40話 “椎名御影”とは
時音が気が付いた時、その視界の全ては真っ色に塗り上げられていた。
「何、これ……」
一切の音が聞こえない孤独な静寂。そんな中でぽつりと一人取り残されていた彼女は思わず怯えるように小さく呟いた。しかしその声さえもすぐさま闇の中に吸い込まれ、本当に声が出ていたかさえよく分からなかった。
「皆どこに居るの!」
立ち上がって叫んでも同じだ。辺りに手を伸ばしても何に触れることもなく、まるで真っ暗な箱の中に一人だけ閉じ込められているかのよう。
誰も居ない、何も見えない、聞こえない。そんな異常な状況に気が可笑しくなりそうで、時音は耳鳴りがする両耳を手で押さえて蹲った。
「誰か……」
“誰も来るはずなんてない”
「っ!」
“誰にも必要とされていない自分を誰かが助けてくれるはずがない”
声が、聞こえた。
けれど時音はそれを聞かぬように更に強く耳を押さえた。が、その声はまったく小さくなることはない。無情な言葉を告げるその声は外ではなく、自分の内側から聞こえて来た声だったのだから。
時音自身と同じ声が、更に淡々と言葉を紡ぐ。
“さっきだって、華凛の言葉がなかったら誰も信じてはくれなかった”
「……」
“私のことなんて皆本当はどうでもいいと思ってる”
「やめて……」
“あれだけ傍に居ても怜二だって見向きもしてくれない。誰かに求められることなんて一生ありはしない”
「やめて!」
内から次々と聞こえて来る真っ暗な声を掻き消すように、時音は頭を振り乱して叫んだ。
「煩い煩い煩い! 黙れ! 私は」
“叫んだところで誰が手を伸ばしてくれるの?”
「黙れ!」
絶望の声は、今度はまるで耳元で囁くように柔らかな声を出した。憐れむように、蔑むように静かに時音の琴線に指を伸ばして来る。
“怖いよね。誰にも選ばれないのは”
「……やだ」
“結局私は、誰にも愛されな――”
「嫌!」
「光の矢っ!」
その先を聞くのを拒んで時音が枯れた喉で叫んだ瞬間、全ての闇を切り裂くようなその声が彼女の鼓膜を打った。
「……あ」
ぼんやりと目の前の闇が薄れていく。まだ薄暗いが、それでも周囲の様子を見ることが出来た。
場所はちっとも変わっていない。気がついたら地面に倒れていた時音が僅かに顔を上げると、そこは意識が途切れる直前まで居た校内だった。周囲には時音と同じく詠達が倒れており、同様に意識を取り戻したのかほんの少し頭が動いた。
そして時音達とは違い倒れずに居たのは三人。大きく顔を歪めた御影と、そして苦しげに息を吐きながらも何とか倒れずに膝を着いた亜佑、そして立ち上がって強く御影を睨み付ける怜二だった。
「貴様っ、何故闇に堕ちない!」
「闇? そんなもん知るか! もう一度食らえ!」
光の矢、と怜二が鋭く叫ぶと薄闇で一層強い光を放つ三つの光が御影に向かった。しかし彼はその内の二つを身をよじって躱し、残りの一筋の光を体に纏った闇で掻き消した。
ぎり、と強く歯ぎしりをして御影が怜二をにらみ返す。
「さんざん劣等感を刺激してやって、おまけに惚れた女まで奪ってやったって言うのに……本当に光はどこまでも厄介なやつだ。何故そこまで己の心に屈しない?」
「劣等感? ……はっ、馬鹿にするな。今更そんなことで折れるような柔な心なんざ持ってねえんだよ!」
苛立たしげに問いかけた御影に、怜二は鼻で笑って叫んだ。
昔から嫌になるほど劣等感なんて抱いてきた。さんざん挫折して来た。だがそれでも怜二は何度も何度も立ち上がり、そして挑み続けて来た。
怜二は何事にも一切動揺しないような心の強さはないが、どんなに打ちひしがれても、どれだけくじけそうになっても何度だってそれをバネにして立ち上がる不屈の闘志を抱えていた。だからこそ、怜二はこの場の誰よりもメンタル面で強いと言ってよかった。いくら闇を植え付けられても決して屈しない程には。
「少なくとも、椎名! 俺はお前が大嫌いだ! だから貴様の思惑通りに動くなんて真っ平御免なんだよ!」
びし、と突き刺すように御影を指差してそう叫んだ怜二に一瞬その場がしん、と静まりかえる。
「……ふ、」
僅かに俯いた御影の体が震え、そしてややあって彼は――顔を上げて、笑い声を上げた。
「ふっ、はは! 怜二! お前ホントにおもしれーやつだな! こんな緊迫した状況でそんな好き嫌いで判断するとか!」
「し、椎名、君……?」
腹を抱えてからからと笑い続ける御影はまるでいつもの彼のようだ。唯一何とか言葉を発する気力があった亜佑が困惑して彼の名前を呼ぶと、その瞬間御影は笑いを止めて困ったような顔をした。
「皆……ごめん、ごめん……な」
「椎名、お前」
「……怜二、光だ。闇と光は相殺出来る。だから――っ!」
“御影お前、操り人形の分際で私の邪魔をする気か!”
何かを訴えようとしていた御影の体が、突如くの字に折り曲がったかと思うと周囲を漂っていた闇が彼を押さえつけるようにぐるりと体に巻き付いた。
そしてそれと同時に、すぐ近くから男とも女とも取れない怒鳴り声がその場に響き渡ったのだ。
「く、う、ああああああっ!!」
「椎名君!」
“御影、早く私に体を返せ”
「嫌、に、決まってる……!」
両膝を着いた御影がぜえぜえと苦しげに己の体を抱きしめる。拘束するように、きつく腕を握りしめる。
「体の、中に、残ってる闇を、光で打ち消せば……皆、元に戻る。だから、早く……く、ああああああ!」
再び御影が堪えきれずに悲鳴を上げる。周囲の闇がそれに呼応するようにうねり暴れるのを見た怜二は無意識にそれを恐れてか一歩後ずさる。
「い、癒やしの――」
「させるか」
それでも今し方御影が残した言葉を頭の中で理解して、目の前の強い闇に負けないように怜二が声を張り上げようとする。しかしその直後、突然御影に纏わり付いていた闇が鋭く怜二に矛先を変えて迫り、彼の首をぐるりと締め上げたのだ。
「二階堂君!」
それを見た亜佑が喉を枯らして叫び、彼を助けようと今にも倒れそうな体に力を込める。が、それを横目に見た御影――再び意識を奪い返した彼は即座に鞭のように闇をしならせて彼女を地面に叩き付けた。
「く、あ……」
「光など使わせない。やはり光は怪しまれてでもさっさと命を奪うべきだったか」
「……っ!」
息が出来ない怜二が、体を吊り上げられて足が空を切る。何度も何度も嬲るように体に闇の鞭を叩き付けられた亜佑の体から血が吹き出る。
そして倒れながらその地獄のような光景を見ていることしかできなかった時音達は、声にならない声で叫び、心の中で必死に誰かに助けを求めた。
しかしこんな状況ですら、“自分では何もできない役立たず”と彼女の心に潜む闇が囁く。大切な人達が殺されそうになっているのに何も出来ない自分に、罪悪感で押し潰されて完全に心が壊れてしまいそうになった。
「止めろ!!」
誰もがろくに声を上げられない状況で、怒りと焦りに満ちた老人の声が聞こえたのはそんな時だった。
既に日は完全に落ちて空は闇に包まれていた。そんな中で突如御影が操る闇に、一瞬にして同時に大量の風穴が空いた。
「な」
何が起こったのか分からぬうちに強度を失った闇が霧散していく。亜佑を叩き付け、怜二の首を絞めていた闇も、同様に力を無くして消えていく。
解放された二人が力なく倒れ込むと、すぐさま彼らを庇うように一人の老人が御影の目の前に両手を広げて立ちはだかった。
「無事か!?」
「がく、えんちょう……」
突如現れた老人、月野は倒れ伏す彼らを振り返り酷く苦い顔をした。ぎりぎり間に合ったとは言え、けれども遅かった。傷付けられた亜佑達を見て爪が食い込むほど拳に力を入れると、彼は鋭い形相で御影を睨み付けた。
「貴様、どうしてここに。それに何故光でも無い癖に平然と立って居られる!?」
そして御影は同じく月野を睨み、何故、と声を上げる。先ほど学園中を闇で覆ったというのに何故平気な顔をしているのか。
「……先ほど、伊波先生から緊急連絡が入った。ただでさえ高い椎名君の魔法力があり得ない程に増大しているとね。」
「光め……いつの間に」
「もしや魔法力が何らかの理由で暴走しているのかと思い魔法力を吸収する機械を持ってここへ来た。……運が良かったとしか言いようがない」
先ほど御影が学園全体の闇を強めたその時、月野は一瞬にして大きな闇に呑まれそうになった。しかし咄嗟に手にしていた魔法装置で闇属性の魔法力を吸収して事なきを得たのだ。
しかしあまりにも吸収した量が多かったのかすぐに魔法装置は壊れてしまった。だからこそ今この場にいる時音達の闇を吸い取ってやることはできない。
「――癒やしの、光!」
この場で現状を打開出来るのは、学園長に意識が向いた瞬間を狙って全力で光魔法を使った怜二だけだった。
「な」
隙を突いて放たれた魔法は真っ先に亜佑に向かった。体中の酷い怪我を多少はましにして、そして心を蝕んでいた闇は完全に取り除かれる。そして即座に立ち上がった亜佑は倒れ伏す時音達全員に向かって光を放った。
「浄化!」
「させな――」
「それはこちらの台詞だ!」
亜佑を止めようと御影が再び闇の鞭を振りかぶる。しかしそれは彼女に届く前に月野の風魔法によって即座に弾かれ、そしてその場に光が宿った。
癒やしも攻撃性も一切ない純粋な光の魔法力が全員の体に降り注ぐ。暗闇を一瞬明るく照らしたそれが止むと、時音達は先ほどの苦しみは一体なんだったのかと思うほど体も心も軽くなったのが分かった。
時音達がふらりと立ち上がると月野はほっとしたような表情を浮かべ、再度忌々しげに顔を歪める御影に向き直る。
「お前は何者だ。椎名君では……そもそも、人間の魔法力ではないな」
「……」
「もしや、影人、なのか」
「――ご明察」
周囲にうねる闇を、そして人間とは思えない魔法力を見て亜佑と同じ結論に至った月野に、御影は挑発するように僅かに唇の端を吊り上げた。
意志を持つ、言葉を解する影人など見たこともなければ聞いたことも無い。月野は警戒しながらも、今までずっと影人達に問いかけたかった質問を投げかけた。
「何故こんなことを、影人は人間を襲う? お前らの目的は一体なんだ」
「……人間は、やはりまだそんなことすら理解していないのか」
す、と御影の挑発めいた表情が無に戻る。呆れと憎しみを乗せた声でそう言った彼は一歩月野に向かって踏み出し、そして片手を自身の目の前に持ち上げた。
「だが、目的ぐらい教えてやろう。簡単なことだ」
御影は目の前の手の平を、くるりと返した。
「表世界を、裏返す」
「裏返す……だと」
「表は裏に、裏は表に。表世界に闇を撒き散らし、そして破壊する。これが我々の目的であり使命だ」
「何を馬鹿なことを……!」
「馬鹿? それは果たしてどちらのことだろうな。私達は当然のことをしているだけだ」
「当然……?」
何も後ろめたいことがないとでも言いたげな御影の発言。その真意を理解できずに眉を顰めた月野は軽く首を振ってとにかく優先すべきことを告げた。
「今すぐ椎名君の体から出て行け」
「断る。そもそもこれは私が作った人形だ。どうするかは私が決める」
「人形? 何を言っている、椎名君は人間だ!」
入学前の健康診断でもごく普通の人間で可笑しな点は見られなかった。ましてや影人であるはずがない。
月野が断言すると、御影は「それはそうだろう」とどこか可笑しそうに小さく笑い声を漏らした。
「こいつは人間。だが私が作り上げた、歴とした裏世界の人間だ」
「……どういうことだ」
御影が大仰な動きで肩を竦める。そして胸にとん、と片手を当てた彼は本物の彼を紹介するように「この男は」と親指で自身の体に向けた。
「“椎名御影”はこの世界を破壊する為だけに作った操り人形。偶然裏世界に落ちてきた人間の影から生まれた――クローン人間だ」