55話 特別講義
「よろしくお願いします、先生!」
「こちらこそ。短い間だがよろしく、トキネ」
その日の時音は、朝から教室には行かずに学園内の訓練施設を訪れていた。普段は研究棟の一室で魔法の練習をする時音は初めて入った広々としたその場所を物珍しげに眺め、そして待ち構えていた外国人男性に頭を下げた。
以前約束した通り改めて来日したレイに、時音は今日から五日間みっちり時魔法について学ぶことになったのだ。
挨拶をして顔を上げた時音は改めて彼をまじまじと見つめる。金髪碧眼で彫りの深い整った顔はいかにも他国の人間だと分かりやすいもので、年齢は三十代くらいに見える。長身に見下ろされると強い威圧感を覚えるものだが、しかしレイはその穏やかな表情であまりプレッシャーを与えない。朝っぱらから続いていた緊張も徐々に無くなって来た。
「トキネ? 僕に何か?」
「……あ、いえ何でもないです」
「ならいいんだが。……それじゃあ時間も限られているし早速始めようか」
「はい、お願いします」
「あらかじめ君の成績には目を通してある。トキネ、君は中々優秀な子のようだね」
「え。そ、そうですか……?」
「ああ、魔法力が発現して一年足らずで時魔法をここまで使いこなせているのは本当に稀なことだ。胸を張っていいよ」
突然の褒められて時音は軽く動揺しながらも口元を緩ませて小さく頷いた。今までそんな風に言われたことはあまりなかった。座学は甲斐や怜二に大きく及ばず、そして実技だって御影のように自由自在に魔法を扱える訳ではない。更に言えば同じ属性の人間がいないので比較対象がないのだ。自分のやっていることがどの程度の実力なのか、時音はいまいち分かっていなかった。
首を傾げた時音を見て「自覚はないのか」とレイは小さく笑ってみせた。
「そもそも普通の……いや時属性自体が普通ではないんだが、とにかく普通の時属性の人間は初歩である物の時間を止めるだけでも数ヶ月から半年掛かるんだ」
「え……?」
「だけど君は早々にそれをクリアした。元々時間に対して絶対的な感覚を持っていたらしいね。この報告書には正確に時間を計れると書かれているが」
「はい、昔から得意で」
「基本的にまずここで躓く人間が大多数なんだ。一度見せてもらってもいいかな」
「分かりました」
時音が頷くとすぐにレイからストップウォッチが渡される。一分で止めるように言われると、時音はそっと目を閉じていつもの時計を頭の中に思い浮かべてスタートボタンを押した。
「はい、終わりました」
「どれどれ……!」
1:00.04。
ストップウォッチを返されたレイがその秒数を見て一瞬固まった。「いや僕でもこれは……」とぼそぼそと呟いた男は、すぐにはっと我に返って「トキネ、君はすごいな!」と笑顔で彼女を賞賛した。
「君は本当に時属性に生まれるべくして生まれたみたいだ」
「あ、ありがとうございます」
「成程、では本格的に時魔法の訓練としようか」
レイはストップウォッチを軽く上に放り投げる。小さな声で「stop」と彼が呟くとそれは目の前の宙に浮いた状態でぴたりと動きを止めた。
「時魔法で出来ることは、今みたいに物体の時間を止めてたり、早くしたり遅くしたりすることだね。この辺りのことは出来るのかな」
「はい」
「よろしい。そしてそれらの時魔法を使う際に一番気をつけるべきことはなんだと思う?」
「一番気をつけること……失敗しないように、ですか?」
「それも含めるが、要はコントロールを正確に行うことが何より重要となる」
確かに潤一にも最初に、時魔法は下手をすれば次元が歪む可能性がある、と言われたことがあった。
「トキネ、君は時魔法をコントロールし損ねたり失敗したことは……あるね?」
「はい……この前はすみませんでした」
失敗と言われて真っ先に思い出すのはこの前の幼児化事件である。彼女自身はその時の記憶がないのであまり実感がないとはいえ、多くの人を巻き込んで迷惑を掛けてしまった。
あと他に思い当たることといえば、以前御影を無意識のうちに“止めて”しまったことだろうか。ストップという言葉は使ったが、本当に止めるつもりはなかったのだ。
時音がそれを告げると、浮かせていたストップウォッチを手で受け止めたレイは大きく頷いた。
「そうだね、そういう失敗もよくある。時魔法は繊細で、元々制御しにくいものでもあるしね。だからこれで訓練していこう」
レイは傍の机にストップウォッチを置くと、机に置かれていた鞄の中から三つのゴルフボールを取り出す。そしてそれを時音に示して「今からこれを投げるから途中で止めてみてくれ」と言った。
「ただし、止めるボールは投げてから指示をする」
「え?」
「じゃあ早速始めよう」
「あの」
時音が戸惑っているうちに、レイはすぐに手の中にある三つのボールを同時に上に向かって投げた。
右、真ん中、左。それぞれに分かれたボールがふわりと投げられてゆっくりと自由落下を始めると、それと同時に「真ん中!」と素早く声が掛かった。
「と、止まれ!」
声に反応して慌てて真ん中のボールに視点を合わせた時音が叫んで時魔法を発動させる。しかし、地面に付く前に空中で動きを止めたボールは一つではなく二つだった。
「あ……」
「惜しいね」
かん、と軽い音を立てて一番左にあったボールが床を転がる。右側にあったボールはというと、真ん中との距離が近かった為か一緒に巻き込まれるように時音の目の前に浮いていた。
「魔法にも勿論有効範囲がある。火や水などの目に見えるものなら分かりやすいが、時魔法は見えない。だから難しいんだ。これは訓練で少しずつ自分の魔法の範囲を把握していく他ない」
「はい」
「例えばだけどね、味方が影人との交戦中にトキネが影人の動きを止めようとする。そんな時にもしも影人の傍で戦っていた味方まで巻き込んでしまったらどうなる?」
「……大変なことになります」
「そうだ。止まっている間に別の影人に殺されるかもしれない。避けられずに他の味方の魔法の巻き添えにしてしまうかもしれない。他の魔法でも勿論そうだが、時魔法は目に見えない分掛けられる相手も対処が非常に難しい。よく覚えておくんだ」
例えば水魔法のコントロールに失敗して味方に向かっても、事前にそれに気付けば避けたり防いだりできる。しかし時魔法にそれは不可能だ。更に言えば、時魔法は発動から効果が発揮されるまでのタイムラグがほぼないと言っていい、基本的に不可避の魔法なのだ。
「しかし、逆に言えば敵にとって非常に脅威となる属性でもある」
時音の集中力が切れて二つのボールも床に転がる。レイはそれらを拾い上げながら「時魔法は」と話を続けた。
「戦いの場において様々な応用が利く。ただ敵の攻撃を止めるだけではない。例えば味方の動きや魔法を速めることや、最前線の敵をまとめて止めたりすることによってその後ろにいる敵の壁にしてみたり、とにかくサポートが中心になる。トキネ、それで君はどうやって戦いたいかな」
「どうやって、というのは?」
「影人を倒すことを優先するのなら、味方の攻撃を主にサポートすることになる。逆に守りを固めたいのなら敵を足止めすることを優先することになるだろう? それぞれでサポートの仕方だって変わってくる。だから君はどうかなと思ってね」
「……そうですね、私は」
レイの問いかけに、時音の頭の中に一人のよく知る幼馴染みの顔が思い浮かんだ。そして彼を筆頭に、次々と友人達の姿が現れる。
「守りたいです。誰も怪我しないように」
「そうか」
時音の答えに、レイは満足そうに頷いた。
「そう思うんなら、より正確に時魔法をコントロール出来るようにならなければならないね。それじゃあ今の訓練を繰り返して行こう。これが出来るようになれば、魔法の有効範囲を自覚するのと同時に反射神経と動体視力の上昇、それに魔法の発動も早くなる」
「はい、よろしくお願いします!」
「じゃあもう一度行くよ……そらっ」
再びゴルフボールが宙を舞う。それを真剣な目で追いかけた時音は、しかし見上げた先で「え」と小さく呟いた。三つだったゴルフボールが四つに増えている。
「両端の二つ!」
「え、ちょっ」
更に止める数まで増えている。時音は必死に魔法を使いながら「もしかして予想以上にスパルタなのでは」と内心冷や汗を掻いた。
「それじゃあ今日はここまで」
「あ、ありがとうございました……」
すっかり外も夕暮れの色に染まりかけて来た頃、時音はようやく解放されたとばかりにぐったりとしながら頭を下げた。勿論何度か休憩は挟んだもののここまでノンストップで魔法を使い続けたことなどなく、既に時音の魔法力は空っぽのように感じた。
まだ一日目だというのにこの有様である。むしろ初日だからこそ慣れないだけだ、と時音が自分に言い聞かせていると、軽く片付けを行ったレイがそんな時音を見て「お疲れ様」と彼女を労った。
「よく頑張ったね、ここまで出来るとは思っていなかった」
「そうですかね……?」
「そうだ。君はもう少し自信を持つべきだね。ああ、何か質問や相談があれば聞くが、どうかな」
傍の椅子に腰掛けた時音は大きく深呼吸をして呼吸を整える。そしてその間に何か聞きたいことはあっただろうかと考え、そしてふと思い立って顔を上げた。
「あの、先生。一つ聞きたいことがあるんですけど……」
「何だい?」
「時魔法で時間を戻すことはできますよね」
「ああ、現に僕も君も一度体の時間が戻ってしまったからね」
「じゃあ、例えば怪我をしたとして、それを怪我する前に戻すこともできるんでしょうか?」
「……え?」
「前に壊れた時計を元に戻したことがあって、もしかしたらそれも出来るんじゃないかって思って……」
時音はそう言いながら服越しに懐中時計に触れる。以前これが壊された時、時音は時魔法を使って自力で直した。
光である怜二は手の怪我を治しても時計は直せなかった。しかし時属性は怪我の方も戻すことはできるのか。時音が疑問を口にすると、レイは少し驚いたように目を瞬かせて口元に手をやった。
「……そう、だな……人体に影響を与えていいのは光だけだと当然のように思っていたが、どうだろう。……いや、待て、そもそも……」
「先生?」
「僕もやってみたことはない。治療は光の特権だと思っていたし時魔法をそのために使ったことはないからね。だが、不可能と断定することはできないし、もし可能なら新たに時属性の可能性が生まれる」
レイはそこまで言うと考えるように伏せていた目を時音に向け、まるで子供の様にわくわくした顔でにこりと笑った。
「トキネ、良い着眼点だ。明日から試してみようか」
「はい!」