伝達
瓔子はやっぱり知らない。柚菜は得意であった。
「そう、めっちゃ進化しててね、今までのスマホとは違うの」
「ホントに良さそう。え、いいな。わたしも欲しいかも。柚菜はもう買うって決めたの?」
「うん、欲しいんだけどさ。でもどうかな。まだわかんない。親に聞いてみなきゃいけないし。けどすぐ買っちゃうかも」
この辺りで瓔子の顔が感心から羨望に変わったのを柚菜は憶えている。その日もいつもと同じように瓔子の一歩先を行っているはずだった。どこで変わってしまったのだろうか。わからなかった。
柚菜は不思議な感覚を覚えていた。最前まで理解していなかったはずのことが、今はもう身についているように感じていたのである。
兄から習ったままを情報弱者の瓔子に教えているうち、抽象性を纏っていて近づき難かった語句や文章が、ふと、身近にあるのを知った。もとから知っていたことまで、より親密になっていた。
まるで彼女自身が創った言葉であるかのようにそれらは口をついて出た。もちろんすべてを覚えていたわけではなかったが、けれどそれだって、語句を見て、唱えれば、やっぱり知っていた。
これまでは判然としていなかった最上級も、そのときには既に自明であった。最新のスマートフォンが、最も先進的で、最も賢くて、最もパワフルであり、誰もが夢中になれるような機種であることは疑いなかった。
それが直感でしかなかったにしても、彼女には別に不都合はなかっただろう。
柚菜はこれらを言語化して考えていたわけではない。けれどやはりそれに近いものを感じていた。そういうわけで、解説には自然と熱が入ってきたし、はたから見てもよく知っている人の話しぶりであった。
それにあやかって有用な話を聞けた瓔子が、先にスマートフォンを買ったところで、柚菜が眼の色を変えるようなことでもなかったはずである。
瓔子が彼女の影響下にあるというのは、時系列から見ても筋が通るものだし、眼の前で感心してくれていたその子が、これからもずっと、自分の言葉に左右される存在なのだと見做してしまってもよかったはずで、感情の健康を想えばむしろ、そちらを選ぶ方が賢明にも見える。
が、柚菜はそういう考えをとらなかった。
『瓔子がわたしより先に買った』
話は単純だった。その事実がこたえた。上官は部下よりも立派なものを持っていなくてはならない。威厳を保てないではないか。下の者だって気をつかってくれてもいい。けれどいつだって革新は下の世代が起こすものである。でも柚菜と瓔子はもちろん同い年だ。
──これだって最初はあんなに可愛かったのに。
柚菜は自分のを見つめていた。わたしのより可愛いなんて生意気だ。しかし大人は子供に可愛いのを与えるではないか。だけど瓔子は子供じゃない。柚菜はボロボロのスマホケースが恥ずかしくなっていた。もう瓔子には見せたくない。何か手はないだろうか? 外す? でもさっきまで着けていたのに? それに落としたりしたら? 壊れちゃうよ。
「それじゃあ大野さん、教科書47ページ、レッスン1のパート1からお願いします」先生が女子生徒を指名した。
瓔子は教科書を手にして起立すると、単語に引っかかることもなく、先生に「そこまででいいですよ、ありがとう」といわれるまで淀みなく読みつづけた。
柚菜は英語が好きだった。学校でも暇さえあればイヤホンで聴いていたし、発音も完璧とはいえないけれど音には敏感で、すらすら読んでいった瓔子のそれを聴いても、やはり自分の方がいくらか上手いのがわかる。
彼女は満足していた。そういえば今は自分の好きな授業なのだ。眠くならないのだって、瓔子のことよりも、そのことと関係するのかもしれない。
瓔子の声を聴いていても心地よかったが、英文を見ていると、さらに心が落ち着いてきた。
柚菜は瓔子が読んだところを眼で追いながら、彼女の発音のなかでまずいと思った箇所をいくつかピックアップすると、自分の思う正しい発音を、口元を控えめに動かしつつ、心の中で何度かつぶやいた。