41話 裏世界
この世界には、二つの側面がある。
一つは多くの人間が生まれ、育ち、生活を営むごく普通の世界、表世界。そしてその表世界を一枚捲った場所にある、真っ暗な閉ざされた世界が、裏世界である。
ずっと昔、裏世界は殆ど存在を持たなかった。そんな世界があるということを、世界中の誰一人知ることはなかった。
けれど時代が進み人口が増え、人間達を様々な感情や思惑が取り巻くようになると裏世界は驚くようなスピードで膨張し広がっていった。表の人々が密かに心の内――裏に秘めている憎悪や嫉妬、悪意。裏世界を構成しているのはそれらだったのだから。
人々の“裏”が増大する度に裏世界は大きくなる。そして徐々に、その裏の感情が固まってできた影人と呼ばれる思念体が生まれ、彼らはその本能の赴くままに憎しみの感情で表世界を襲い始めたのだ。
表世界と裏世界は繋がっている。人間に魔が差すように、表世界をぺらりと捲るとそこには裏世界が広がっているのだ。そこから影人達は表世界へ出て、そこでようやく人間達は彼らの存在を知ると同時に裏世界という場所のことを知った。とはいえそれらがどういうものかは未だに理解されていないだろうが。
影人に物理的な攻撃は効かない。彼らは思念体なのだから当然だ。だからこそ当初は影人が一方的に表世界を侵食していたのだが、そこで現れたのが“魔法士”と呼ばれる者達だった。
天敵が現れたことにより急激に進化を早めた数少ない人間達が持つ魔法力によって、影人はあっさりと状況を覆された。世代を渡るごとにどんどん数を増やしていく魔法士達と、彼らによってどんどん減っていく影人。
“彼”が生まれたのはそんな頃のことだった。
影人が減っても人口が増え続けている以上、人間の裏の心は増えていくばかり。そしていつしかそれらが積み重なり、影人よりも遙かに黒い感情を固め上げた新たな存在が裏世界に生まれた。それが彼だった。
彼は他の影人とは違い自我を持っていた。他の影人同様に表世界への強い憎しみを抱きながらも、闇雲に人を襲うことはせずにどうすれば表世界を破壊できるのか――ひっくり返すことが出来るのか裏世界の中で静かに思考を巡らせた。
闇魔法による影人の効率の良い製造方法、他の影人を操り統率をとらせる方法。いくつもの案を考え実践してみたものの、中々成果は上がらない。
彼が日々試行錯誤を繰り返していたある日、やけに影人達が騒がしい――実際に話している訳ではないが――と感じて様子を見に行ったことがあった。
「……表の、人間」
多くの影人に囲まれていたのは、真っ暗な裏世界の空の下でぼろぼろになって膝を着く一人の若い男だった。周囲の影人にやられたのか体中が傷だらけで荒い息を吐く男は、酷く鋭い視線で己を囲む影人を隙無く睨み付けている。影人の方も随分やり返されたらしく何体かは今にも消滅寸前まで追い込まれている。恐らく既に消滅した個体もあったのだろう。
「……待て」
僅かに怯えを見せながらも男に襲いかかろうとしている影人達に彼は待ったを掛けた。するとすぐにざっと影人達は指示に従い身を引いて、彼はそのまま男の前に向かう。
近付くに連れて彼の姿を認識した男は鋭い視線を更に凶悪なものに変えたが、彼は構わずに友好的な笑みを浮かべた。
男の顔の半分は真っ黒な闇に染め上げられ、裂けた服の隙間からも体に闇が侵食しているのが分かる。表の人間は裏世界で長く生きることなど出来ないが、この男は上手くこの環境に適応するように闇に染まったのだろう。
真っ黒な瞳に映っているのはどろどろとした黒い感情。すさまじい程の憎悪と執念を宿したその目を見れば、男が何故裏世界に適応できたのか一目瞭然だった。
表の人間でありながら、この男は“こちら側”の人間なのだ。
「はじめまして、表世界の人間」
「……お前は、何だ」
「この裏世界に生まれた自我を持つ最初の影人、ってところだな」
男は酷く胡乱な視線で彼を見上げる。しかし彼はそれを無視して「表世界の人間がどうして裏世界にいる?」と問いかけた。
「……」
「影人達に連れて来られたか? いつもならば浚ってもこちらの世界の中まで引きずり込む前に殺してしまうのだがな」
「……」
「聞いているのか?」
「……堕とされたんだよ、あの男に!」
男はぎり、と歯を噛みしめるとぼろぼろになった拳を黒い地面に叩き付けた。目の前で一気に吹き上がった憎悪の感情に、彼は無意識のうちに笑みを深くする。
「俺はあの世界に絶対に戻らなければならない……! こんな所で死んでたまるか!」
「ふうん……そうか。ならば」
どうやら他の人間に狭間から裏世界に堕とされたらしい。その怒りと執念を間近で目にした彼は少し考えるようにして、そして狡猾な表情を浮かべて憎しみに染まる男と目を合わせた。
「――取引をしようか、表の人間」
この男は使えるかもしれない。
表世界と裏世界は基本的に似ている。空は常に真っ暗、空気は表世界の人間では長く居られないほどに瘴気に塗れているものの、それ以外の景色は殆ど同じなのだ。建物や風景はまるで鏡写しのように反転した姿をしている。
彼は影人達を引かせると、あの後すぐに力尽きたように気絶した傷だらけの人間を自分の拠点としている場所へと運んだ。何の変哲も無い、広さだけが取り柄のがらんとした空間だ。
しばらく経ってゆっくりと目を覚ました男は現状を知るや否や、酷い怪我をしているのにも関わらず即座に飛び起きて警戒するように彼から距離を取った。
「起きたか」
「どういうつもりだ、貴様は」
「まあそう焦るな。お前……名前は?」
「……椎名、彰人」
「アキヒト、だな? お前の目的は表世界に帰ること、それでいいのか」
「そうだ」
「分かった。なら私が手を貸してやろう。影人達にはお前を襲わせないようにしてやるし、まともに動けるようになるまで此処で傷を癒やしていけ」
「……取引だと言った。何が望みだ」
「ただの楽観的な馬鹿じゃなくて安心した。私が望むのは――」
彼は歪んだ笑みを浮かべた。そして男が目覚めるまでに計画していたそれをきっぱりと告げてみせる。
「代わりに椎名彰人、貴様の影をもらおうか」
影人と魔法士との圧倒的な戦力差。そしてそれが今後より一層広がることは確定的なことだった。この現状を打開するにはどうすればいいか、彼はずっと考えていた。
そして出した結論は、内部から魔法士達を切り崩して行くことだった。つまりはスパイだ。こちら側の人間を魔法士達の中に潜ませて、彼らに接触するごとに少しずつ気取られないほどの小さな小さな闇を心へ植え付けていく。あとは勝手に闇が成長していくのを待つだけだ。
闇は人の心に淀みを感じ取ると自然に増大していく。そうして完全に心が闇に堕ちれば魔法士はこちらの手中に収まる。彼らをコントロールすることも可能になり、心の裏側が大きくなれば必然的に裏世界の影人も生まれやすくなる。
更に言ってしまえば、心の闇はじわじわと勝手に大きくなり不自然なく少しずつ人格を変えて行くため、他者による作為的なものだと気付かれることはまずないと言っていい。気付いた時にはもう手遅れなのだ。
彼はこの作戦を思いついた時、長期的な方法になるためすぐさま実行に移したかった。しかしそれが出来なかったのは要とも言えるスパイ役になる得る人材が居なかったからだ。影人は論外で、自身も体の構造は影人と同じような思念体だ。普通の人間に紛れることなど不可能と言ってよかった。
椎名彰人が堕ちて来たのはそんな頃だった。彼を見つけて、この作戦を実行出来る方法を思いついたのだ。
しかし彰人本人をスパイにするのではない。彼自身もそんなことには応じないだろうし、彼の目的から考えても表世界に戻れば後は好き勝手に動くことだろう。むしろ彰人には好き勝手に動いてもらい、その憎悪を表世界にまき散らして欲しいと思っていた。
だからこそ彼が考えた手は“裏世界に従順で表世界を破壊する意志を持つ人間を新たに作り出す”ということだった。
闇魔法によって影人の製造方法を研究していた際に偶然見つけた、影を使って闇魔法でクローン体を作る技術。彼は椎名彰人のクローン人間を作り上げ、その人間を表世界に送り込もうとしたのだ。自身の力を半分ほど分け与え、常にその人間を監視出来るようにした上で、だ。
「いいだろう」
彰人はあっさりと彼の提案に乗った。彼にとって自身の影があろうがなかろうがどうだっていい。地上に戻ることが出来ればそれでよかったのだ。
ならばと更にもう一つ、彼は彰人に取引内容を追加した。表に戻った後にクローン体の戸籍を作ることだ。椎名彰人の息子としての、戸籍を。
スパイを送り込もうと目論んでいる機関、藤月学園は入学した生徒の魔法士としての血縁関係を把握したがるだろう。影人を倒した時点で彼が魔法士であると把握していたので、彼の子供ということであれば、学園は何の疑いもなく魔法士を集める為にクローン人間を生徒として迎え入れる。それが遅効性の毒だとも知らずに。
「――完成した」
そして彰人の影から、彼のクローン人間が生まれた。小さな小さな赤ん坊であるそれを見て、男は下手な笑いを浮かべた。
こんな子供が、表世界を裏返す大きな一手となるのだ。
「お前の名前は御影、椎名御影だ……私の、大事な大事な操り人形」




