50話 巻き戻る
本格的に秋になり、ようやく風も涼しくなって学校の木々も少しずつ色付き初めて来た。
「おはよー」
「ああ、おはよう」
「何か人いっぱいだけど、何かあったの?」
そんなある日のこと。朝時音達が女子寮から校舎へ向かうと、昇降口で何やら人混みに遭遇した。近くで靴を履き替えていた甲斐を呼び止めた詠は首を傾げながら一体何の騒ぎだと首を傾げる。
「あれだ」
甲斐の指が廊下の壁に貼られた一枚の紙を示す。人が多く近づけないので何と書いてあるのか読みにくく、時音は軽くジャンプしてその紙の文字を読み取ろうとした。
そして、何とか一番大きな見出しだけはしっかりと見ることが出来た。
「選択授業……?」
「ああ。どうやらそうらしい」
「科目名は……あー、文字がちっちゃくて読めない……」
「教科は魔法科学基礎論と魔法戦術訓練だ」
「!?」
何度か跳ねて遠目から目を凝らしていた時音にさらりと答えが返って来た。
それはいい。だが、そのよく聞き慣れた声に過剰反応した時音はうっかりバランスを崩して足を捻りそうになった。
「れ……怜二」
「はよ」
「お、おはよう」
「皆、おはよー」
人混みから出てきた怜二、そしてその後ろから更に御影が片手を上げて現れる。
「二階堂君、御影君、おはよう」
「二人は早かったんだ。それで、今教科はなんて言った?」
「だから魔法科学基礎論と、魔法戦術訓練だ」
「それってどういう教科なんだろう……何か書いてあった?」
「おう、何か科学なんたらって言う方は魔法装置の理論を学んだり実際に簡単なものを作ってみたりするらしい。んで戦術訓練はそのまま、魔法を駆使した戦い方を学ぶ、魔法実技訓練の戦いに特化したっつー感じみたいだ」
「成程、面白そうだな」
甲斐が無表情のままこくりと頷くと、それに同意するように御影が「だよな」と笑った。
「うん、楽しそうだね……」
盛り上がる周囲の中で一人、時音は曖昧に笑みを浮かべて無意識に怜二から距離を取るように華凛の後ろに隠れた。
……時音は先日、怜二に振られた。それでも今までのように好きでいることは許可されたものの、何事も無かったかのように普通に接することが出来るかは別問題だ。
怜二はすすす、とさりげなく自分から離れていった時音を一瞥したが、すぐに視線を外した。
「それで、皆どっちの教科にするの?」
そのまま教室に向かいながら話は続く。華凛が楽しそうに問いかけると一番に甲斐が返事をした。
「俺は魔法科学基礎論だな。実技は得意ではないし魔法装置の理論が気になる」
「まー甲斐はそうなるよね。あたしもそっちかな。あたしの属性じゃあ戦うのなんて難しいし」
「詠はそうだよね」
「星属性だとサポートになっちゃうよな。例えば、敵が来るのを事前に察知したりとか」
「……それ、実際にやってたよね」
「うん」
「?」
藤月祭の時音達の行動を唯一知らない御影が首を傾げる。しかし彼にわざわざあの時のことを告げて彼の傷口を広げるつもりもないので詳しくは説明しない。以前のように戻った御影は、それでも内心は気にしているだろうから。
「俺は勿論戦術訓練だ」
「……椎名君は、そっちでいいの?」
「何でだ?」
「いやだって、戦うのが……」
「……ああ、そういう意味か」
魔法士が戦うの相手の大部分は影人だ。勿論それだけではなく魔法を使った犯罪者などとも戦う可能性はあるが、それでも確率を考えればその差は一目瞭然だ。
「大丈夫だ。だから俺は、あいつを裏切ってまでこっちに来たんだから」
御影は苦笑しながらもきっぱりとそう言った。悪意を生み出して無意識に影人を作る人間に思わない所が無いわけではないが、御影とてクローンとはいえ同じ人間だ。
「俺は皆を守りたい。それに……影人を悪意や憎しみから解放してやりたい。だって、ずっと憎み続けるのは苦しいから」
「椎名君」
「なんて……はは、傲慢なこと言ってるよな。どの口が言うんだって感じで!」
真剣な顔をしていた御影が途端に茶化すように、自嘲するように表情を崩した。ははは……と乾いた笑いを浮かべた彼は、周囲の重い空気をぶち壊したくて、わざと明るく「それに俺馬鹿だから科学理論とか無理だし!」と大きな声を出した。
「……まあ確かに、椎名に座学は向いていないか」
「馬鹿っぽく振る舞っていたのも演技かと思ったが……まさか本当に馬鹿だったとはな」
甲斐と怜二の頭の中に蘇るのは、つい数日前に行われた実力テストの結果だった。藤月祭の――御影の正体が分かった後初めて行われたそのテストで、彼は相変わらず底辺とも言える順位を叩き出していた。
周囲に悟らせない演技や計算高さなどはある癖に、勉強になると途端にその力は発揮されなくなるらしい。仮にも科学者のクローン体だと言うのに。
「まあそれはいいじゃん、また甲斐と怜二が教えてくれればいいって!」
「二度と教えんと言っただろうが!」
「けちだなあ。……で、そういうお前は選択授業どっちにするんだ?」
「……戦術、訓練だ」
「二階堂君ならどっちでも得意そうだけど、そっちにするんだね」
「理論なら本からでも学べるが、戦いは実際にやってみないと駄目だからな」
「そういう理由かー。華凛と時音は?」
「私は魔法装置を作ってみたいから魔法科学基礎論の方かな」
「私は……戦術訓練の方にしようかな」
「え」
周囲が驚いた表情で時音を見つめる。明らかに予想外と全員の顔に書いてあるのを見た時音は、こちらは逆に予想通りで少し笑ってしまった。
「意外だな、周防ならば基礎論を選ぶと思っていたが」
「その、この前とかも誘拐されかけたし、自分で自分を守れたらなーって」
時属性である時音の希少価値は非常に高い。あの誘拐犯は捕まったが、この先また同じような人間が現れる可能性も低くは無いのだ。自分で身を守ることが出来ることに越したことは無い。
そしてもう一つ理由がある。時音がもっと強くなれば周囲も守れるようになるかもしれない。藤月祭の時だって、もっと皆の怪我を減らすことが出来たかもしれない。
「それに、私でも皆を守れるようになれば――」
「時音、やめとけ」
「え?」
「お前に戦いは向いてない」
時音の言葉を止めて、つかつかと怜二が近付いて来る。そして逃がさないとばかりに腕を掴んだ彼は「正気か?」と怒るように眉を顰めた。
「正気かって、失礼な」
「星属性と同じで時属性に攻撃手段はない。それなのにそっちを選ぶ必要なんてないだろ」
「でも、伊波先生みたいに魔法じゃなくても戦う方法だってあるし……」
「それこそお前の運動神経じゃ無理だろ。余計に怪我するだけだ」
「……何、その言い方」
「俺は事実を言ってるだけだ」
「ちょっと、二人とも」
どんどん険悪な雰囲気を醸し出して行く時音と怜二を止めようと詠が声を上げる。しかしそれに反応することが無かった二人はその空気を更に助長させるように睨み合った。
「私がちゃんと戦えるようになれば皆に迷惑掛けずに済む。夏休みの時だってそうだったら潤一さんに迷惑掛けずに家に帰れたし、藤月祭の時だってもっと皆を守れた!」
「そんなのお前がちょっと訓練した所でどうにかなる訳ないだろ。むしろそうやって下手に付け焼き刃で飛び出される方が余計に周りの迷惑だ! そのくらい少し考えれば分かるだろうが!」
「はあ!? 勝手に決めつけないでよ! 私だって少しは皆の役に立てる! 怜二を守ることだって……!」
「お前に守られるくらいなら死んだ方がましだ!」
しん、とその瞬間廊下が静まりかえった。
時音達六人、そして周囲を歩く生徒達も多くいるというのに、その時ばかりは誰も口を開くことなく、言い争っていた二人を凝視していた。
「……」
「いいからお前は大人しく」
「うるさい!」
「なんだと」
「守られるくらいなら死んだ方がまし!? ふざけんな馬鹿! 私は――」
「一体何の騒ぎだ!」
怜二の言葉にぶち切れた時音が勢い余って鞄を振り上げたその時、廊下の人混みの向こう側から男性の大きな声が聞こえた。
すぐに生徒達の間から声の主である教頭が現れるのを見ると、時音は強く怜二を睨み付けて掴まれていた腕を振り払いそのまま逃げるように走り出した。
「時音待て!」
「周防! 廊下を走るな!」
背後からそんな声を背中に叩き付けられながら、時音は震える手を強く握りしめて唇を噛み締めた。そうでなければ、怒りやら色んな感情が爆発して泣いてしまいそうだったから。
「周防、どうかしたのか?」
「え?」
名前を呼ばれて時音がはっと顔を上げる。すると目の前には潤一が心配そうな表情で時音を見下ろしており、彼女は今の状況を思い出すと慌ててすみませんと謝った。
「気分が優れないのなら保健室に行くか?」
「大丈夫です」
「……そうか?」
今は魔法実技訓練の授業中だ。個人授業のこの時間、時音は何度も何度も思考を飛ばしては潤一に注意されていた。昨日の怜二との言い争いからずっとぼうっとしてしまっている時音は頭を振って授業に意識を戻す。
「無理する前にちゃんと言うんだぞ」
「はい」
「それじゃあ今度はこれだ。壊れたものを借りてきたから直してみてくれ」
そう言って潤一が取り出したのは針が止まった古めかしい腕時計だった。
「最初に直したのも時計だと言っていたからひとまずこれで」
「分かりました」
時音は腕時計を受け取ってじっとそれを見つめる。藤月祭で新たに出来ることが増えた時音は現在時間を巻き戻す練習を多く繰り返していた。あの時のように頭の中に時計を思い浮かべ、そしてその針を逆さに動かすイメージを思い浮かべる。
「戻れ」
……もし昨日に戻れたら、今度はあんな言い争いにはならないだろうか。
時計に集中させていた意識が、不意に横道に逸れ始める。
「周防?」
大体あれは怜二が悪いのだ。ただの選択授業だというのにどうしてあんなに反対されなければならないのか。
魔法科学基礎論も、時音は勿論興味があった。魔法装置を実際に作ってみるなど授業内容も気になる。そちらだってやってみたいとは思ったが、けれど強くなりたいと思ったのも確かなのだ。
確かに時音は戦うことが好きとは決して言えないが、それでもこの前のように怜二が苦しみながら戦うのならそれを助けたい、守りたいのだ。それの何が悪いというのだろうか。
「おい、周防……」
大体怜二は時音のことを何も出来ない赤ん坊だとでも勘違いしているとしか思えない。確かに怜二に助けられることも多いが、それでも何でもかんでも彼に頼らなければ生きていけない訳じゃ無い。時音にだって手伝えることはあるはずだ。
だというのに守られるくらいなら死んだ方がましだとか、時音に守られることがそこまで彼の癇に触るというのか。どうして怜二は分かってくれないのか。
苦しむ怜二などもう見たくないというのに。
「周防!」
「え……あ、あれ!?」
突然目の前がぐるりと反転し、時音は椅子から転げ落ちた。
しかしその後もぐるぐると視界は回り続ける。頭の中の針もまた、ぐるぐると逆回転を止めない。
「時音ちゃん!!」
そうしていつの間にか、時音は目の前が真っ白に染まっていた。
「う、そ……だろ」
潤一は呆然と呟いた。目の前にある事実が事実であると認識できない。
魔法を使っていた時音が突然椅子から転げ落ちたかと思えば、立ち上がって机越しにその先を覗き込んだ潤一の視界で時音が消えた。いや、正確に言うと消えたのではない。潤一は思考を半ば停止させながら、徐々に視線を下に下ろしていく。
「……すう……」
そこには藤月学園の女子生徒の制服、そしてそれにくるまるようにすやすやと寝息を立てる五歳児くらいの女の子がいた。
更に言えば、潤一はその少女の顔を昔何度も見ている。
「時音、ちゃん……」
事実をありのままに告げれば、時音は縮んでしまっていたのだ。