52話 だいすき
「れいちゃん!」
放課後、授業を終えた怜二達が急ぎ足で研究棟へ向かうと、出迎えたのはサイズの合ったワンピースに着替えてご機嫌の時音だった。
検査の結果はどこにも異常はなく、ごく普通の健康的な五歳児だとのことである。それはそれで問題であり、現在潤一達教師は緊急招集を掛けて時音を元に戻す為に話し合っている。
そしてその間、時音は研究棟の会議室で怜二達と共に待つことになった。そして大人しく待っていたご褒美にと華凛が持ってきたアイスを受け取ると、時音は怜二の膝の上に座って嬉しそうにアイスを頬張り始めた。会議室の机に体が届かない為仕方が無くそうしたのだが、時音は大好きなものに囲まれて心底楽しそうであった。
「おいしー!」
「上手く出来たみたいでよかった」
にこにこと笑う小さい友人を見て華凛の表情も綻ぶ。ちなみにこのアイスは先ほどの授業……魔法実技訓練の水属性のクラスで作ったものだ。冷気をコントロールして冷やし固めたアイスクリームは味見をした華凛も中々自信作だった。
「……それにしても、何て言うか本当に素直っていうか」
「いつもの周防とは大分違うな」
「れいちゃん、あーん」「いらん」とアイスを怜二に食べさせようとしている時音を見て、机に両肘を着いた詠が何とも言えない表情を浮かべる。いつも素直になれず気持ちを伝えるのをあれだけ躊躇っていた時音が、今や……というか昔はこんな調子だったのだ。
「なー時音」
「まほうつかいのおにいちゃん、なあに?」
「大きくなったら何になりたい?」
「もちろん、れいちゃんのおよめさん!」
ぶはっ、とアイスを断ってお茶を飲んでいた怜二が吹き出し掛ける。気管に入ってげほげほと苦しんでいた怜二が収まるのを待って顔を上げると、酷く生暖かい四つの視線が怜二に集中していた。
「お前らこっちを見るな!」
「いやー、あまりにも予想通り過ぎて。よかったなー怜ちゃん」
「お前がその呼び方をするんじゃない……!」
「時音、ちなみに二階堂のどこが好きなの?」
「あのね、れいちゃんはすごいの! おなまえかんじでかけるし、ぶらんこいっぱいこげるし、はしるのもはやいの! いっぱいいちばんなの!」
「へー、今では見る影もない一番が」
「椎名貴様っ!」
「成程。周囲への強いコンプレックスと、正反対の周防のベタ褒め。それらが合わさったからこそ劣等感は強いがすぐ立ち直る複雑怪奇な二階堂の性格が出来上がった訳か」
「お前は何分析してんだよ!」
御影の煽りと共に甲斐が冷静に怜二の性格を分析して頷く。先ほどから怒鳴ってばかりの怜二に苦笑していた華凛は、改めてにこにこ笑顔を怜二に向ける時音を見て感慨深く呟いた。
「時音ちゃん、本当に二階堂君のこと好きなんだね……」
「うん、だいすき!」
「はあ……」
スプーンを置いてぴとっとくっついてくる幼馴染みに怜二は様々な感情を込めて重たいため息を吐く。俯いた頬が僅かに紅潮しているのに気付いたのは誰もいなかった。
「そういえばさ、二階堂って結局時音になんて返事したの?」
「は?」
「そうそう、告白したっていうのは聞いたけど、どうなったんだ?」
「そもそもなんでそんなこと知ってるんだお前達は!?」
「周防を問い詰めたら吐いた。それ以前にお前への態度を見れば一目瞭然だったが」
「あいつは……まったく」
酷く挙動不審になって怜二から逃げ回っていた時音を思い出せば何があったかはあっさりと想像が付く。そもそも藤月祭の時に後夜祭に誘ってみるとすら言っていたのだから。
怜二が膝の上の時音をつい睨んでしまうが、今の何も知らない彼女に怒っても仕方が無い。
「で?」
「で、じゃない。誰が言うか」
「えー、いいじゃん。なあ、華凛も気になるよな?」
「それは勿論気になるけど……」
「……っ常磐に聞かれても言わないからな! これは俺達の問題だ。少なくとも時音の承諾無く――」
「俺だ、入るぞ」
その時、会議室の扉がノックされ、扉越しに聞き慣れた男性の声が聞こえて来た。一瞬室内が静まり返ると同時に扉が開かれると、そこに居たのは生徒と教師――怜二にとっては二人の兄弟だった。
「兄さん、こんな所に一体何があるんですか」
「すぐに分かる……ほら」
会議室に入ってきたのは潤一と三葉だ。三葉は何の用で呼ばれたのかと首を傾げながら会議室の中に目を向けると、一つ上の兄の膝に小さなものを見つけてその動きを止めた。
「は?」
「時音ちゃん、三葉を連れてきたよ」
びしりと固まった三葉の横を潤一がすり抜ける。彼はそのまま怜二に近付くと膝に座る幼い女の子を抱き上げて再び三葉の元へと戻って来る。
今、この兄は何と言ったのか。
「に……兄さん、これはどういうことですか!」
「実は時魔法に失敗して時音ちゃんが昔に戻ってしまったんだ」
「昔に、戻った……? それは大丈夫なんですか!?」
「みっちゃん? みっちゃんなの?」
床に下ろされた時音が、酷く混乱している三葉の足下で彼を見上げる。にこにこと期待するように自分を見つめる時音と目を合わせた三葉は、動揺しながらも片膝を着き幼い少女をじっと見つめた。
昔何度も見たその顔は、確かに三葉が慕う彼女そのものだった。
「……本当に、時音さんなんですね。はい、僕は三葉ですよ」
「みっちゃん! おねえちゃんってよばないとだめでしょ!」
時音は腰に手を当てて三葉を叱るようにそう言った。年上振りたかった彼女は昔から三葉に自分をそう呼ばせていたのだ。
しかし三葉はそれに答えずに懐かしそうに目を細めると、そっと時音の頭を撫でた。
「当たり前ですが、本当に昔のままですね」
「……何で俺だけ分からなかったんだよこいつは」
そして時音が膝から居なくなった怜二は酷く不機嫌にぶつぶつと呟く。自分は一度全力で否定されたというのに弟は名乗るとあっさりと信じたのだからちょっと気に食わない。
ちなみに幼い時音の三葉に対する判断基準が眼鏡であったということは、本人は知らない方が幸せな話である。
「それで、時音さんは治せないんですか」
「そのことなんだが……」
三葉の問いかけに、潤一は先ほどまで他の教師と話し合っていた結論を口にするべく、幼くなった時音を見下ろしてから生徒達を振り返った。
結論から言えば、時音を元に戻すことは可能だろうということに落ち着いた。
時属性の人間がこうして昔の姿に戻ってしまった事例は過去にも存在した。その人間――アメリカ人の男性は二十五歳から二十歳ほどまで戻ってしまったらしく、その記憶も時音と同じように引き継がれていなかった。彼自身は元に戻った今もその時のことを思い出せていないらしい。
そしてその彼はどうやって戻ったのかというと、周囲の話を聞いて若返ったと理解した彼は自ら時魔法を使って自分の時間を戻した分だけ進めたのだ。つまり時音も同じように戻った時間の分だけ体の時間を進めれば、元の高校生の時音に戻ることができる。
しかしここでネックになるのが彼女の年齢だ。五歳児の時音は魔法を扱うどころかそもそも魔法力も発現していない。ならばどうするのかというと、他の人間が時魔法を使って時音の時間を進めるしかない。
結果として学園長が急ぎコンタクトを取り、アメリカの魔法研究機関で働いていた件の時属性の男性をこの学園まで呼び寄せることになったのだ。事情を聞いたその男性は自らの経験も手伝って大急ぎで駆けつけてくれるらしく、明日中には学園に到着するだろうという。
話を聞き終えると途端に部屋中に安堵の雰囲気が広がった。時音が元に戻る目処が立ち、しかもそれは明日なのだ。
「……まったく、心配掛けやがって」
「?」
怜二がぼそりと呟くが、当事者の時音だけが何も状況を理解できずにきょとんと目を瞬かせていた。
「やだ!」
問題が起きたのはその日の夜のことだった。
身体的には問題はないと診断されたものの、やはり突然体調が異変しても困る。その関係で時音は医務室で夜を過ごすことになったのだが、それを時音が泣いて嫌がったのだ。
「時音ちゃん……」
「やだ、おうちかえる! パパとママとねる……ママ……っ」
ぼろぼろと大粒の涙が瞳に浮かび上がり、途端に堰を切ったかのように涙腺が決壊する。大声を上げて泣き出した時音に周囲の面々はどうしたものかと顔を見合わせた。
「周防さん達に言う訳にもいかないしな……」
「そっか、時音のお父さん達って」
「ああ、魔法士ではないと言っていたな」
「パパ、ママっ! うう……」
「はあ……時音。しょうがねえから寝るまではここに居てやる。それで我慢しろ」
「怜二?」
「よくうちには泊まりに来てただろ、今日はここでお泊まり会だ」
「おとまりかい……」
時音の嗚咽がゆっくりと収まっていく。真っ赤な目で怜二を見上げた彼女は「分かったか?」と聞かれて小さくこくりと頷いた。
「れいちゃんといっしょなら……がまんする」
「うんうん、時音ちゃん偉いね」
「ほんと? ときねえらい?」
「はい、時音さんは偉いですよ」
華凛と三葉に褒められてころりと泣き顔が笑顔に変わる。目元はしっかり腫れてしまったが、ひとまず泣き止んだことにいくつかの安堵のため息が重なった。
「怜二……万が一は無いようにな」
「一体何の心配してんだよ!」
「お、聞きたいか?」
「いらん!」
揶揄う気満々と言った表情の御影を嫌そうに手で遠ざけ、そして他の面々も一緒に医務室を出て行く。
と、その時、最後尾にいた三葉が出て行く直前で怜二を振り返った。
「兄さん」
「何だよ」
「……時音さんのこと、お願いします」
「ああ、分かってる」
普段の突っかかるような物言いもなくそう言った三葉はすぐに背を向けて医務室を後にする。そうして時音と二人になると、いつの間にか騒がしかった時音は大人しく黙り込んでいた。
というよりも……。
「……こいつ寝るの早すぎだろ」
くうくうと穏やかな寝息が聞こえてくる。大泣きして疲れたのか、早々に時音は夢の世界に入ってしまっていたのだ。先ほどまでどうしようと頭を悩ませていたのが馬鹿馬鹿しくなる。
「……れいちゃん、だいすき……」
「……はああ」
どんな夢を見ているのか、そんな寝言が耳に入って来ると怜二は大きく息を吐いて片手で顔を覆った。彼女の気持ちは今も同じようだが、しかしいつもの時音からは絶対に聞くことの出来ない正直過ぎる言葉だ。
「まったく……いつからあんなに捻くれたんだよ」
強がって、憎まれ口を叩いて……ましてや、怜二を守ろうと考えるなんて。
時音がこうして小さくなる前に交わした口論を思い出す。時音に守られるなんて冗談ではない、そう言った言葉に嘘はない。
藤月祭のあの時、三葉にカッターを向けられたあの瞬間、自分を庇うように立った時音の背中を見て怜二がどれだけぞっとしたことか。そうして実際に血を流す手を見てどれだけ血の気が引いたか、時音は知らないのだろう。
怜二はすやすやと眠る時音の柔らかい髪をそっと撫でた。今はこうして怜二に全幅の信頼を預けてくれているというのに、いつの間にか時音は大人しく守らせてくれなくなった。
「何で分からねえんだよ、こいつは」
ただ怜二は、時音を傷付けたくないだけだというのに。
「……は?」
翌日、アメリカからの客人を今か今かと待っていた潤一は、研究棟から職員室に掛かってきた電話の内容を聞いて受話器を取り落としそうになった。
『すみません! ちょっと目を離した隙に周防さんが脱走しました!』