのレジ袋をぶら下げている。

「ちょっとまだ待ってよ、まだ今から観たいから」

 幸子は背を丸め、膝を抱えた。目当ての歌手が、持ち歌になぞらえて良く出来たエピソードを語っている。母は祖父を二言三言ねぎらい、汗ばんだ眉間に細い(しわ)を立てながらわざとテレビの前を横切ってお勝手に入った。

「お姉ちゃん見て、アヤ、おおきいのとったあ」

 次いで舌っ足らずな歓声が庭から飛び込む。妹の綾子だ。縁側に尻を乗せると、つの字に唇を突き出し「よいしょ、よいしょ」と掛け声をつけては両足をばたつかせ、裸足に貼りついたサンダルを振り落とす。

「お姉ちゃん、これアヤの、見てみて、一番おおきいのだった!」

 ばたばたと板張りを飛び跳ねて居間に来るや、背中にしょった赤い格子柄の小さな布製のリュックを降ろすと、中から両手で水茄子を一つつかんで取り出した。額や鼻先に土を付けた愛嬌のある破顔を向けている。

「へえ。良かったね」

 幸子は妹を一瞥(いちべつ)し、ブラウン管に視線を戻すと生返事をした。艶やかではちきれそうな実から伸びる(へた)には、浅い切れ目が何本かついている。五歳の子供のやわな指に断ち切りばさみはさぞ固かろう。一人で使える道具ではないと幸子は勘付いている。だから冷淡にしてみせた姉の態度を、妹は気にする節もなく頬にえくぼを凹ませている。生来明るくのびやかな綾子は、歳を重ねてから幼少を振り返ったとしても姉の仕打ちを忘れているか、かえって姉の心情を(おもんぱか)って懐かしむであろう。まして年端もいかないこの時分ともなれば、綾子は見るもの聞くものにことごとくあどけない好奇心を掻き立てられた。畑の収穫物をさも大事そうにリュックの中へしまい込むと、照れ

隠しに人気のコメディアンの調子を真似ておどける。幸子は抱えた膝をあぐらのかたちに組みかえて聞こえよがしに舌打ちをした。

 綾子が、大好きな姉の横に短い足を折って座る。

「お姉ちゃんの好きな人、テレビ出とる」

 血色の良い頬をふくらませ、たまらずぷうと吹き出した。

「まったく、お姉ちゃんはテレビばっかり――」

 母の口真似を終えないうちに、綾子が畳に転がった。片手で妹の額をつかんだ幸子が、そのまま後ろに押し倒したためだ。きょとんとした様子で起き上がった綾子は、両腕で頭を抱えて間を置いてから、口を開けてみるみる泣き出した。

「ほれやめんか」

「ちょっと! 何してるの!」

 祖父が幸子をいなすよりも早く、母が台所から居間に来るなり姉妹をどやす。すかさず「だって」と切り出した幸子は、妹が食べ物をリュックに入れたまま悪ふざけをしたことを母に訴えた。綾子は泣くのを堪えている。二人とも、母が怒りやすい理由ならわかってはいるのだ。

「いいからやめなさい、お婆ちゃんが起きるでしょうが」


 ――事の発端は昨年の晩春に(さかのぼ)る。

 春先まで田の一面に咲かせた蓮華(れんげ)草を、今度は耕運機で根こそぎ掘り返して潰し、土と十分に撹拌(かくはん)する。伝統的な農法にこだわるならいさ知らず、近年では需要にあわせて田植えの時期が早まっていた。幸子の家でも五月の半ばには田植えを行うものだから、冬の間中休ませておいたところに(いささ)か時期を前倒しして養分と空気を含ませ、稲が育つための柔らかで肥えた土壌に再び戻してやるのだ。ひとしきり作業を終えると、祖母はいつものように祖父よりも先に切り上げて畑へと向かう。時宜(じぎ)に叶い、分厚い土を押しのけて葉を伸ばした、いかにもうまそうな大根が目に入った。他の大根よりも実の部分を外に出し、太り肉(ふとりじし)の女の腕のように瑞々(みずみず)しく熟れている。煮物や味噌汁の具にしたらさぞよかろうと早速引っ張った拍子に、ふんばった右足が前に滑り、咄嗟(とっさ)に手をつこうと体を捻ったまま祖母は腰や尻を地面に打ちつけた。慌てて身を起こそうにも、少しでも動けば、あたかも神経繊維の束が裂ける程の痛みが走る。けれども気を張っていた祖母はなるだけ辛抱し、出来る限りの家事をこなした。

 これがいけなかったのだ。日中の疲れで眠り込んでいた祖父が明け方近くに気付いた時には、祖母は布団に横たえた体をこわばらせたまま痛い痛いと(うめ)くばかりになっていた。男手二人がかりで脇を抱え、どうにかこうにか車に乗せて救急外来をくぐり、そのまま入院の手続きをすませた頃には朝の七時を回っていた。

 関西の外れの出である母は、大学の同じサークルにいた父と出会った時分から茶目っ気を備えた女であった。短い交際期間を経て中部に嫁いでからも、稲作農家の長男にしては線の細い父と程よい対の関係を保ち、勝手向きを嫁に委ねるのは寂しい姑を立てる塩梅を心得ていた。しかしながら、この日ばかりは血の気の引いた表情のまま夫と義父に全てを任せた。代わりに残された朝の支度をきりもりし、娘二人を小学校と保育園に送り出すと、入り用の物を紙袋に詰め込んで髪をとかすのもそこそこに病院へと向かった。

 ロビーで待っていた祖父と出向いた医局で医師から受けた宣告は、祖母が長年酷使した腰をいよいよ駄目にしたうえに、尾てい骨に細かなひびがいくつも入っていると言う内容であった。

 母が駆けつける前に一度、祖父は息子と共に容態の説明を聞かされていたのである。担当医は希望の何一つ見出せない告知をそらんじながら、祖父の前に手術の同意書を差し出した。

「お前は、心配せんでもええ」

 誰に文句を叩きつけるでもなく紙にボールペンを走らせる、学のない朴訥(ぼくとつ)とした男は、息子を会社に行くよう諭すのがやっとであった。

 何十分かして母がロビーに着いた頃には、縦に五脚ずつ並べて十脚程ある長椅子を、外来患者とその付き添いが埋め始めていた。黒い椅子の端に、祖父はいかにも肩を落とした後ろ姿をして腰掛けている。晩のうちに髭がまばらに伸びた口元を結び、母の問いかけに重く頷くばかりである祖父に対し、人知れず覚悟を決めた母の振る舞いは既に気丈なものであった。

 しばらくの間、祖父は何をするにも気落ちした様子が垣間見えたし、小学五年生になった幸子もその心中を察する程であった。相変わらず帰りの遅い父は小言の回数が増え、対する母は、進んで近所付き合いをこなす変わりようを見せた。きびきびと田畑の世話に勤しむ母が家業とお勝手仕事の合間をぬい、祖父か父と共に週末を見舞いにあてる間、家の留守番と綾子のおもりは幸子が受け持っていた。これについて幸子は、思春期にさし掛かる頃から「姉であると言うだけで一切合切我慢を強いられた」と感じ取り、記憶に確執を絡めたまま押し隠している。やがて入梅の時分、どこもかしこも湿気た奥の畳屋に、リハビリもろくにままならない祖母が戻って来てからというもの、二言目には「忙しい」と言うのが母の口癖となった。例えば彼女が学校での出来事を話して聞かせようとしても、母はいつでも何かしら忙しくしている。ようやく居間に座ったかと思えば居眠りを始める。

「お母さんは、私の話をろくに聞いてもくれない」

 幸子が気付かないさまざまな問題事に奔走する母に、少なくとも幸子は不満を抱えていた。


「家のこと、ひとつも手伝わんと、喧嘩ばっかりして。あんたはお姉ちゃんなんだで、アヤの面倒ぐらいみなさい。忙しいのに」

 見下ろした母の眉間に、たて皺が一本くい込んでいる。幸子はよっぽど薄暗い庭に飛び出して抗議を決めこんでやろうかと思ったが、台所からぷんと漂ってくる晩飯の匂いに引き止められた。

「ああ、ほらごらん」

 テレビの前を再度横切り大股で居間から出たのは、母のほうであった。平屋の廊下伝いに、呻き声とすり足の音が近づいてくる。

 倒れてから一年余り、祖母は未だに腰から下の自由がほとんどきかない。あれほど働き者であったのが、家の中で寝起きするだけの生活を余儀なくされたのだ。用を足すにも難儀で仕方ない程であるから、初めこそ嫁に詫び、夫と息子には「情けない」と泣き言をもらして八つ当たりをしたものであった。けれども怪我に急かされた老いが人一人の心身を食いつくすには、もう充分な時間が過ぎ去っていた。

 幸子は机の横に移ると、毎週観ているアニメ番組にチャンネルあわせて音量を上げた。去年から一家は居間で食事をすませる習慣がつき、姉妹は机の横を自分達の指定席にしている。またいち早く幸子がテレビの正面を離れたのは、目の前を祖母が通ると小便臭いためでもあった。向かいに座った祖父は綾子を呼び、涙をふいてやっている。節がついた赤銅色の指がティッシュペーパーをそっとつかみ、器用に鼻をかませている。幸子は何をするでもなくたて膝をつき、机のまん中に置いてある爪楊枝(つまようじ)を一二本取っては畳の隙間に刺している。

「まあじき、サチも中学生だで。勉強部屋を用意したらんとな」

 祖父が下の孫の頭をなでながら、上の孫への気遣を見せた。幸子は潰した楊枝の先端から視線を移し、いつか笑顔に戻って台所へ箸を取りに行った健気な妹を横目で追っている。すり足が近付いて止み、障子貼りの下三分の一程にすり硝子(ガラス)をはめた引き戸が、がたがたと鳴った。異臭が廊下から部屋に流れ込んだ。


 ――いつの間にかソファで眠っていた幸子は、寝苦しさのあまり目を覚ました。背もたれに押し付けた背中や尻が汗ばんでいる。早朝は肌寒かったので空調を切っていたのだ。今は部屋中すっかり蒸している。たまらず起き上がり、机の端にあるリモコンを取ってドライのスイッチを押すと、今にも雨がぶり返しそうな空を映したサッシの下には早くも水滴が溜まっていく。霧がかった頭のまま鼻の汗を拭うと、幸子はクッションの上にリモコンを転がした。瞼をこじ開ける直前、生臭い、嫌なにおいを嗅いだように思う。体にへばり付いた寝間着を脱ぎたくて立ち上がろうとすると、取り立てて肥えてもないのに緩んだ腹の下が鈍く(うず)いた。思わず呻いて腰の辺りをさする。熱く(にじ)んだ尻のぬめりは、どうやら汗のためではないらしい。夢の内容こそ起きた拍子に失念したが、臭いの元が自分なのだとしたら、なおさら不快でならず、彼女は洗濯機の前まで行って下着ごと脱いだズボンを投げつけた。

 次いで、部屋着に替える前に浴室で軽く湯を浴びることにした。石鹸の甘い芳香が溶けたきめ細かな泡をたっぷり乗せたスポンジで、肌を撫で、血の汚れを泡に包ませて流す間、彼女の胸中にはタケシからの返信メールが一語一句思い出されてならない。タケシに幸子は、自分の実家は歴史的に名高いあの関ヶ原で地主をしていると説明した。直に話したのではない。メールにしたためたのであるが、この男にならいいと決めた彼女のほうから自己紹介に絡めて何度か話した。

 通信機器ごしに活字を送受信させあう交流を、人と人との親睦の内に含めたとしても、生まれてこのかた触れ合ったと言えるだけの人間を数えたなら、片手で事足りる程しか思い当たらない幸子である。だからこそ、タケシとタケシ以外の人間との違いが、彼女にはより鮮明に感じられたのではあるまいか。もっとも彼女は、パソコン画面に素性を隠した面々と無難に付き合える自分の器量や、人に裏切られ不当に虐げられた学生時代の体験、加えて創作を好む自身の鋭敏な感性が、いつしか人を見る目を養うに至ったと考えているふしがある。その証拠に、彼女がどれほど過去の不幸な身の上をまくしたてたとしても、タケシは一貫して主観的な語りに同情を寄せなかった。他のユーザーなら我先にとばかりに上手い文句で励ますのに対し、タケシだけは、ともすれば酷い外圧のせいで惨めな日々を送らざるをえなかったと言う彼女の根本の主張すら、主張を固める接着剤の代わりにした瘡蓋(かさぶた)や、心のひだの裏にこしらえた赤黒い血豆を「膿んではいないか」と見定める。彼はメールのやりとりだけで、相対する人間の奥底までをも見抜いていた。少なくとも幸子は見抜かれていると思えてならなかった。

 そのうえで、彼は優しかった。飾り気のない面もちと熱意が伝わる文面で「つい厳しい言葉を返してすまなかった」としたためてよこすのだ。せつないざわめきとともに幸子は、タケシの強い精神に見合って雄々しいであろう肉体と、肉体を構築するために行儀良く組み合わさる真っ白な骨を想像に描いては、際限なく惹かれていった。視界がまた涙で揺れる。取り返しのつかない失敗をしたのだと自覚するたび胃の辺りにこみ上げて締め付けるのは、自責の念を覆う程の、怒りとも焦りともつかない衝動である。結婚し、これまでのさえない自分からワンランクアップしたと信じたものの、昇華されなかった彼女の内面の孤独が、我が侭(わがまま)に愛情を欲している。自分の劣等感を流してくれる手近な(さお)が、たまたま秀行であった。七年前の自己姿をなぞりながら「男を知らなかっただけなのに」と思うと、幸子は自分の不幸の在り処を見抜いたとさえ感じるのだ。一向に乾かない瘡蓋(かさぶた)や血豆は、とうの昔にごっそり関わりを断った他人から受け続けた侮蔑(ぶべつ)の数々が残した烙印か(かせ)で、タケシと決別しなくてはならなかったのも、忌々しい思い出が無意識に災いしたからだ――。堂々巡りの末に、幸子の認識は決まってひとつところに収まるのである。濡れそぼった髪や体を大判のバスタオルで拭い、痛みのこもった陰部に分厚い綿をあてがった後、彼女は冷凍のホットケーキを電子レンジに入れた。

 郷里で費やした中学生活が文字通り針のむしろであった幸子は、家にいればいたで明るい妹に引け目を感じ、やり場のない感情を父母にぶつけては「親らしい手助けをしてもくれない」と嘆いて反抗した。間が良いのか悪いのか、気持ちが荒むと増築したばかりの子供部屋に決まって閉じこもり、腹が減るまで出てこなかったものである。母屋は築年数の経った平屋で、どんつきには祖母の部屋があった。納屋にトタンを張った物置には様々な道具が押し込められ、縁側の前にはずいぶん根を張った庭木が茂る、田舎道を走ればいくらでも車窓を横切る民家であったのを、タケシには「実家はちょっとした地主なの」とだけ説明した。だが彼女が嘘を吐いたとも言えない。祖父母が汗水流した田んぼは、地元農協の地域開発課が経営する二棟のコーポと駐車場に変わり、早十年が経とうとしている。

 彼女がタケシと知り合ったのは、永く名を(とどろ)かせる武将達の系譜や大小の戦のデータや、身分の低い商人であった秀吉が天下を盗るより以前の文化を紹介したホームページであった。史実をベースにしたドラマや小説に傾倒し、思春期には漫画の武士に胸をときめかせた幸子には、やや刺激に欠ける場であった。ただし、絵を描くにも下調べに余念がない点は娘の頃から変わっていない。服装から景色まで、歴史的な事実を知ったうえでイラストを仕上げる彼女のこだわりは、自分はかの有名な関ヶ原の出身であるという自己主張の表れである。そしてまた、強烈な体験が起因となったからこそ創作に向かえるのだという自負や、嗜好を満たすための作業でもある。尚、幸子の体験に関しては、後に彼女の思春期に(さかのぼ)り、詳細を書き綴らなくてはならない。よってこの章では「遺物の彼」とだけ書き留めておくことにする。

 幸子は木製のデッサン人形を手に取り、関節をいじってポーズをつける。ポーズが決まったら目の前に置き、人形の動きを模写した後、イメージ通りに人体の肉付けを施す。イラストのモチーフのほとんどは、きりりと引き締まった面差しの若武者である。または刀を腰に巻き、婆沙羅(ばさら)傾奇者(かぶきもの)と呼ばれたなりをした、美丈夫の男性像も何枚か完成させて来た。幸子はラフの行程から丁寧に描きこみ、衣装も細部まで線を書き足す。清書の段階では、武具の(おどし)から刀の柄の掘り物に至るまで、彼女自身のデザインを加味しながら出来うる限り細かく再現してみせるのだ。これについて彼女は自身のブログで、戦国時代を扱った創作に惹かれる理由とあわせ、生まれ育った土地柄が所以(ゆえん)であると説明している。正確には、彼女にとって暗い時代に地中から現れた「ある遺物」が、思春期ならではの強い死と性への好奇に交えて鬱屈した欲をも慰めてくれたためだ。

 幸子はブログを開設して以来、資料集めのために時折このホームページを覗いていた。ホームページの作成者が語るには何でもどこそこの教諭を勤め、退職した後も日本の中世を半ば趣味で研究しているのだそうだ。なるほど、各地の史跡を巡る旅行記らしく仕立てた連載ページには、機知に富んだ内容が嫌みのない筆でわかりやすく綴られていた。インターネットから開放感を得る彼女には、これがいかにもありふれたやり取りにしか映らなかった。資料集め以外に接点が見いだせないが、習慣から気まぐれに掲示板を覗く日もなくはなかった。

 さて、人と顔を突き合わせて取る交流には慣れない幸子であるが、インターネットなら何年もの間欠かさず続けている。膨大な情報から、あくまで自分と似た嗜好の他人を判別して交流を繋ぐ習慣は、やがて投稿内容から人となりを判別する審美眼めいた嗅覚を養うに至った。幸子の第一印象のとおり、前述したホームページの掲示板は、中年から上の世代の利用者がのんびりと親睦を交わす場であった。しかし予期せぬことに彼女の退屈は、前触れもなく覆されたのだ。長々と持論を述べる投稿ばかりが並んだ合間に、短文でありながらも胸を打つ情緒豊かな感想をしたためる人物がいた。ハンドルネームをタケシと名乗った男である。彼は年配の知識人達に媚びて迎合しないどころか、黒い腐葉土を割る生命力すら匂い立たせた緑の香竹を思わせる、まっすぐな言葉を常に綴っていた。また彼の投稿に沢山連なった返信を読むにつけ、掲示板に集った誰からも彼が愛されている様子まで伝わって来る。幸子にとって初老のお堅い諸国漫遊記には依然何の関心も沸かないにしろ、タケシの言葉に気付いてからは掲示板のやりとりをつぶさに眺め、ふいにある確信を抱いた。

「タケシという人は、きっと、誠二に似ている」

 焼けた肌をして背が高く、きりりと締まった男らしい顔立ちに反して、幸子と似ていない二重の目じりを時折照れくさそうに下げては愛くるしい笑顔を垣間見せていた、従兄の誠二である。中学には男子生徒から闇雲に遠ざけられるばかりであった幸子にとって、見てくれから申し分のない誠二だけが変わらず彼女と接してくれる、ただ一人の真っ当な異性であった。

 従兄の存在がほのかな光であったとしても、彼女に青春時代のイメージを問えば「灰色がかったイメージ」と答えるに違いない。単純な男子生徒はいつでも彼女に冷たくあたり、女子生徒は遠巻きから(あざけ)りを隠しはしなかった。仕方なしに自分と同じくクラスメートの群れから弾かれた数人と親しくしてはみても、長方形に固めた校舎に並んだ箱型の教室ごとの基準にてらせば、見栄えも学力もぱっとしない面々と身を寄せ合う境遇は、彼女の自尊心をますます損なうばかりであった。さらに遡れば、妹の綾子が生まれてからと言うもの、姉であるというだけで損な役回りが少なくなかったと自認している幸子である。普段は従順に徹した学生生活への反動も大いに手伝い、思春期には人生やら生死などの大きなテーマに疑問符をなすりつけ、我が身の不幸とあらゆる他人を呪わない日はなかった。ただし、相変わらず彼女はクラスメートの誰よりも絵だけは上手かった。高校を卒業するまでの間、担任の教師から学校行事や卒業記念の小冊子の表紙やカット描きをたびたび頼まれもした。幸子の家の子供部屋の下に「ある遺物」が現れて以来、振り払おうにも惹かれてならない男性像をただ格好良く描くだけでは飽き足らず、血や生傷や苦悶の表情を描き加える煽情(せんじょう)と興奮を知ったのもこの頃である。今朝がた幸子のパソコンにメールをよこした高校時代からの友人とは、授業の合間や放課後に絵を描いて遊んだものであった。調子が出てきて淫猥な描写をすれば鷹揚な気分に駆られ、他の生徒に構うことなく喚声をあげた。

 大人になった彼女は、自分のブログに会員制のページを作成し、命を奪わない程度に斬りつけるか絞めあげた男のイラストを掲載している。夫に気付かれないよう、注意に注意を払って充実させた開かずの扉を開けるには、鍵の代わりに設定したキーワードと暗証番号を入力しなくてはならない。近い嗜好の友人一人のみを例外に、彼女の身辺にたとえ(わず)かにも接近しそうな相手には、少しのヒントも教えない徹底振りを誇っている。

 隠れて快楽的な趣味にふける幸子に、何故決まって絶命した姿までは描かないのか尋ねてみたとしよう。すると恐らくは「清潔感に欠ける。スタイリッシュではない」あるいは「命を奪うだなんて酷い描写は、かつてのクラスメイト達なら揃って喜ぶだろうが私はしない」と答えるのではあるまいか。現に恋しい虚像を描いている間、気をゆるすと苦い思い出が彼女の胸をかすめて(うず)くのだ。

 思い返せば今では遠く、長いようで短かった夏休み。盆前になるとやって来た誠二は年毎に、青田を凪ぐ風や、眩しい日差しが似合う青年へと成長する姿を見せた。いっぽう幸子は、性の発達によって丸みを帯びた輪郭や脂肪の張った体型を、どうにか隠したくてならなかった。肥満とまではいかないにしろ、凹凸のない面立(おもだ)ちとあわせて嫌悪すべきコンプレックスでしかなく、誠二が微笑みかけてくれでもしたなら尚さら素直に返せなかった。ほのかな恋心が(さいな)むので一層惨めに思いつめると、従兄の情に同情を探りたて、母屋の横に建てられたばかりの自分の部屋に籠もった。

「幸子はもう、僕と遊びに行く年頃じゃないもんな」

 帰りがけに呟いた誠二の言葉を、幸子はずっと忘れられないでいる。蜻蛉(とんぼ)が飛んでいく空も山も稲田も、それに誠二の横顔も、夕暮れの色に染まっていた。


 誠二の面影は、幸子が描く絵柄に反映されている。

 他に影響を与えた人物をもう一人挙げるとするならば、それは「遺物の彼」である。

 決まりきった日常に突如として現れた「彼」は、多感な時期の彼女の空想をかき立ててやまなかった。自分を取り巻く人々への、ひいては日本や世界に対する鬱憤(うっぷん)を溜め込んでいた彼女の、実家の暗い土の下からやって来た「彼」は、思いもよらず凄惨な姿をしていた。自分だけが孤独のうちにあると思い込んでいた彼女は、土の中に何百年も取り残されていた「彼」が何者であったかを考え、「彼」の最期を夢想するようになる。その反面、バラエティーショーの心霊特集から、亡霊やたたりを連想して「呪われやしないか」と臆病にかられた。怖いのに訳を知りたい欲求は、同じクラスの男子生徒に植え付けられた異性への嫌悪や、嫌悪の大元にある性の発達と絡まって増幅した。けれども小動物じみた勘でも働くのか、初恋の思い出が痛むのか、幸子は死を描かない。

 秀行が出張で帰らない日の夜、幸子はスナック菓子をつまみながら、ただの資料に過ぎなかった中世史の愛好家のためのホームページに参加してみようと思いついた。他の誰でもないタケシの印象に残るためを狙い、自分の特技であるイラストを披露したいので、急ピッチでラフを仕上げにかかる。意識的に普段の絵柄を抑え、タケシが好きだと書いていた武将のイラストを挨拶文に添えて掲載した。案の定、反応はすぐに返って来た。ホームページの管理人達から送られた予想通りの反響を良い気分で流し、彼女が望んだ一件の返信にマウスのカーソルをあわせる。何度か目にしたとおりの、いかにもタケシらしい感嘆の言葉が、彼女に宛ててつづられていた。彼が素直に喜んでいるのがわかるものだから、幸子は思わず、水茄子を噛んだようなむず痒い心持ちがした。屈託のないタケシと、照れ屋の誠二がはにかんだ残像が重なって見えた。満たされた面持ちでパソコンの電源を切り、浮かれ気分に浸って夜中の廊下を小走りに歩く。洗面所の灯りを点け、鏡と対峙して()めた。横にいればいたでいびきがうるさい秀行であるが、幸子ひとりきりの寝室はだだっ広く、やけに冷たく感じられた。心細さに堪えかねて、先程の楽しいひと時を振り返ってはあれこれ想像をめぐらせるうち、ますますタケシが欲しくてたまらなくなった。

 幸子が大学に通う傍ら小遣い稼ぎにバイトに入った広告会社では、彼女がメモ帳に描いた落書きを見た社員から、ミニコミ誌のカット描きを何度か頼まれたものである。これをタケシには「商業誌のカット描きをした経験がある」と話した。タケシが日本史に興味を持つきっかけを、今でこそ慎ましい暮らしぶりではあるが、両親から血筋は由緒正しいのだと聞いて育ったためもあると語れば、幸子は自分の祖先が昔から関ヶ原に住んでいたならばと言う仮定を省いて「もしかしたら私の先祖は合戦に赴いていたかもしれない」と返した。彼女が自分の実家を有名な土地の地主だとだけ書いた説明とあわせて、ひとたびインターネットを通せば、自画像を良く仕立てる口上がすらすらと浮かんで来る。明らかな嘘を書き残すへまをせず、まずもってないであろう予期せぬ事態に直面したとしても、言葉のあやか受け取り方の相違だと誤魔化せる範囲の虚飾(きょしょく)を駆使した。自由自在にキーを操る幸子は、例えば画面の向こうのタケシに近寄ろうとする女性達を、匿名性に隠れて貶めては追い出す真似すら造作もなかった。

 タケシが頷くまで朝晩となく迫り、無理強いを重ねた甲斐あって、岐阜市のとあるシティホテルで夢のように落ち合ったのは、初夏らしからぬ昼間の暑さがじっとりとこもった夜であった。鈍色の雲がところどころに(とろ)けては星明りを潰した闇を、細く鋭利な臥待月(ふしまちづき)が裂いていた。

 幸子はこの日の為に体重を落とし、清楚なワンピースと、足首に華奢(きゃしゃ)なベルトを巻きつけて止める可憐なサンダルを新調した。洒落た外観に(ひる)んで入ったためしがなかった市内のヘアサロンで、髪や化粧を仕上げたにもかかわらず、興奮と緊張に自然と体が強ばる。夫の秀行には、高校の同窓会に出るので友達と一緒に前日からホテルに泊まると話した。「特別プランを利用すれば、女ばかり上限三名が格安で宿泊出来るから」――ここぞとばかりに幸子は、情報誌に紹介されていた宿泊プランを口実に使って、さもそれらしい嘘をついた。夫は同日、勤め先の労働組合が主催した釣り大会に参加する予定でいるので、妻の外交も快諾した。予定より早く着いてしまったものだから、ファーストフード店で何をするでもなく時間を潰し、いざロビーのフロントに立つと、しり込みをしたので口ごもったものの、問題なく部屋のキーを手にした。抑えきれない衝動につき動かされるまま、ようやく想像を実現にまでこぎ着けたのだ。苦心に苦心を重ねただけに、世間知らずな女であっても腹は(くく)る。何度も断られた挙句に掴み取った幸運である。強くせがんだところで当然タケシから拒まれ、たまらず幸子は生き死にをほのめかしもしたし、条件をつけて懇願(こんがん)するメールを何度もしたためた。


「あなたと日本史のサイトで出会い、あなたの観念、あなたの言葉に惹かれたのに。そもそも私はホームページやガイドブックになんか載っていない、私の古里の景色や風習や、いろんなことをあなたにお話したかっただけ。名もない史跡だって案内したいだけだったのに。それは基本的には今も同じ。あなたも、興味を持ってくれたはずです。だからメールを着信拒否しないのではないですか? 一度会ってくれるだけでいい。あとくされなしで、決着をつけてくれるだけでいいんです。ここまでお願いしているのに断るなんて酷い。タケシがわかってくれないなら、私は誰に相談したらいいの? 惨めだよ、死ぬほどつらいよ。誤解しないでください。貴方を困らせる気なんかないんです」


 昼の内にメールを送り、いい加減返事がほしいと半ば怒りをこめつつ、幸子はいつもに増して、何に願うやらともかく願った。それでも腹は減るから飯をよそっている間に、居間の角に据えたパソコンが、短い返事を受信した。

 仮想空間を介さないことには出会えなかったろう、幸子の身の回りには到底現れない男を獲得したのだ。自力でこなした自信と安堵が相まって、彼女の内面には、今日の情事を誰かにほのめかしたい高揚すら湧きあがる。反面、これからタケシに会うのだと思うと鼻の頭や(わき)に汗が染み出すので、彼女は何度も身だしなみを点検し、手鏡を握りしめてはファンデーションや口紅をなおした。そうして待てど暮らせど、未だ一向に人が訪ねてくる気配がない。ベッドに座って時計を見ると、既に二十三時をまわっていた。いつの間にか、約束の時間が過ぎている。幸子はべそでもかきそうな面持ちで立ち上がると廊下に飛び出そうとした。その瞬間、ノックの音が部屋に響いた。鼓動が高ぶる。汗がふき出した(てのひら)でノブを捻ると、幸子は恐る恐るドアを開けて正面を見上げた。――目の前に(たたず)んだ男が、彼女を見つめ返し、夢に見たとおりに微笑んだ。オートロックがかかる音を後ろに、背の高い影が近付いてくる。男の良い肉厚の唇から覗かせた歯は、やはり誠二に似て白い。ただし記憶の端々にいる誠二は澄んだ日差しが似合っていたのに対し、タケシの歯の白さや雄雄しさは、夜陰にこそ映えるに違いなかった。意志の強さを物語る眉に、(まなじり)の切れ込んだ鋭く、それでいて優しい表情をも覗かせるまなざし、長くも短くもないうねる黒い髪――タケシのパーツのどれもが独特の魅力を漂わせ、存在感を際立たせている。彼女はタケシがシャツとジーンズを着ていたように覚えているが、予想を超えた彼自身の肉体の造形美に圧倒されるあまり、後日ふり返ってみても彼の服装等は思い出せないでいる。

「幸子さん」

 低く良い声が、夜気をまといながら部屋に響く。会えば緊張がほぐれると暗示をかけてはみたものの、しどろもどろに返した挨拶は声が上擦り、顔が引きつってならない。大枚を叩いた装いもまるで効かない。例えば生物学の見地にうとい彼女でさえ、清漣(せいれん)を感じさせる誠二でもなければ、まして気安い夫と夫に似た大多数でもない、希有(けう)なこの男に息を呑み、射すくめられたのである。圧倒された彼女は生唾を飲み込んだ。無意識に奥歯を噛みしめていたせいか、歯茎が(しび)れてむず(かゆ)い。――彼女の田舎では、木の芽時から夏の盛りにかけての宵風は、虫の音と共に、蒸れた草木や土の臭いを運んで来たものであった。こと湿気のこもった静かな夜には、我が家とはいえ闇にとっぷりと飲み込まれた古い平屋の廊下が怖かった。緊張をほぐすため同じ経験を探り当てようとする彼女の意識の隅に、取りとめのない記憶ばかりがよぎってはざわめく。心細くてならないのに、しかし何者をも凌駕(りょうが)する男に見惚れてならない。

「私ずっと、あなたを待ちわびていたの」

 下腹部が脈打って充血した。

 タケシがまた微笑んだ。

 

 

 

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