65話 “彼女”
椎名彰人は、昔から非常に好奇心旺盛な人間だった。
何かしら興味を抱いたことはすぐに調べ始めるタイプであり、周りを気にすることなくどんどんのめり込んでいく様は変わった人、とよく言われていた。
そんな彼にとって魔法とは非常に興味深いものであった。両親ともに魔法士であった彼もまた中学二年の時に風属性の魔法力に目覚め、そして藤月学園で魔法を学んだ後に魔法の研究職という彼にとっての天職に就くことが出来た。
魔法研究所で働き始めた彰人は、その後どんどん新たな魔法の使い方を考案し当時にとっては画期的な魔法装置をいくつも開発して行った。それに比例して彼の仕事の評価もどんどん上がっていったが、当の本人は周囲の賞賛の声をまったく気に掛けることなく、自分の興味の赴くままに研究を続けていた。
そして彼はある時、この後の人生を大きく左右するある物を作り出そうと考えた。稀少な時属性の魔法力を使って人間を過去へと送る魔法装置――タイムマシンである。
きっかけは大したことの無い、いつもの好奇心によるものだった。しかしいざ実際に仕組みや構造を理論立てて行くと研究は思った以上に順調に進み、机上の空論ではあるものの理論上はタイムマシンを作ることができる、という結論に至った。
だがそんな期待はあっさりと打ち破られることになる。
「こんな夢のような物ではなく、もっと現実に役立つ魔法装置を考えろ」
彰人が上司にタイムマシンの研究結果を提出すると、あっさりとそう言われて叩き返されてしまったのだ。
彼はそれに憤りを覚えたものの、しかし上司の言うことも間違ってはいなかった。
タイムマシンを作るには莫大な資金が必要だ。研究所の予算は限られており、タイムマシンを開発するのに必要な予算を無理に捻出するくらいならば、もっと現実的な魔法装置の開発が優先された。
そしてそれだけではない。資金だけならまだどうにかなったかもしれないが、タイムマシン開発にとって最も必要だったのは時属性の人間だった。しかし時属性は数少なく、国内でもその属性の人間はごく僅か。そしてその彼らだって国で完全に保護されており、簡単には協力してもらえない。実質、開発は不可能だったのだ。
けれど彰人はその事実を理解しても諦めきれなかった。理論上は作れるということが余計に悔しく、一人細々と他の研究の合間を縫って密かに研究を続けていた。
「君が、椎名彰人君かね」
一人の老人が彼を尋ねて来たのは、ちょうどそんな時のことだった。
「あなたは……?」
「私は羽月義嗣。君の研究の噂を耳にしてね、そのままにしておくのはもったいないと思ったんだよ」
「噂?」
「何でも、タイムマシンを作ろうとしているとか」
彰人の前に現れた老人は、彼も聞いたことのある人物だった。有名な和菓子店を経営し一代で財を成し、この研究所を含め数々の企業への投資を行っている有名な男だ。
「ここを辞めて、私の元でタイムマシンの開発をしてみないか? 勿論君が必要なものは全てこちらで用意しよう」
「しかし、肝心の時属性が居ないとこの研究は」
「言っただろう。必要なものは全て、と」
「……それは、つまり」
「これ以上は契約後の話だ。どうかな」
にやりと、飄々とした顔で義嗣は笑った。
受けるか断るか、彰人は少しだけ悩んだ。だが少しだけで、結局すぐに彼は老人の引き抜きに応じることにした。この研究が続けられる、他では到底不可能な誘いを断る選択肢など初めからなかったのだ。
早々に退職願を出し仕事の引き継ぎを終えると、彰人はすぐに指定された家へと向かった。
鬱蒼とした森の奥深くに隠れるようにひっそりと建っていた小さな家のインターホンを押すと、すぐに六十代くらいの割烹着姿の女性が玄関の扉を開ける。彼女は彰人の顔を見るとすぐに合点がいったように「椎名様ですね、義嗣様から伺っております」と彼を家の中へ促した。
短い廊下を連れられるままに歩くと、女はすぐに一つの部屋の前で足を止め「椎名様がいらっしゃいました」と扉の向こうへ声を掛けた。
「失礼します」
「おお、椎名君。よく来てくれた」
彰人が通された部屋はさほど大きくもないごく普通の部屋だ。テーブルとベッドが置かれているその部屋の中には椅子に腰掛けている義嗣と、そしてベッドに入って上半身を起こしている二十歳くらいに見える長い黒髪の女性が居た。
彰人の視線が初対面の女性に向く。それに気付いた彼女はにこ、と少々儚げな微笑みを浮かべ会釈をして来た。痩せすぎている体と相まって今にも消えてしまいそうな印象を与える。
「椎名君、この娘は羽月あやめ。私の娘だ」
「娘さんでしたか」
「ああ。そして何より、君の研究の助けになってくれる子だ」
「それはどういう……まさか」
「世間には秘密だが、あやめは時属性を持っている」
彰人は驚愕の目で再度女性――あやめに視線をやった。今まで時属性の人間など実際に会ったことなどない。その稀少な人間が今この森の中の一軒家に普通に居るなど考えもしなかった。
何でも、あやめは妾である一般人との間に生まれた子供で、偶然にも魔法力に目覚めた彼女は更に稀なことに時属性であった。そのため羽月本家に養子として改めて迎え入れ、体が弱い為に本家から引き離してここで療養しているのだという。
「あやめは藤月にも通わせてはいないし、魔法もまだ殆ど扱えない」
「え?」
「だからまずはまともに時魔法を使えるようにしてくれ。頼むぞ」
彰人が言葉を失っている間に、義嗣は機嫌良さげにさっさと部屋から出て行ってしまった。残された二人は暫し沈黙の中に居たが、やがてどちらともなく視線を合わせ、お互いに困った表情を浮かべた。
「……えっと、椎名さんですよね。羽月あやめと申します」
「ああ、椎名彰人だ」
「あんまりよく分かっていないんですけど、椎名さんのお手伝いをすればいいんですよね? 役に立つか分かりませんが、よろしくお願いします」
「……よろしく頼む」
あやめは先ほどとの儚げなものとは違い、少し照れた様に笑って頭を下げる。そしてそんな彼女を見て彰人も少し肩の力を抜いた。色々と問題はあるが、彼女自身は悪い子では無さそうだ。
「ストップウォッチ、ですか?」
あやめと挨拶を交わした後、彰人がまず行ったのは時間測定である。タイムマシンの研究の過程で時属性についてあらかじめ学んでいた彼は、時魔法を扱うに当たって正確な時間感覚を持っていることが何より重要だということを知っていた。
不思議そうな顔をするあやめに本当に何も教えてもらっていないのだと感じながら三十秒計ってもらう。
そして、約三十秒後に表示されていた数値を見て彰人は頭を抱えたくなった。
「結構自信あったんですけどどうですか?」
「……」
26.07秒。正直言って先が思いやられる秒数だった。
ひとまず時魔法にとって時間を正確に知ることがどれだけ重要かということを説き、そして自分が持っていた時計を彼女に貸しておいた。常に身につけて音を聞き、時間の感覚を覚えるように、と。時属性の人間は基本的に全員、何かしらの時計を肌身離さず付けているという。
そして時間の計測もだが、それだけではない。そもそも元一般人な為、あやめは基本的な魔法知識が大いに欠けているのである。そのくらい事前に覚えさせておいてくれと義嗣に文句を言いたくなりながらも、研究の合間に昔使っていた教科書を開いてあやめに魔法について教えた。
属性について説明し実際に彰人が風魔法を使ってみせると、彼女ははしゃぐように拍手をして「すごい!」と歓声を上げた。
「すごいです! 本当に魔法みたい!」
「本当に魔法だからな。君だって一応同じ魔法士だろう」
「でも私、使おうと思って使えたことって一度もなくて。一番最初に偶然落としそうになったコップが空中で止まったのを見ただけで」
「それはこれから俺が教えていくから心配しなくていい。出来るようになるまで何度でも教えてやるから」
自分は本当に魔法なんて使えるのか、と不安げなあやめに、彰人は努めて明るい声で彼女を宥めた。実際に彰人もあやめが時魔法を使えなければ困るのだ。やる気を削がないように安心させる言葉を掛けると、彼女はあまり血の気のない頬を僅かに色付かせた。
「はい。よろしくお願いしますね、先生」
先生と、そう呼ばれたのは初めてだったが、悪い気はしなかった。
それからというもの、彰人はひたすらタイムマシンの開発に全力で打ち込んだ。魔法装置の設計を詰め、あやめに魔法の知識を与え、そして時魔法を使えるように教えていく。彼女の魔法力は平均よりも低く時魔法も中々上達しなかったものの、それでも一つ一つ課題をクリアする度に心底嬉しそうに喜ぶあやめを見ると、彰人もそれを苦労とは思わなくなった。
「せ、先生! 止まってる!」
初めて宙にボールを停止させた時など、歓喜のあまりはしゃぎ過ぎてそのまま体調を崩してしまった。世話係である割烹着の女性――平田もそれには酷く慌てて、彰人が何かしたのかと強い剣幕で詰め寄られたこともあった。
「おめでとう。……そうだ、頑張ったから何かご褒美でもやろうか」
「本当ですか!」
「ああ、何がいい?」
体が弱い為普段家の中から出られないあやめはろくに買い物にも行けない。だから欲しい物があれば買ってこようと伝えると彼女はぱっと笑顔を見せ、そして僅かに悩んだ後に「駄目だったらいいんですけど……」と前置きして窺うように彰人を見上げた。
「この貸してもらってる時計が欲しいです」
「それか? 新しいのじゃなくていいのか」
「これがいいんです!」
あやめはぎゅっと時計を抱きしめるようにして彰人に頼み込む。何となく気に入って買った中古品で多少値は張ったものの特別な思い入れがあった訳ではない。別にいいか、とあっさりと彰人が頷くと、彼女は途端に心底嬉しいとばかりに満面の笑みを浮かべた。
時魔法が順調に使えるようになって来ると、今度はようやく本格的にタイムマシンの製造が始まった。理論通りには行かない時もしばしばあって、時折彼女にも協力してもらいながらタイムマシンの開発は進んでいく。
この家には地下室がある。タイムマシンを開発することはあやめの属性の関係もあって他言無用なので、主な開発作業はその地下室で行われていた。
「彰人先生」
「どうした? 起きていていいのか」
「うん、今日は体調もいいから」
地下で作業していた彰人があやめに気付いて顔を上げる。自室から地下へと降りてきた彼女は、作りかけのタイムマシンを見上げ「わあ」と感嘆の声を上げた。
「これって本当に過去に行けるの?」
「理論上は。勿論お前の時魔法ありきの話だがな」
「ふうん……ねえ、属性ってどうやって決まるの? なんで私、そんな珍しい属性だったんだろう?」
「その疑問はまだ完全には解明されていないな」
魔法士の属性の決定は、未だに研究され続けている。仮説はいくつも立てられているが、どれもこれも確証は得られていないのだ。
「先生はどう思うの?」
「俺は……一概にこうだから、とは言えないな。今立てられている仮説も含めて、色々な要因が噛み合った結果だと思っている。星属性のような血筋、本人の素養や性格、生きてきた環境などだな」
性格や深層心理に因っているという仮説は一定の評価を得ている。だがそれだけではないだろう。血液型で性格を判断しているようなものだ。当たるものは当たるが、外れているものは外れている。
「統計を取った訳ではないが、個人的に狭間の傍に住む人間は闇属性になる確率が他の地域よりも高いという印象がある」
「その……裏世界ってやつに影響されてるってこと?」
「その可能性も高いと考えている。時属性については分からないな」
「そっかー。でも私、時属性になってよかったな」
「そうなのか?」
いつもストップウォッチ片手にひいひい言っているというのに。そう思って作業の手を止めた彰人があやめを見ると、彼女は部屋の片隅に腰掛けて少し照れたように笑っていた。
「だって先生と会えたのは時属性のおかげでしょ?」
「……嬉しいのか?」
「とっても。だって、ちょっと前まではずっと病院で一人だったから。誰も来ない病室で早く時間が過ぎないかなってずっと待ってただけだった」
「……」
「突然養子に取られてここに来て、魔法だとか言われて何がなんだか分からなかったけど、でもこうして彰人先生に会えて……すごく、嬉しい」
あやめはスカートを軽く手で払って立ち上がる。そしてぱたぱたとスリッパの音を鳴らして彰人の後ろに回り込むと、何も言わずに背中から彼の体に手を回した。
「先生は、タイムマシンが完成したらどうするの?」
「……羽月さんとの契約は終了するな。その後も何か別の開発を依頼されなければ、別の場所でまた魔法装置の開発でもするんだろう」
「私はきっと、またここで平田さんと静かに暮らして、お父様の言う通りに生きていくんだよね。時属性だから」
縋るように回された体温の低い腕に彰人はそっと手を添える。先ほど時属性でよかったと言った時とは真逆の感情が込められた言葉を聞きながら、彰人は振り向くことなく口を開いた。
「……タイムマシンが完成したら、祝いに一緒に出掛けるか」
「できるの?」
「羽月さんも説得する。少しぐらい外に出た方が体にもいいだろう。そうしたら、お前が行きたい所にどこでも連れてってやる」
「本当!?」
「ああ」
抱きしめられる腕の力が強くなる。額が背中に押しつけられるのを感じながら、彰人はそのまま開発作業を続けようとした。
「……このまま時間が止まって、ずっとこの瞬間が続けばいいのに」
しかし背中から伝わったその声に、続きを促す思考とは裏腹にその手は一向に作業を再開しようとしなかった。