57話 隠れた関係
時音の特別授業の最終日は午前中で終了した。元々レイのスケジュールがぎりぎりだったらしく、午前中の授業が終わると共にレイは慌ただしく学園から去って行った。
「トキネ」
午前の授業後、朝から準備されていた大きな鞄を抱えたレイは、正門からタクシーに乗り込もうとした直前に見送りに来ていた教え子を振り返った。
「先生?」
運転手に急かされているレイは不思議そうに首を傾げた時音ににこりと笑った。
「本物のレイ君によろしく」
「……え?」
「それじゃあ」
どういう意味だ、と時音が尋ねようとした時にはすでにタクシーの扉は閉められ、そしてすぐに車は発進する。目の前から居なくなっていく車を目で追った彼女は、たった今言われた言葉を思い返して「本物って何だ……?」と小さく呟いた。
「時音、久しぶりー」
「授業どうだった? 楽しかった?」
午後からは久しぶりに通常通りの授業に参加する。時音が教室に入ると、それに気付いた華凛達がすぐに駆け寄って来た。
五日間だったというのに随分と懐かしく感じる。「久しぶり」と友人達に返した時音は教室の中を見回すように視線をやり、そしてある一点でそれをぴたりと止めた。
「あ」
自分の机で片肘をついて時音を見ていた男と目が合ったのだ。よく知る男――怜二は視線を逸らすことなくじっと時音を見ている。むしろ睨んでいると言っていいほどの強い視線に時音も目を離せなくなった。
何かしただろうか。しかし時音がそれを尋ねようとする前に授業開始のチャイムが鳴り響いた。
「時音」
最後の授業が終わり解散を言い渡されたその直後、時音の元に怜二がやってきた。
「な、何?」
「今から時間あるか」
「え……うん、いいけど」
「ちょっと来い」
戸惑い気味に頷いた時音に、怜二はすぐに彼女の腕を掴んで教室を出て行く。引き摺られるようにしながら怜二に連れて行かれた彼女の後ろ姿を見ていた御影は、椅子の背もたれに大きく寄り掛かりながらぽつり呟いた。
「さて、吉と出るか凶と出るか」
数日前に怜二に発破を掛けて焚き付けた御影は、行動を起こした怜二を見てどうなるかな、と小さく笑った。
「――椎名君!」
「ん?」
自分も帰ろうと鞄を持って立ち上がった御影は、扉へ向かう途中でその足を止めた。ちょうど出て行こうとした扉の向こうからひょこっと人が現れて自分の名前を呼んだからだ。
「弥子先輩じゃないですか」
「うん。ちょっと今いいかな」
「はい、いいですけど」
「じゃあこっちに……」
そこに居たのは三年の弥子だった。夏休み以来会っていない彼女が一体何の用だろうかと御影は一瞬考えたが、しかし何も思いつかなかった。また闇属性のことが聞きたいのなら彼女の性格から考えてもっと張り切ってそうなので恐らく違うだろう。
くい、と服を掴まれた御影は促されるまま廊下に出る。そして少し教室から離れた二人は階段の踊り場まで来ると、人が減るのを待った。
「弥子先輩? それで俺に用ってなんですか?」
神妙な顔で視線をあちこちにやっている彼女は何やら言いにくいことがあるらしいと御影もすぐに分かった。壁に寄り掛かりながら御影が尋ねると、弥子はやや緊張した面持ちで御影を見た。
「うん……あのさ」
「?」
「椎名君の、お母さんのことなんだけど」
「俺の、母親?」
御影は思わず「えっ」と酷く困惑した声を漏らした。まさか呼び出されて尋ねられる内容がそれだとは流石に思いもしなかった。何しろ、自分に親など存在しないのだから。
言うまでも無いことだが椎名御影はクローン人間だ。そんな彼の親といえば、彼を作り出した影人か、強いて言えばオリジナルである椎名彰人。母親などいないのだ。
しかし御影のそんな事情を知っているのはごく少数で、そこに弥子は含まれていない。どう返答しようかと考えていると、御影は不意にそういえば、とあることを思い出した。
御影の戸籍自体は存在する。そしてその戸籍上で言うのなら、御影にも両親が存在しているのだ。この学園に入学……潜入する際に、一度学園の人間と戸籍を確認した。その時に母親の欄に書かれていた名前は、確か。
「羽月……」
「やっぱり? 羽月あやめさん、だよね?」
目の前の彼女と同じ、羽月という名字だった。怪しまれなければ何でもいいと禄に記憶していなかった為御影は今まで気付きもしなかった。
「もしかして先輩の知り合いだったんですか?」
「いやそういう訳じゃないけど……一応、私の叔母に当たるの」
「叔母?」
「ええと、私のお爺さんがあやめさんを養子にとって……あ、一応お爺さんの血は引いてるらしいんだけど」
「一応、ということは浮気相手の子とか」
「……まあ、そういうこと。それで、色々と調べてたらあやめさんの子供に椎名君の名前を見つけて、従兄弟ってことになるし言っておいた方がいいかな、と」
「……そう、なんですか」
御影は相槌を打ちながら素早く頭を回転させる。御影の記憶では、確か戸籍上の母親の欄には死亡と記されていたはずである。下手に詮索されないなと安心した記憶がある為覚えている。
しかしそれを思い出したところでそもそもの疑問が浮かぶ。母親――弥子曰く羽月あやめは何故御影の母親として名前を書かれていたのか、ということだ。
御影の戸籍を作ったのは恐らく椎名彰人だろう。彼の生みの親は表世界に直接出ることは出来ないのだから殆ど間違いないと言っていい。
だがそうなると彰人は一度表世界に戻って来たことになる。御影のような裏世界の人間ならともかく、普通の人間が自力でそんなことが出来るとは到底思えない。不可能だ。ならばクローンを作ることと御影の戸籍を作ること、それらと引き替えに表に戻る為に影人が手を貸したと考えると筋が通る。
では、椎名彰人は何故彼女を母親として選んだのか。
「あの、先輩」
「何?」
「羽月あやめ……母について何か知りませんか?」
「うーん……確か、藤月にも通っていない一般人で、お爺さんの独断で本家の養子に迎えられたって聞いたかな」
「他には?」
「その、十六年前……お爺さんが失踪する数ヶ月前に亡くなったって」
「え、失踪?」
「あ……まあその話は色々あってね」
あはは、と誤魔化すように笑う弥子に、御影も特に追求はしなかった。こう言ってはあれだが別に気になる話でもない。
しかしあやめのことは別だ。十六年前というとちょうど御影が生まれた頃だ。タイミング良く亡くなって都合がよかったから彼女を選んだのか、それとも何かしら特別な知り合いだったのか。……オリジナルである彼の性格を一切知らないから分からないが、そのあやめという女性を殺して利用したという可能性すらあると御影は考えていた。
「椎名君、お母さんのことは……」
「まったく知りません。記憶にも残っていませんし」
「そっか」
「まあいいんですけどね、今は今なんで。でも……教えてくれてありがとうございます」
「ううん、余計なこと言ったかなって思ってたし」
そんな話を終えて御影は軽く手を振って弥子と別れた。
「……別にどうでもいい、んだけどな」
顔も知らなければそもそも本当の母親ですらない、御影とはまったく無関係の女のことだ。それなのに何となく御影は羽月あやめのことが気になった。
そして彼女だけではなくオリジナルの彼のことも同様に、である。むしろ椎名彰人が気になるからこそ、羽月あやめに僅かばかりでも興味を抱いたのだろう。
自分の遺伝子の元、オリジナルの人間。そんな男は表世界に戻っている。つまり、まだ生きている可能性がある。
「……」
別に気にすることなどないはずなのに、妙に胸がざわざわと嫌な感覚を覚えるのを感じた。
「ここだ」
怜二に腕を掴まれて引っ張られていった時音は、途中で男子寮を経由してようやく目的地へと辿り着いた。
六畳ほどの、椅子だけが置かれたがらんとした一室。ここは音楽室の傍にいくつかある防音の練習室だ。その空いていた一つに時音を連れて入った怜二は、すぐに持っていた鞄の中から折りたたみ式の譜面台を取り出し、着々と準備を始めた。
「ねえ、急にどうしたの?」
「別に。……暇ならメトロノーム代わりになってもらおうと思っただけだ」
寮から持ってきたバイオリンを取り出している怜二に一体何の用だったのかと時音が尋ねる。しかし返って来た言葉は納得しがたいもので、時音は首を傾げた。メトロノーム代わりは確かに出来るが、それは普通にメトロノーム本体を使えばいいだけのことである。
しかし、時音はそう言おうとしてその前に思い留まった。何にせよ怜二がそう言って理由を作ってくれるのなら時音は何も気にすることなくこの場に居られるからだ。
端に重ねて積み上げてあった背もたれのない椅子を引っ張って座ると、準備が整ったらしい怜二が早速チューニングを始めた。時音には分からないくらいの細かい音程を調整し、そして楽譜を捲った怜二は早速バイオリンを弾き始めた。
耳に馴染む伸びやかな音が室内に響き渡る。時音はそっと目を閉じて音だけに意識を集中させた。
誰にも邪魔されない、バイオリンの音だけしかないとても穏やかな時間が流れる。時折弾くのを止めてぱらぱらと紙が捲られる音も心地よい。その間の会話は一切なく、しかしちっとも気になるような嫌な沈黙ではない。
こんな時間は久しぶりだった。皆でわいわいと騒いでいる時間も勿論好きだが、二階堂家で昔二人で過ごしたこんな時間は本当に好きだった。この瞬間だけは、何も考えずに怜二と一緒に過ごせるのだ。
「久しぶりだなあ……」
「そうでもないだろ」
「んー? そうかな」
「何せお前が縮んだ時にさんざん弾かされたからな」
「えっ!?」
ちっとも覚えていないことを言われ、時音は何か思い出せないかと必死に頭を捻る。しかしやはり、あの時の事はちっとも思い出すことはできなかった。
「止めようとするともう一回って何度も引く羽目になったんだぞ」
「全然覚えてない……もったいない」
あーあ、とがっかりして肩を落とした時音を見て怜二が面白そうに口角を上げた。
「お前ホントに好きだよな」
「え」
「俺のバイオリン」
一瞬どきりと心臓が跳ねた。怜二本人のことを言われたのかと思ったと時音は思い切り動揺したが、揶揄うように付け足された言葉を聞いてそっちか、とため息を吐く。にやりと笑った怜二に、わざと引っかけのように言ったということが分かった時音はほんの少しむっとして……そして、意趣返しのように笑顔を見せた。
「うん、大好き」
にこり、と普段は気恥ずかしくてあまり見せることのない表情と共にその言葉を伝えると、その瞬間怜二はぽかんと口を開けて沈黙した。
「……」
「怜二?」
「……あー、いや……お前……」
「何?」
「……なんでもない」
目を背けた怜二はそのまま会話を打ち切るようにバイオリンに触れる。しかしそれを弾くことはなく、所在なさげに弦に指を滑らせていた。
「怜二、連れてきてくれてありがとね」
「……ふん、しばらく俺に会えなくて寂しがってまた泣いてんじゃねえかと思っただけだ」
「そ、そんなことで泣くわけないでしょ!」
「どうだかな。お前は昔っから泣き虫でいつもうちに駆け込んできただろ」
「昔は昔ですー」
「はいはい。それより、特別講義はどうだったんだ?」
「色々教えてもらったよ。他の人の時魔法見せてもらうの初めてだったし、面白かった」
五日間付きっ切りで教えてもらったが、魔法のコントロールも含めて沢山のことを学んだ。「先生もいい人だったよ、教え方はちょっとスパルタだったけどね。それに休み時間も色々アメリカの魔法事情だとか時魔法で困ったこととか聞いてたんだ。話しやすい人で本当によかったよ」
時魔法で将来役に立つことや、どんな仕事でどんな研究をしているか――これは詳しく聞いてもよく分からなかったが――なども聞いた。人見知りする方ではないと思うが、それでも随分と話しやすい人だと思った。
と、時音がそんなことを話していたのだが、何故かその時大きな舌打ちが目の前から聞こえてきた。彼女の気がつかないうちに、いつの間にか怜二は機嫌を急降下させたように不機嫌な表情を作っていたのだ。
「……どうしたの?」
「別になんでもねえ」
「なんでもないって、怒ってるじゃん」
「うるさい! どうせ俺はいつもすぐに怒るんだろ、いいからほっとけ!」
「はあ……?」
一体何が怜二の気に障ったのか。よく分からないがまた勝手に怒ってる、と思いながら時音は再び大きく舌打ちをした怜二に「もう弾かないの?」と尋ねた。
「……聴きたいのか」
「そりゃあ聴けるんなら聴きたいけど」
「……ふん、仕方が無いから弾いてやる。ありがたく思え」
「はーい、ありがとう」
時音が茶化すようにお礼を言うと怜二は少し眉を顰めたものの、そのまま再びバイオリンを弾き始めた。
するとまたすぐに眉間の皺が取れたのを見て、色々忙しい男だと思いながら彼女は大好きな音色に聴き入った。