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骨の男  作者: 若井狼介
2/10

一章 一

 

「――ううんいいの、だってサチ、もうおかず作っちゃったんだもん」

 幸子は小首を傾げるような仕草をして、唇を尖らせてみる。電話が置かれた木製のラックに軽くもたれ掛かり、メモ帳に落書きをしながら受話器の向こうに相づちを返した。

「はあい。じゃあヒデ君、気をつけてね」

 幸子の夫の秀行は、仕事が終わると決まって毎晩自宅に電話を入れる。帰宅のベルを受けた彼女は、二人が独身時代に呼び合った愛称を普段に増して口にする癖がある。五つ年上の秀行と彼女が挙式を済ませたのも、五年前のちょうど同じ時分であった。

 鬱陶しい梅雨時に、ジューン・ブライドにあやかりたい男女の予約が混み合う中、平日の午前中に来られそうな客を招待し、当月だけの演出プランを割安且つ華やかに盛り込んだお披露目を終えた。六月に式を挙げようと初めに提案したのは秀行であり、彼女には彼が大人びたロマンチストであるように思われた。更に交際した期間を合わせれば、二人が知り合ってから早六年が過ぎたことになる。

 つい二三年前までは、時折「同僚を連れて行くから」と、前もって連絡なしに電話口で切り出されたものであった。そのたび彼女は愚痴をこぼしつつ、客を連れた夫が帰途に着くまでの間に慌てて支度をした。今では各々が家庭を持つか子供が産まれ、他人の家でおよばれを受けるどころではないらしい。幸子は気楽でいいと内心胸を撫でおろしている。反面、適度に家事をこなし、生活圏内よりも外に出歩く理由がない、判を押したように穏やかな生活に物足りなさを覚えてもいる。だから彼女は夫の帰りを待ち、受話器に向かって自然と舌ったらずな口調にもなるのだ。けれども電話を切った後から、媚びた自分の態度が反芻(はんすう)された。髪をひっつめたゴムを結わえなおして台所へと向かう。

 二十七歳は若くない部類に入るのだろうか――先に皿に盛り付けた煮物を味見しながら、彼女はぼんやり考えている。出汁(だし)がよく利いている。母親の味にまた近くなった。


 六年前、幸子は名古屋市の短大を卒業し、車会社の岐阜支社に入社した。

 中部地方の西に位置する岐阜県は、比較的広い面積を有しており、県庁所在地である岐阜市をはじめ、県内は十四の市に分かれている。開けた市街を抜ければ田園と緑が続く風光明媚な地方であり、平野を囲んで(そび)える連山の深い山間には、昔ながらの(たたず)まいと風習を今も守り抜く街道や農村を残している。

 幸子の実家は、岐阜市に近い新興住宅地にある。勤め先への交通の便が良く、元々は米やら野菜やらを作っていた一家の気質を受け継いだ彼女には、あくせくしない職場の気風が性に合った。名古屋のキャンパスでは、明るく染めたウェーブヘアを揺らして闊歩(かっぽ)する同級生に気後れを感じ、色恋の駆け引きめいた遊び事にもとんと馴染めなかった。それに比べれば、地元での会社勤めは快適であった。

 勤め出して数ヶ月が経った頃、同じ課の秀行からランチに誘われた。すでに幸子は周囲に慣れ始め、秀行とも日常会話を交わしていた。固太りで、穏やかな容姿に違わず人懐こい彼は、恋愛経験の乏しい幸子が描く理想像には結びつかない人物であった。ただしまめで、親切な先輩ではある。彼女の仕事が遅くまで掛かった時には気を利かせ、同僚のOLと併せて家の前まで送ってもくれる。

 そのうち秀行は、帰りがけに幸子だけを夕飯に誘いはじめた。仕事場で独身の男は秀行と、彼の後輩で、遊び上手な若い面々とばかり飲み会を楽しむ同僚、そしてやもめ暮らしが板についた係長しかいない。異性からのアプローチに慣れない彼女は秀行に戸惑う半面、好意を寄せられていることが嬉しかった。秀行にしてみれば、いかにもうぶな幸子の仕草が初々しく映ったのだ。他の女はせいぜい彼と同期であったし、眉を細くつり上げた流行りの化粧に、派手さを抑えたブランド品のネックレスを上手く合わせている。その点、幸子であれば扱いに注意を払う手間がなく、まだ(あか)抜けていないようすが可愛らしいと感じた。美味いと評判の洋食店の、感じの良い二人がけのテーブルで、互いの仕事の失敗談やら幼い頃に観たテレビ番組の話題に花を咲かせ、会話の合間に秀行から「ヒデと呼んでいいよ」と促した。幸子は、女友達をあだ名で呼ぶ時とは違うくすぐったさを噛み締め、秀行を異性として意識した。

「ヒデ遅い。おなか空いたんだけど」

 誰もいない台所で呟いてみる。 

 寿退社をして以来、幸子は働きに出ていない。パソコンの扱いならば比較的上手く、事務職に割り振られたルーティンワークをそつなくこなした。こなせばこなすだけ、自分は職場に居場所を見出し、仕事に生きがいを感じる人間ではないと悟った。何よりも、ストッキング程度の膜に闘争心を包んだ女同士の社交の輪に幸子は加われず、蚊帳(かや)の外から(うらや)むほかなかった。ただし今となっては、馬鹿馬鹿しいしがらみを断って良かったと心底考えている。

 幸子と秀行が結納を交わした前後に建てられたマンションは、そこそこ洒落た外装と、郊外ならではの値を抑えた家賃が近隣の新婚夫婦を呼び込んだ。今では階下に三輪車が置かれ、入居者専用の駐車場には、車窓に「子供が同乗しています」と警告するステッカーが目につく。この新たなコミュニティーも、幸子には学生時代や職場と何ら大差ない集団に過ぎない。事実、とかく子持ちの主婦同士は親睦(実のところ干渉しあっているに過ぎないが)を繋ぎあうべく活動的ではあるが、接点がないので利害も発生しない幸子とは、挨拶を交わす以上の興味を示さない。彼女もまた、互いの部屋を行き来する近所付き合いを望んではいない。

 幸子が親しいのは高校時代の同好会の友人であり、あるいはインターネットを介して文字で交流を取りあっている面々である。彼女は小学生のうちから絵が上手く、高校時代には、暇さえあれば友人達と描いた漫画をまとめて同人雑誌を刷った。以来同好の仲間と知り合えず、または地元を離れたのを機に彼女のほうから遠ざかったのであるが、専業主婦が板についてから再度絵を描く熱がぶり返した。

 昼前、洗濯機に汚れ物を詰め込んだら他は後回しにして、幸子は居間の西の角に据えたパソコン台に座る。そうして程良く弾力のあるキーを慣れた手つきではじき、マウスを滑らせる。友人の勧めで始めたブログに、レイアウトを考えつつ自作のイラストを掲載していくのは、彼女にとって没頭出来る作業だ。おまけに、更新の回を重ねるごとにイラストの腕前が上がっていく満足感は、幸子の錯覚ではなかった。どこで聞きつけたものか、ともかく評判を(つて)にアクセスしたユーザーは口々に誉め、あるいはブログ仲間が描いたイラストの良し悪しを講評すれば、雄弁な彼女に賛同する書き込みが舞い込んだ。他人と進んで接点を持たない彼女であるが、今ではインターネットのマナーを知らない利用者をたしなめてやることも苦ではない。彼女は対人面の経験値を積み重ね、自らの真価を得たかのような充足感を度々覚えた。

 こうして毎日決まった生活パターンを繰り返してさえいれば、よもや逼迫(ひっぱく)した事態もなければ、窮屈に感じる物事も存在しないのだ。幸子には、不満らしい不満が何もないはずであった。

 窓に垂れたレースのカーテンに、薄い宵闇が染みている。オレンジ色をした丸い夕日は、いつの間にか家並みとビルの陰に消えていた。緩慢な速度で外界に置き去りにされていく焦りは、平穏な幸福にこそ(にじ)みやすいのか。

 彼女は部屋着のズボンのポケットから携帯電話を取り出した。日付を見る。タケシと落ち合ったあの日から、今日で一ヶ月になる。近頃は、忙しい朝を皮切りに掃除洗濯を済ませ、後の一日の大半を、品揃えがよい本屋に立ちよりがてら外食と買い物に時間を割いていれば、やるせない煩わしさも幾らか和らいだ。夫がいる時には全く疼きが遠のいていると言ってもいい。もっともこれは、タケシを好きでたまらないと気付き、彼にメールを欠かさなかった頃から付けていた区別なのであるが。幸子は、これまでどおりに暮らしていくために「タケシも元の生活に戻り、私の存在ごと整理をつけてしまったろう」とは努めて思わないことにしている。そうでもなければたちまち悲痛な気持ちに迫られ、頭でつけた分別を放り出したくなるためだ。

 デジタル表示の時間がまた変わった。

「どうせ、私がいてもいなくても同じ」

 隠しおおせない不安がよぎる。正しい答えを唱えてみたところで遅い。急に胸のわだかまりがぶり返した。ふいに立ち上がったので、キッチンの椅子の足がフローリングの床を削り、耳障りな音で騒ぐ。構わず隣の居間の机に広げた新聞を畳もうとして、涙が溢れた。タケシは淋しくないのか知りたい。彼は今どうしているのか──せきを切ってこぼれ落ちた感情を誰にはばかる事なく吐いた幸子の脳裏には、彼のメールに書かれた何気ない挨拶や、精悍な顔立ちと体躯が思い出されてならない。大声で泣き伏した後、顔を上げてもう嫌と一度叫ぶと、今度はそのまま押し黙った。鼻水を部屋着の袖で拭う。力ないため息が何度か漏れ、分別と言う(あきら)めが徐々に恋心を退けるにつれ、お決まりの欲求が彼女の意識に尻尾を覗かせる。

 いつからか私の内側には漠然とした枯渇が根を張り、結婚をした当初こそ麻痺していただけだった。――おさめどころのない感情が胸を掻き乱し、みるみる鮮明になっていく。

 幸子にはもう何も起こらないはずが、あらゆる感情を底から強く揺さぶり起こす程の人間が、今になって現れたのだ。彼女の全てを覆すだけのタケシと名乗る男に対しては、ディスプレイの隔たりを良いことに、やもたてもたまらず強気な女を演じ続け、なりふり構わず大胆な駆け引きを仕掛けた。ぎこちない要求が功を奏すたびに味を占め、人生思いきりのよさが肝心なのだと、妙な処世術と自信を得た機会でもあった。

 断ち切って整理をつければ、記憶の果てに消えていくものでもなかったのである。会えない日がかさめばかさむだけ、彼女には喪失感ばかりが増していく。

「あんな極上の男には、もう二度と会えやしない」

 畳み掛けの新聞を床に叩き落とした。

「やっぱり私、タケシじゃなきゃ嫌だから」

 散らばった広告をわざと踏み、つかつかと部屋の隅の棚の前に来ると、彼女は椅子に腰掛けもせずにパソコンを起動し始めた。秀行の実家に顔を出した際に高速沿いのホームセンターで購入した代物であるにせよ、光沢のある乳白色の机と揃いのパイプ椅子は、一ヶ月前までは幸子がこよなく愛した空間である。メーラーを開くと、感傷にむせぶでもなくやにわに指を働かす。むらむらと込み上げる感情と動悸で掌に汗が浮き出しても、キーを叩く音は止まらない。画面を凝視する彼女の表情には迷いの気色も見えない。一度きりと約束をした逢瀬以来、しかし気をゆるせば、独特の低い声が蘇っては鼓膜を震わせる。夫の相手をしてやる最中には、タケシの指使いを脳裏に描かなくては乾いたままなのだ。


「こんばんは! 元気ですか? わたしは元気です。タケシは忘れたかな…今月はわたしのバースデーなんだ。って、いきなりごめんなさい。いきなりついでだけど、もしよかったら…また友達から始めたいなって。タケシの誕生日、私聞いてなかったし。でも別に変な意味じゃないからね? 本当に元気かなと思っただけ。無理して返事はしなくていいよ?」


 程なくして帰宅した秀行は、着替えを済ませると、いつも通りすぐに食卓に着いた。出来あいの惣菜と手作りが半々に並んだ献立を、彼は美味いと言わないかわりに注文をつけるでもない。たまに妻がテレビや雑誌を見て料理した品の、味の決め手を喋り始めても、軽く頷くか褒める程度の反応を示す。飯の茶碗の横に晩酌を用意しておけば、彼は毎日ほとんど残さずにたいらげるのだ。炒め物をつまみに缶ビールを一口流し込むと、食事の間中つけっぱなしにしたテレビの討論バラエティーに、秀行が威勢よく反論してみせた。

「この道路族ってやつはさ、今まで金を上手く使ったためしがないくせに、廃止論が出た途端必要性を強調しやがるんだよ」

 批判とも愚痴ともつかない一言に、今更幸子が魅力を感じることはない。ただし長いうんちく以外なら苦になる程でもない。ただ今日の彼女は、夫の話の相づちを打つのを(ことごと)く忘れていた。

 食事の後は手早く片づけ、夫がくつろぐ居間に座る。そして夫婦で借りた海外ドラマのDVDを観るかテレビゲームに興じるのが、秀行と幸子の常であった。一見して、どこにでもいる若い夫婦のあり様だと言えよう。幸子は、緊迫した効果音を大袈裟に轟かせて畳み掛けるストーリーの、流れる字幕を追うでもなく画面を眺めている。知ってか知らずしてか興奮した秀行が、妻の肩を抱き寄せた。――近年は初産を経験する年代が若年化する傾向にあるとも言われるが、幸子は妊娠する踏ん切りがつかない以前に、自分が母親になる姿を未だ思い描けないでいる。三年前とその翌年に、秀行の実兄夫婦が年子を授かった。彼の父母は目下、可愛い盛りの孫達をこのうえなく溺愛している。また秀行には弟も一人いて、こちらは春から地元の企業に入社したばかりであるから、うまい具合に幸子は、義理の両親からの関心を今のところ回避出来ていた。ただ彼女の多いとは言えない知人や、夫の伝から届いた年賀状は、去年以上に出産の報告や子供の成長を写した類で占められていた。他人のさも満足そうなゴールを眺めながら、幸子は何故なのか、胸にわずかな(ひず)みを覚えた。押し隠して決着が付いたと彼女自身ふんでいた抑圧の尻尾が、どこかでちらついている。一定の幸せを享受(きょうじゅ)する代償に自由を捨てるやるせなさとでも言おうか。タケシに会う前から、幸子は言葉に表せそうにない迷いを薄々持て余していた。

 誰もが本能に正直になって性を謳歌したい十代の頃、幸子は、縄張り争いを繰り返す幼生の群れの端を選んで歩く、控えめな学生生活を送った。揃いの黒い制服の着こなしに個性を付けた、さながら女王蟻のごとくグループの中心にいる生徒とその取り巻き。彼女にとってクラスメートは支配者であり、自分の日常を圧迫する存在であった。元来器用に人付き合いをこなす性質(たち)ではない幸子とは異なり、母親は人当たりが良く、小さなことに頓着しないが機転は利く。彼女が覚えている場面の端々で、女親としての芯の強さを度々垣間見せたものである。幸子には妹が一人いるが、妹は母よりも無邪気な明るさと愛らしさを、誰に対しても臆することなく振りまいた。しかし幸子には逐一(かん)に障ったし、だいたい妹の計算高さを勘ぐってやまなかった。どちらかと言えば幸子は、容姿を含めて父親に似たところがある。彼女自ら思い出にこびりつかせた父の姿は、仕事の忙しさも加わって普段から放任主義を通した反面、生活態度の細かな点にはもらす小言であり、そり残しの(ひげ)や電話の相手への慇懃(いんぎん)な応対であり、細い血管を浮かせて「出て行け」と激高する姿である。彼女は血縁に恵まれない不幸を憎み、怒りを溜めて過ごしたものであった。さすがに挙式前後を挟んでわが身の幼さを再三省みたけれども、年末年始と冠婚葬祭の他に彼女が義父母の家に行く用事はないのと同じく、居心地が悪かった生家に頻繁に遊びに行こうとは思わない。

 暗いばかりで思い返したくもない青春時代であった。ただし彼女には、物心ついた頃から変わらない絵心というとりえがあった。好きこそもののなんとやらとはよく言ったものである。独学で培った技術を駆使して凝ったイラストを描く友人達の中でも、彼女の腕前は常に頭ひとつ抜きん出ていた。無論うえを見ればきりがない。しかし絵のライバルであった友人がブログを開設し、触発された幸子が独身時代に描いて気に入った数点を含めてインターネット上に掲載して以来、何かしらの反響が返って来ない日はない。彼女は、友人よりも彼女のブログのアクセス数が勝っていることにも薄々気付いている。夫が風呂からあがるのを待たずにパソコン棚の前に座ると、幸子は(しばら)く手をつける気にならな

かった新作の仕上げに取りかかった。画面の片隅にはメーラーの小窓が表示されている。返信はまだない。

「男は骨ばっているほうが美しい。って、痩せていては貧相だし、骨太だと頑丈すぎ。骨格と筋肉のバランスだよね」

 仕上げの作業をすすめる傍ら、前回の更新ぶんに感想を寄せていた年下のブロガーに返事を書いてみる。

「ただし私の場合、外見ばかり愛でる妄想ってわけでもないので。前もってあしからず」

 文末に肝心の一言を打ち込んで送信し、すぐに画面を切り替えると、映し出された画像に早速色を付け始める。――青年が一人、片足をやや前に踏み出した構えで立っている。青い着流しを胸元まではだけさせ、藍の帯を巻いた腰には、蘇芳(すおう)の組み紐が鮮やかな長刀を一本差している。りりしい眉や、鯉口(こいくち)をつかんだ指の節まで描き込まれたデッサンに狂いはない。輪郭から内側に向かって肌の質感を表す工程に没入しつつ、彼女は「私は誰よりも描ける」と確信を持つに至った記憶を、入念になぞり返している。タケシの体が覆い被さった時、間近に迫ったタケシの首筋がしなり、喉仏が上下に動くのを目の当たりにした。彼女は絵の男の咽喉に陰影をつけ、あの夜に見た突起が浮かぶまで細心の注意を払って肉付けをする。いつもなら気にするドライアイの心配も忘れ、時間の経過すら感じない程に、彼女は愛してやまない彼の仕草ひとつひとつを思い返し、おさまりどころの知れない思いごと塗り込める作業に集中していた。

「――おい何だよ、まだ起きとったの?」

 だしぬけに甲高い声が割り込んだ。

「サチ、風呂入った? て言うかさあ、今何時だと思ってるんだ」

 いつからなのか、半開きにさせたドアから秀行が覗いている。

「このところ、いつもだろう。ばれとらんとでも思っとるのか。いい加減にしろって」

 眉をひそめて妻の夜遊びを言い当てる夫の視線を背中で遮りつつ、幸子は素早く画面を閉じた。振り返って詫びを返す前に、秀行が聞こえよがしに付いた溜息を残してドアを閉めた。

 苦情が止むと、真夜中を過ぎた部屋はまた元どおり静かになった。座りなおした幸子は少しの間何もせずにいて、急に指の腹でマウスの左のボタンを鋭く弾いた。描きかけのイラストが再び画面に表示される。彼女は常から自分の好むモチーフを、大胆且つ丁寧に描くことを身上にしている。今回は公開ブログを贔屓(ひいき)にする女性から、自作の小説に登場するキャラクターの挿し絵を描いてほしいと熱望された。そこでざっと一読してみたところ、史実とはかけ離れているにせよ、それでも日本の中世と実際に行われた戦をモチーフに物語が描かれている。加えて相手の平身低頭ぶりに気分をよくして、礼儀に応えるという名目で快諾した。

「私、あんたらとは違うから」

 薄い唇の先で呟くと、絵の男をフォルダに慎重にしまい込んだ。音のない部屋にまたキーの音が響く。

「正直すいません。人の妄想に付き合ってられない気分なので、リクエストは休止します。と言うか、うちのダンナまじでうざい。どうしてあんなつまんない小者と結婚したかな」

 書き表した感情がみるみる連なっていく。

 独身の頃、秀行しか知らないのに、結婚するなら危なげない人が良いだろうと思った。秀行が不機嫌でいる理由は、夜更かしを楽しむ妻が寝坊までをも覚え、妻の役割である朝の支度を充分にしないためだ。あるいは股ぐらに溜めた性欲の種を、来る日も来る日も働くうちに溜まった鬱憤と一緒に処理したいが、幸子が反古(ほご)にするためである。秀行の喜怒哀楽の仕組みなら見抜けている幸子は、夫の凡庸さを暴露して嘆くブログの記事をさっさと仕上げた。あかの他人の愚痴や告白の類ばかりを物色する人間は、存外少なくないらしい。すでに普段よりもアクセス数が伸びている。暴言を披露するのは今回が初めてではない彼女は、別段動じる様子もない。記事の扱いにも慣れているので、はじめから午前中に記事を削除するつもりで掲載していた。

 時計はもうじき三時を指す。パソコンを閉じる前に勢いづいたまま、もうひとつ文字にした。

「さよならでもいいから返事ください。お願い」

 無理に求めないように仕立てた一言だけしたためて送信し、タケシのメールアドレスに届いているか何度も確認する。それからようやく彼女は寝支度を整えはじめた。一向に眠気を感じないものの床につくと、夫は横で心地よさそうに寝息を立てている。しんと静まった部屋に、しずくが滴る音が近づく。いつの間にか、外は小雨が降り出しているらしい。

 

 

 

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