56話 自問
「時音、今頃どんなことやってのかねえ」
「さあな」
初めての選択授業が行われたその日、魔法戦術訓練を終えた御影と怜二は教室に戻りながらそんな会話を交わしていた。
入学当初に比べると怜二が怒ることもなく普通に会話が成立するだけ随分進歩したものである。御影がそんなことを考えていると「何笑ってんだ気持ち悪い」ときつい突っ込みが突き刺さった。
ちなみに同じ選択授業になった時音はこの場にいない。彼女は一昨日からアメリカ人で同じ時属性のレイを先生に時属性について付きっ切りで学んでいるのだ。特別講義が行われる五日間は通常授業は一切免除され、時音は一度も教室に来ていない。
「寮も違うし、ここ三日ちっとも顔見てねえよな。もっと一日一時間とかにすりゃあいいのに」
「向こうも仕事あるだろうし、そんなに日本にいる時間なんて無いんだろ」
「えー、そんなこと言って怜二だって時音が居なくて寂しいんじゃねえの?」
にたり、と御影が何かを含むような笑みでそう言うと、怜二は酷く鬱陶しそうに思い切り眉を顰めた。御影が楽しそうな時は大体ろくでもないことを考えている時だと怜二は勝手に思っている。
「そんな訳あるか」
「そうか? お前らいつも一緒に居る癖になあ」
「中学の時は一週間に一度しか会ってなかった時もある。別に三日間ぐらいで寂しいなんて思うか」
「ふうん……まあそういうことにしといてやる」
「何で偉そうなんだよ」
したり顔にイラッと来た怜二が持っていた分厚い本で御影の背中をひっぱたく。地味に痛いそれに御影は笑うのを止めて肩を竦めた。
「けどせっかく選択授業も始まったのに参加できねーしもったいないよなー。結構面白かったし、時音も居れば戦術も広がりそう……あ、そういえばお前らこの前授業のことで喧嘩してたけどあれどうなったんだ? 時音がちっちゃくなって色々あったと思ったら仲直りしてたみたいだが」
「もうあいつとの話は着いてる」
「あいつも同じ授業取ったってことは怜二が負けたのか」
「別に俺は負けてない!」
「でもお前が折れたんだろ?」
「……時音に身を守る術は確かに必要だし授業はいいと言っただけだ。けど俺を守るとか言ってたのは認めてない」
「守るねえ……流石時音、お前のこと大好きだな」
「……それで怪我されても迷惑だ。もし何か怪我でもしたらどんな小さな傷でも無理矢理にでも治す」
「成程、それでその本ってことか」
御影が隣から怜二を覗き込むように身を乗り出す。彼と反対側の腕に抱えられた、先ほど御影を叩いたその本は光属性での治療や魔法力の譲渡などについて書かれているものだ。
怜二は元々勉強熱心だが、先ほど授業前の僅かな時間にも食い入るようにじっとその本を読んでいたのを御影は目撃していた。その所為でその時話しかけた言葉は全て無視されたが。
「なあ怜二、お前時音のことどう思ってんだ?」
「お前には関係ない」
「お」
「なんだよ」
「前とは答えが違うんだな、と。夏休み前くらいに聞いた時は見当違いな返事してたけど……なんだ、ようやくあいつを女として見るようになったのか」
「……」
へらへら笑う御影が腹立たしいものの、怜二は何も言わずに不機嫌そうに視線を逸らした。
時音に告白されて、ましてやあれだけ好意を示されれば怜二とて勿論意識せざるを得ない。おまけに時音の気持ちを知ってからというもの、今まで全く気付かなかった彼女の行動の端端に自分への好意を見つけて何となく落ち着かない気分になっている。
「そもそもあれだけ時音のこと甘やかしてる癖にちっともあいつをそういう目で見たことないっていうのが驚きだ」
「甘やかす? 俺が?」
「マジで自覚ないのか。時音に何かあると真っ先に駆けつけて何とかしようとする癖に」
時計を盗まれて侮辱された時、夏休みに家に帰れないと落ち込んでいる時、そして縮んでしまって世話を焼くことになった時。短い付き合いの御影ですら例がいくつも思いつく。
「お前、基本的にいっつも時音が最優先だろ?」
下手すれば華凛を好きだった時ですら、彼女よりも時音を優先していたかもしれない。そう告げると、怜二は眉間に皺を寄せて暫し黙り込んだ。
言われてみれば、確かに怜二にとっての時音の優先率は非常に高い。彼女が泣いている時は自分が泣き止ませるものだと思っているし、時音は自分が守るものだと昔から無意識のうちに刷り込まれていた。だからこそその逆なんてありえないと強く否定したのだ。
「お、噂をすれば。あれ時音じゃね?」
怜二が思考の海に沈んでいると、それを引き戻すように御影が窓の外を見て声を上げた。釣られるようにして怜二も視線をやると、数メートル下に位置する窓の外を二人の男女が並んで歩いていた。
一人は勿論時音で、そしてもう一人は顔は見えないものの一度見たあのアメリカ人講師であることがすぐに分かる。何を話しているかは分からないが、しかし時音の表情を見る限り講師とは良い関係を築いているように見えた。
「五日間ずっと一緒なんだよなーあの二人」
「授業なんだから当たり前だろ」
「それにしたって二人っきりだけど?」
「……お前は俺に何を言わせようとしている」
窓の外から視線を外し、怜二は胡乱な目で御影を睨んだ。
「さあな。ただ、俺は時音の味方だってことだ」
御影は楽しげに怜二を見返す。彼としては時音のことを応援していて、できれば怜二とくっついてくれればいいと思っている。それは彼女への友情であり、一度裏切り大切な物を壊した罪滅ぼしであり、更に言えば怜二が再び華凛に目を向けないようにという打算も含んでいた。
「ほら、今だって結構近いぞ? 年は結構離れてっけどあの人かっこよかったし、時音もまんざらじゃねーかもな?」
「たった数日でそんなことある訳ないだろ。大体あいつが好きなのは――」
「あ、抱き合った」
「……は!?」
再び窓の外に目を向けた御影がぽつりと呟くと、その声に反応して反射的に怜二が身を乗り出すように窓の外を見る。しかしそこには既に時音達の姿はどこにもなかった。
「貴様騙しやがったな!」
「いてっ!」
嘘に気付いた怜二が再び本で御影をバコッ、と重たい音を立てて殴ると、痛そうに背中をさすった御影が「暴力反対……」と小さく呟いた。
「お前がくだらねえ嘘吐くからだろうが!」
「えー? 信じて焦った癖に」
「俺のこと好きな癖に他のやつと抱き合ってたなんて言われたら普通見るだろうが!」
「……へえ」
御影がやや冷めた表情になって目を細めた。そしてじっと見てくる彼に、今までとは全く違う雰囲気を感じ取った怜二は訝しげに「何だよ」と尋ねた。
「別に? 振った癖に他のやつを好きになるのは嫌がるんだなと思っただけだ」
「……そんなこと言ってない。ただ昔から俺のこと好きだった時音がすぐに心変わりするはずがないと思っただけだ」
「分かんねーぞ? 長年好きだったやつに振られて傷心の時に優しくされたら落ちることだってあるだろ?」
「……あいつは」
「怜二」
それでも自分を好きでいいかと言ったのだと、意地になるように言い掛けた怜二の声を遮っていつもよりも数段冷ややかな声がした。
「お前、ちょっと驕り過ぎだ」
「れいちゃん、いちばんすごい! かっこいい!」
目の前にいるのは怜二のよく知る幼い女の子だ。まだ幼稚園に通っている少女は喜色満面でそう言いながら彼にくっついて来て、きらきらした目を向けてくる。
そしてそんな彼女を当然のように受け止めた怜二は「おれがいちばんなのはあたりまえだろ!」と調子に乗ってふんぞり返った。
「うん、れいちゃんだいす――」
「……な」
しかしその瞬間、嬉しそうに抱きついてきた少女が目の前で掻き消えた。咄嗟に目の前に手を伸ばした怜二だったが、しかしその手が掴んだのは少女ではなく、ひらりと舞った一枚の紙だった。
白紙の紙を裏返した怜二は目を見開く。そこにあったのは、右上に95点と書かれた国語のテストだった。そのテストを、怜二は嫌と言うほど記憶していた。些細なミスをして初めて百点が取れなかった――一位になれなかったテストだったのだから。
「……くそっ」
くしゃりとテストを握りつぶした怜二は苛立たしげにそれを地面へ叩き付けた。
そうだ。いつの間にか怜二は一番ではなくなっていた。努力しても努力しても、どんなことにだって上には上が居た。勉強、運動、そしてバイオリン。それが悔しくて堪らなくて更に頑張っても、それが報われる日は訪れなくなっていた。
駄目だ、これではあいつにすごいと言ってもらえない。かっこいいと、大好きだと言ってもらえなくなる。
一番でないと、一番でなければ駄目だ。
「怜二」
不意に背後から声がした。弾かれるように彼が振り返ると、そこに居たのは中学校の制服を来た時音だった。
「時音」
「怜二は、あの子のことが好きなんだよね?」
「時音、話を」
「……頑張って、きっと怜二なら大丈夫だから」
時音が笑う。今にも崩れそうな笑みで、すぐに泣きそうな顔で頑張ってと告げてくる。
「違う、俺は……っ!」
次の瞬間、怜二は一面真っ白な天井を見ていた。
「……夢」
何かに縋るように伸ばした手は天井に向かって伸ばされている。ベッドの上で暫し放心したように動かなかった怜二は、ややあってぱたりと手を下ろした。
夢の内容は、いつもとは違い鮮明に覚えている。それでも今にも頭からこぼれ落ちてしまいそうになる記憶をかき集め、怜二はベッドの傍にある時計に目をやった。時刻は午前五時半でまだいつもの起床時間よりも一時間ほど早い。
「ああ……そうだったな」
目を瞑るが再び眠気はやって来ない。彼は早々に眠るのを諦めると、今し方見ていた夢のことを考えた。
昔から怜二はずっと一番に拘り続けてきた。幼い頃から今までずっと、自分よりも上に他の人間がいることが気にくわなくて追い抜かしてやりたくて堪らなかった。潤一に比べられるから、ということもあったがそれは理由の一つに過ぎない。仮に同学年で一番になったとしても、潤一には遠く及ばないのだから。
『れいちゃんすごい!』
一番大きな理由は……というよりもきっかけは、時音のその言葉だった。
一番に拘り始めたのは、幼い時音にすごいと言われたかったからだ。きらきらした目を向けられて褒められると嬉しくなって、もっとそう言われたいと思うようになった。
けれど怜二は段々一番になれなくなった。それぞれの分野で突出した才能を持つ彼らに追い抜かれ、そして万年二位などと影で言われるようになっていた。意地になって一番に固執し、学年で一番可愛い女の子を振り向かせようとしていた時には、既に時音のきらきらした笑顔などすっかり忘れてしまっていたのだ。
時音はずっと怜二を見ていたが、彼自身はそれに気付かなくなっていた。
『お前、ちょっと驕り過ぎだ』
昨日御影に言われた言葉が頭を過ぎる。いつまでも時音が怜二を好きだと思うなよと、心変わりなんていつでもするのだと、その意図を持って告げられた言葉だと今なら分かった。
「俺は、あいつが他のやつを好きになるのが嫌なのか……?」
口に出して見ても答えは出ない。分からない。
しかし時音が他の人間に対して“一番”だと告げるのが嫌なのは確かだった。彼女の一番は、あのきらきらとした純真な目は自分のものだと言いたかった。
きっと幼いあの頃、怜二は時音のことが好きだった。無自覚な初恋は彼女だった。――ならば、今はどうだと言うのか。
「……俺は」
今、時音をどう思っている?