69話 命を懸けた想い
時音が目を覚ますと、そこはまだ目を閉じているかと錯覚してしまうような闇の中だった。
「いっ、た……」
体が、頭が痛い。
ゆっくりと体を起こした彼女は未だにぼうっとする頭で思考を巡らせようとした。が、すぐに自分の傍に闇に紛れて別の人間が立っていることに気付いた彼女は、重たい頭を持ち上げてその人物を見上げた。
「あ……」
時音に背を向けているその人物――彰人は、体をふらつかせながら前方を鋭く睨み付けている。辺りは暗く、そして黒い服を着ていた為最初は分からなかったものの、彼の足下にぽたぽたと滴る血を見た時音は気を失う前のことをはっきりと思い出した。
タイムマシンを使ったこと、そして過去の母親に会ったこと、目の前の男が実の父親であるということ、そして――現代に戻った時音に狭間から現れた影人が襲いかかり、彼が自分を庇ったこと。
その後のことはよく分からない。ただ周囲に蔓延する闇や次第にあちこちに現れ始めた影人を見つけた時音は、ここが裏世界であると何となく理解していた。
「あの!」
「……黙って動くな」
声を掛けた時音に振り向きもしなかった彰人は、そう言った瞬間に近付く影人に闇を嗾けた。動く度に血が真っ黒な地面に落ちていく。そしてその度に影人はすぐに闇に切り裂かれ、少しずつ数を減らして行った。
一度に複数の影人が襲いかかって来ると、彼は広範囲に闇を広げて影人を制圧する。それでもすり抜けて攻撃してくる影人に何度も傷付けられ、体は更にぼろぼろになっていく。
だが決して時音の元へまでは影人を届かせない。彼女を狙う影人を自分が傷付いても真っ先倒そうとする姿に、自分を守ろうとしているのだと時音にもすぐに分かった。
「こうやって戦うのも、二度目だな……」
自嘲気味に呟かれた言葉と共に最後の影人を切り裂く。途端に周囲が静まりかえったかと思うと、その直後耐えきれなくなったのか彰人はその場に崩れ落ちるように倒れた。
「椎名さん!」
はっと我に返った時音が、重たい体を引き摺って彼の元へ這うように近付く。倒れた彼は僅かに頭を動かして時音へ視線を向け、そして何かを小さく呟いて意識を失った。
「起きて……起きて下さい!」
必死に時音が体を揺さぶるが、その重たい体はぴくりとも動かない。闇に侵食されている顔は更に彼を飲み込もうと闇を広げていく。そして体から流れる血は止めどなく地面に流れ続けている。
死んでしまう。時音はそう思った瞬間、その体に両手を押し当てていた。
「戻って! 怪我も全部、元に、戻れ!」
既にタイムマシンで魔法力は殆ど残っていない。けれど時音は全力で絞り出すように時魔法を使い始めた。
以前特別講義でレイと共に何度か実験を行った、怪我を戻す時魔法。まだまだ練習段階だが、それでも今はそれを使わなければ彰人が死んでしまう。
ざわり、と時音の腕にも闇が忍び寄る。自分の体が闇に侵食されていく感覚に悲鳴を上げそうになったが、なりふり構わずに時魔法を使い続けた。
「起きて! お願い!」
ようやくこの人を見つけたのだ。それなのにここままここで死んでしまうなんて、絶対に嫌だ。
時音の叫び声を聞きつけたように、再び影人がふらふらと近付いて来る。それでも時音は魔法を止めない。意識を途絶えさせそうになっても、闇がどんどん体を侵食しても、絶対に止めてやるものか。
「死なないで――お父さん!!」
その瞬間、彰人の瞼がぴくりと動いた。
「あ……」
僅かに動いた彰人を見て、時音は酷く弱々しい声を上げる。まだ彼は生きている。まだ希望はある。
しかしそう思った矢先、そんな隙だらけな彼女にそろりと近づいて来た影人が何の容赦もなく凶器の腕を振り上げた。
もはや時間を止めることなど出来ない。目の前が、影人で真っ黒に塗りつぶされる。
「切り裂け!」
時音が最後の力を振り絞って彰人を守るように腕に抱えた瞬間、しかし近付いて来ていた影人は真っ二つになってずるりと崩れ落ちた。
「時音、無事か!」
「……椎名、君?」
闇に紛れて聞こえてきた声はよく聞き覚えのあるものだ。そして案の定、現れた人物は時音の目の前に倒れる男とそっくりな顔をした少年だった。
「どうして、ここに」
「助けに来た。だから早く戻ろう、怜二が待ってる」
現れた御影は安心させるように時音に笑いかける。その笑顔に今まで張っていた気が緩んでしまった彼女は、途端に全身の力が抜けたようにばたりと倒れた。元々、とっくに体は限界を越えていたのだ。
「時音!?」
「お願い、この人も……お父さんも……絶対に、助けて……」
「おい、しっかりしろ!」
それだけ言って完全に意識を失った時音を御影は慌てて抱き起こす。酷く苦しげな顔で気絶している時音に彼は大きく舌を打った。
呼吸が浅く、酷く消耗しているのは目に見えて分かる。おまけに体は闇に侵食され始めており、完全に呑み込まれるのも時間の問題だ。
御影はちらりと時音の傍で倒れている男に目を向ける。時音が言った言葉を一度思い返した御影は、闇を操って二人に巻き付けるようにして持ち上げた。彰人がいるだけでかなり負担は大きくなるが、彼女の願いを無碍にする訳にはいかない。
「……あいつに連れ帰るって約束したんだ。絶対に死ぬなよ!」
意識のない時音にも届くように大きな声で叫んだ御影は、そのまま世界の境界に向けて一気に走り出した。
御影が裏世界へ飛び込んで十分。外に出てきた影人は倒し終えて、その場にいる人間はただ真っ黒な口を開けている狭間をじっと睨んで待っていることしかできない。
誰もが口を閉じて黙り込んでいる。それはきっと、口を開けば絶望的な言葉しか出てこないからだろう。裏世界に落ちた人間が助かるなど、普通はあり得ないのだから。
「怜二、時音ちゃんも椎名もきっと無事に戻ってくる」
「……ああ」
歯を噛み締めて俯いている弟に潤一が声を掛ける。自分にも言い聞かせるようにそう言った彼が再びじっと狭間を睨んでいると、その瞬間突如部屋を覆う程の闇が狭間から噴き出した。
「また影人か!」
「いや、待って下さい!」
すぐに警戒を強めた警察を制するように潤一が前に出る。目の前の闇に紛れて見えた気がした人影に目を凝らすと、すぐに闇は晴れてそこに三人の人間が姿を現した。
疲れたように膝をついて息を吐く御影、そして床に寝かされている時音と彰人の姿を見た瞬間全員が驚きに一瞬固まり、そして次の瞬間には動き出していた。
「犯人を確保しろ!」
「時音!」
彰人を捕らえようと動く警察、そしてぐったりと動かない時音に走り出した怜二達。潤一が時音を抱えるとすぐに狭間から離した場所に寝かせ、一緒に来た御影が厳しい表情で状況を伝えた。
「怪我はないが大分闇に体を侵食されてる。それは早急に光で打ち消せば問題ないが、体の魔法力の方がやばそうだ。裏世界でも何か魔法を使ってたみたいだった」
「まずいな……」
潤一が軽くチェックしただけでも衰弱が激しい。殆ど息が出来ていないようで危険な状態だ。怜二以外にも光属性の魔法士も呼んではいるものの、やはり間に合いそうにもない。普通の救急隊はいるものの、怪我ではない魔法力の消耗を治すことなど出来ない。
「時音、おい! しっかりしろ!」
怜二はすぐさま声を掛けながら体の闇を光魔法で浄化する。みるみるうちに体を蝕んでいた闇が彼女から離れると、次は時音の手を握り自分の魔法力を一気に彼女に与え始めた。
「起きろ……死ぬな……」
体の魔法力ががくっと無くなって行くのが分かるというのに、それを送り込んでいるはずの時音の様子はちっとも変わらない。紙のような白い肌にはちっとも血が通っている様子がなくて、怜二は酷く苦しげに顔を歪めて彼女を抱きしめた。
接触面積が増えれば与えられる魔法力が増える訳ではない。一度に分けられる魔法力には限りがある。そう分かっていても、怜二は冷たい時音の体を温めるように強く強く抱きしめ、そして声を掛け続けた。
「目を開けろ! 俺を見ろよっ……!」
閉じた目は開かない。だらりと垂れた腕は抱き返して来ない。憎まれ口も叩かず、いつもはすぐに泣く癖に涙も流さず、恥ずかしそうに大好きとも言ってくれない。
どんどん怜二の魔法力の底が見えてくるのに、それなのに彼女はちっとも良くならない。こんなことが起こらないようにするためにずっと魔法を学んできたというのに。
「まだ何も伝えてない! 誕生日に言うって約束しただろ……お前に言いたいことが沢山あるんだ! なあ、起きろ! 起きろよ……! 時音!」
彼女の肩口に顔を埋めてきつく抱きしめる。そして怜二は血を吐くように叫んだ。
「――好きだ! 好きなんだ……時音、起きろ!」
「……にして、本当に残念なことで――」
「……稀少な属性だったんだが――」
頭の上でぼんやりと聞こえて来る声を、時音は何となく耳にしていた。
残念……ああ、そうか。自分はあのまま死んだのか。悲しみも嘆きもせずに漂う意識の中でそんなことを考えた彼女は、せめて彰人だけでも無事でいてほしいとそれだけを思った。
不意に、視界が開ける。真っ白な天井が目に入った時音は、幽霊にでもなってしまったかな、と思いながら頭を動かそうとした。幽霊の癖にやけに頭が重い。
「あ」
くるりと横を向くと、すぐ至近距離に怜二の顔があった。眉間に皺を寄せて、疲れた顔をして眠っているようだ。
「怜二」
「……」
ぴくりと、怜二の腕が動いた。酷く緩慢な動きで薄く目を開けた怜二は、寝ぼけているように目の前の時音をぼうっとした顔で暫し眺めていた。
「は?」
数秒後、突如我に返った怜二はがばりと頭を上げた。眠たそうだった目を大きく見開いてまじまじと時音を見つめた彼は、彼女が自分を見ているとようやく理解し終えてがしりと時音の両肩を掴んだ。
「時音!」
「え、怜二って幽霊見えるの? 霊感あったんだ」
「ば、馬鹿! 馬鹿だお前! 何が幽霊だ馬鹿野郎!」
「馬鹿って言い過ぎじゃ……」
「お前は生きてんだろ!!」
呑気な時音の言葉に怒鳴った怜二は苛立たしげに彼女の頭を叩く。しかし手加減というにも優しすぎる一撃は殆ど頭を撫でたに過ぎず、さらりと頭に感じた感触を辿るように時音は自分の頭に手をやった。
頭は確かに撫でられた感覚があった。そして肩も確かに掴まれた。
「……もしかして私、生きてる?」
「だからそう言ってるだろうが!」
ちっとも働いていなかった頭がようやく活動し出したらしく、時音はようやく自分がまだ死んではいないことを理解した。
「お前っ、馬鹿……どれだけ心配掛ければ……!」
「怜二、泣いて」
「うるせえこっち見るな!」
腕で目元を覆った怜二が時音を怒鳴りつけて背を向ける。鼻を啜る音が聞こえ、時音は困った顔をして一度周囲を見回した。
時音はベッドに寝かされており、窓の外を見る限りここは学園内のようだ。体は包帯などは巻かれていないが酷く怠く、腕には点滴が付けられている。
どうやら本当に生きており、そしてあの裏世界から戻ってきたのだ。
「あ」
「……どうした」
少し落ち着いたらしい怜二が目元を赤くして振り返ると、時音はすぐに気になったことを彼に尋ねた。
「椎名君とお父さんは!? 大丈夫なの!?」
「椎名はいつも通りうるさいほど元気……って、何でおじさんの話が出てくるんだよ」
「お父さんだけどお父さんのことじゃなくて!」
「はあ?」
意味が分からないと眉を顰める怜二に、時音は頭に思い付くままの言葉を並べて説明し始める。訝しげな顔をしていた怜二だったが、話が続いていくと次第にその顔は驚きに変わり、全てを説明し終えた時には酷く神妙な表情を浮かべていた。
「そうだったのか……あの男が」
「それで、あの人は無事なの?」
「ああ、怪我も命に別状はなかったし……あの後、椎名にお前と一緒に連れ戻されて警察に捕まった」
「……そっか」
彰人は三度も時音を誘拐しようとした。その上彼女は知らないが羽月義嗣も裏世界に堕として殺している。その罪は変わらないのだ。
だが生きている。また会うことができる。それだけで時音は酷く心が落ち着いた。
「そういえばあの男、何故か光魔法で治したみたいに不自然に傷が塞がってたらしいんだが……」
「あ、それ私が」
「は?」
「時魔法で体の時間を戻して、無理矢理怪我を元に戻そうとしたの。それで……」
「この馬鹿!」
「痛っ!」
パシ、と今度は強く叩かれた。いきなり何をするのかと時音が目を白黒させていると、怜二は彼女を強く睨み付けて「お前なあ!」と右手でベッドを叩いた。
「ただでさえタイムマシンで死にかけた癖にその後にまた魔法を使うなんて……お前、本当に」
「でも、そうしないとあの人が」
「それでお前が死んだらどうするんだよ! どれだけ俺が魔法力を与えてもちっとも動かなくて、俺が、どれだけ……」
「怜二……」
徐々に怒りが萎むように声を弱くして怜二が俯く。そして今の言葉で、時音は不意に脳裏に今まで忘れていた声が過ぎった。
必死に、泣きそうになりながら時音を呼ぶ声を、言葉を。
「……ごめんね、心配かけて」
「……」
「怜二が私を助けてくれたんだね。……本当に、ありがとう」
「お前は」
「うん」
「お前はいつも、いっつも危なっかしくて、目を離すとすぐに泣いて、気付いたら誘拐されてたり小さくなってたりして、ほっとけなくて……だから、だからもう絶対にお前から目を離してやらない。そう決めたから、覚悟しろ」
怜二はベッドの上で体を起こす時音に視線を合わせるように屈む。そして少し照れくさそうに「誕生日なんて待ってられるか」と小さく呟いて頭を掻くと、彼女の目を見て名前を呼んだ。
「時音」
「……うん」
「俺は――」
その瞬間、ばたばたと騒がしい足音が部屋の外から響いたかと思うと、勢いよく音を立てて扉が開いた。
「時音ー! 起きたんだって!?」
そしていの一番に現れた詠を始めとして、次々と部屋の中に沢山の人間が雪崩れ込むように入って来た。
「時音ちゃん大丈夫!?」
「体の調子はどうだ」
「よー時音、やっと起きたのか」
「周防さん、どこか痛い所とか無い? 先生が治すわよ!」
「時音ちゃん、意識が戻って本当によかった」
「時音さん……本当に、心配したんですよ」
部屋に入ってくるやいなや怜二を押しのけるようにして時音のベッドを取り囲んだ七人は口々に時音に話し掛けてくる。一度に話す所為で何を言っているのかちっとも分からないが全員の表情が明るいのを見て、最初はぽかんと呆気に取られていた時音も釣られるように笑顔になった。
「お、お前らあああ!」
そして一人輪の外で取り残された怜二は、邪魔されたことにふるふると怒りに震えながら大声で叫んでいた。