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32話 特別

 自宅にて一週間の休みを過ごした時音は、翌週に二階堂の三兄弟と共に藤月学園へと舞い戻って来ていた。

 別にこのタイミングで戻るのは時音と潤一だけでよかった。しかし家にいると色々と煩く言われるから、と怜二も一緒に着いて来たことで、ならばまた一人だけ送るのも面倒だと三葉まで両親に家から放り出されて来たのである。殆どの荷物を寮に置いてきた時音とは違い、一ヶ月家へ戻っていた怜二達の荷物は重いので、必然的に少し離れた駅まで車を出さなければいけないのだ。


 そして電車に乗って長い時間を掛けてようやく学園へと戻った。最寄り駅から重たい荷物を抱えてきた怜二は真夏の熱気にやられて苛々しているようだった。



「時音、怜二、久しぶりだな!」

「俺に近づくな!」



 そしてそんな機嫌の悪いタイミングで、更に畳み掛けるように騒々しい声が聞こえてくる。 笑顔で時音達に近付いてきた御影の顔を見た怜二は戻ってきて早々に切れて、開口一番に大きな声で怒鳴りつけた。



「何だよ冷たいなあー」

「黙れ……」



 頭の後ろで両手を組みながら呑気に告げる御影に、怜二はギッと酷く鋭い視線を向けて睨み付けた。



「……負けねえ」



 夏休み前に接していた時よりも遙かに剣呑な雰囲気に側にいた時音が困惑していると、彼は低い声で威嚇するようにそれだけ言い残し、そしてすぐに寮の方へと早足で去って行った



「時音、あいつどーしたんだ? なんかいつもよりも怒ってるけど」

「……」



 時音は御影の言葉に答えることもせず、どんどん小さくなっていく怜二の背中を見つめていた。


 暑さや疲れの所為で元から多少苛ついていたのは分かっていたし、御影と顔を合わせるといつも少し機嫌が悪くなるのも知っていた。

 が、今の彼の苛立ちの大元はそれではないのだろう。負けない、とそう御影に宣言したのを聞いた時音は、幼馴染みの彼が何を考えていたのか嫌でも分かってしまった。


 何しろ、怜二と御影が顔を合わせるの夏休み初日――御影が華凛に告白した以来なのだから。













「……暇だ」



 翌日、時音は寮の部屋から外に出てふらふらと学園内を歩いていた。暇だ。暇過ぎるのである。

 課題は全て片付けてあって、しかし戻って来て早々に予習をしたいと思うような勤勉な性格でもない。詠達が帰って来るのは一週間後で、それまで何をして過ごそうかと頭を悩ませていた。外に出られないのが一番のストレスだ。

 おまけに怜二に連絡してみたものの全く反応もない。ひとまず涼しい図書館で雑誌でも読もうかと館内に足を踏み入れると、すぐに図書館独特の本の匂いが全身を包み込んだ。



「あれ……」



 雑誌コーナーへ向かうべく心地のよい静寂の中を歩いていると、殆ど人気のないこの場所で見知った人物の後ろ姿を見つけた。



「伊波先生?」

「!? す、周防さん!」



 時音が声を掛けると、途端にびくりと大きく肩を揺らして彼女は振り返った。酷く慌てた様子のその人、亜佑は急いで手に持っていたものを隠すように両手を背中に回して誤魔化すようにぎこちない笑みを浮かべる。



「先生も何か読みに来たんですか?」

「ちょ、ちょっと、ね? 授業で必要な資料があって」

「え?」



 この場所に授業で必要なものがあるのかと時音は首を傾げた。何しろ亜佑が本を開いていたのは時音の目的地でもある雑誌コーナーで、更に細かく言えば亜佑が立っている後ろの棚には料理雑誌の集まっている。

 やけに必死な様子の副担任に、時音は突っ込みを入れるべきかと少しだけ迷った後に結局口を開いてしまった。



「先生、料理の勉強ですか?」

「な……何を言って」

「それ、見えてます」



 そしてもっと言ってしまえば、背中に隠している雑誌が微妙に隠しきれずに表紙の美味しそうな料理の写真が見えてしまっていた。

 時音がそれを指差してみせると亜佑は恐る恐る背後を振り返り、そして羞恥で頬を紅潮させて捲し立てるように声を上げた。



「い、いや……あのね、先生も少しは料理を覚えようと思って。ここのご飯は勿論美味しいけど、自炊も出来た方が何かといいし……決して食堂で色々言われた訳じゃないのよ!?」

「先生って隠す気ないですよね……」



 時音もまた呆れた表情を隠すことが出来なかった。恐らく食堂のおばちゃんに時音と同じようなことを言われたのだろう。



「二階堂先生の胃袋掴みたいんですね。大丈夫です、分かってますから」

「あ、あのねえ周防さん……いえ、もういいわ」



 がっくりと肩を落とした亜佑は観念したように隠していた雑誌を体の前に持ってくる。タイトルは『初心者でも絶対に失敗しない! 簡単レシピ』である。



「周防さんは課題?」

「いえ、それは終わってます。だからちょっと暇で。まだ他の子も戻って来てないので……」

「あ、そうよね。……あれ、でもさっき二階堂君と職員室の近くですれ違ったけど」

「怜二に? さっき連絡しても返って来なかったのに。どこ行くとか言ってました?」

「さあ……あ、でも何かの楽器ケースみたいなものは持ってたわ。二階堂君って何か出来るの?」

「バイオリンなら弾きますけど……じゃあ音楽室かな」



 バイオリンなんて嫌いだと公言している怜二だが、わざわざ自宅から持ってきたということは弾く気はあったのだろう。



「先生、ありがとうございます」



 場所が分かれば時音が図書館に居る必要もない。時音は亜佑に頭を下げると踵を返して図書館を出て行こうとして、しかし一度立ち止まって亜佑を振り返った。



「先生、お礼にひとつ」

「?」

「二階堂先生の大好物は、お好み焼きです」

「ちょ、周防さ」

「頑張って練習してくださいね!」



 言うだけ言って、時音は急ぎ足で図書館を出て行った。











 主な教室が集まる本校舎。その中の三階にある音楽室の前に来た時音は音を立てないようにしてそっと重厚な扉を開けた。防音設備のしっかり備わったその教室の扉を少し開くと、途端に今までは聞こえなかった弦楽器の音色が耳に入ってくる。

 扉を半分ほど開くと、教室の置くで一人椅子に腰掛けて楽譜に向かっている少年の横顔が見えた。



「……」



 真剣に楽譜を睨んでバイオリンを奏でる怜二を見て、時音は邪魔をしないように静かに音楽室へと入る。そのまま音を立てないように扉を閉めて、立ったままバイオリンの音に聞き入った。昔から、それこそ彼がバイオリンを始めた当初からずっと聞き続けて来た音色に耳を傾ける。


 流れるような旋律を楽しんでいればあっという間に曲は終わってしまう。バイオリンを下ろした怜二を見た時音は、ついつい癖でその場で拍手をしてしまった。

 そして誰も居ないと思っていた空間に突然響いた拍手の音に、怜二は酷く驚いた様子でがばりと勢いよく扉を振り返った。



「誰だ! ……って、時音、お前いつの間に」

「ちょっと前から。伊波先生が、怜二が楽器ケース持ってたって言ってたからここだと思って。それ、持って来てたんだね」



 時音が扉から離れて怜二の元へと近付く。三葉とのいざこざによって怜二は殆どバイオリンを弾かなくなったが、しかし決して本心では嫌いになり切れないのだろう。無心になって旋律を奏でていた先ほどの姿を見ればそれがすぐに分かった。



「ねえ、邪魔しないから聞いててもいい?」

「つまんねーぞ」

「そんなことないよ」

「……なら、好きにしろ」



 怜二はそう言うとすぐに時音を無視するように再び譜面に向き合い始める。時音は彼の邪魔にならないように、視界に入らない背後に回って椅子に腰掛けた。



「……」



 背中合わせになりながら再び奏でられるバイオリンの音を聞く。

 やはり時音はこの音が大好きだ。音楽は詳しくないし、チューニングがずれていたって気付かないが、他の人間の弾く音と怜二が弾く音だけは聞き分けられる自信があった。時間を正確に計るのと同じくらい、時音の中では絶対的な自信が。



「怜二、ちょっと音走ってる」

「……」



 だがメトロノームの代わりは時音の得意分野だ。

 一度音が止んだタイミングで時音が指摘すると無言で弾き直され、かと思えば次のフレーズに入ると今度は遅くなった。意識してリズムを取るように奏でられる音は何度も同じ場所を繰り返しており、恐らく苦手なフレーズなのだろうと時音にも分かった。

 再び音が止む。そしてぱらぱらと楽譜が捲られる音がした。



「怜二がこんな風にバイオリン弾けるって、皆が知ったらきっと驚くだろうね」

「誰にも言うなよ」

「さっき伊波先生には言っちゃった。……知られたくなかった? ごめん」

「……少なくとも、あいつにだけは絶対に言うな」



 あいつ、という言葉に即座に時音の脳内に思い浮かんだ人物は、恐らく怜二が指している人間と同じだろう。


『へー怜二ってバイオリン弾けるんだな、すげー! なあなあ、聞かせろって!』


 知ればそんなことを口にするであろう御影の姿が容易く頭に過ぎった。夏休み前以上に、今の彼は御影に話しかけられることを嫌がっている。





「……ねえ、怜二」

「何だ?」

「怜二は、華凛のことが好きなんだよね」



 かたん、と床にバイオリンの弓が音を立てて落ちた。



「な――」



 続いて椅子を倒さんばかりの勢いで怜二が立ち上がると、彼は酷く狼狽した様子で時音を振り返り、自分の背を向けたままの彼女の背中を凝視した。



「い、いきなりなんだよ!?」

「違うの?」

「それは……」



 怒鳴り声を詰まらせて怜二が口籠もった。普段からはっきりとした物言いの彼がこんな風に言葉を濁すのは決まって“好きな女の子”が絡んでいる時だと、時音は昔から知っていた。

 嫌という程に。



「……そうだ」

「そっか」



 数秒の沈黙の後に怜二が肯定すると、時音は未だに彼に背を向けたままくすっと笑って見せた。



「華凛、可愛くて優しいもんね。前に怜二がアンケートに書いてたの、そのまま」

「はあ!? あれ勝手に見たのかよお前!」

「ごめんごめん、でも見たらすぐに華凛のことだって分かったよ」



 怜二を揶揄うように軽く明るい口調でなんてことないようにそう口にする。

 わざわざ自分が傷付くような言葉を言って、あえて自分を追い込んで。



「じゃあお前は何て書いたんだよ」

「……秘密」

「おい」

「言ったって怜二は興味ないでしょ。私の好きな人なんて」

「いや、そうでもない。お前抜けてるから変なやつに引っかかりそうだし」

「……そうだね」



 本当に、厄介な男に引っかかってしまった。こんなに近くに居るのにちっとも届かない、決して報われない気持ちをずっと引きずっている。

 けれど、時音自身にはどうしようもないのだ。こんな苦しい状況を、変えたいとも思わない。



「時音、お前……また泣いてんのか?」

「はあ? 泣いてなんかないし」

「少なくとも泣きそうにはなってんだろうが。帰って来て早々にホームシックか?」



 顔も見えていないのに確信めいた声で怜二は言う。その推理が少し的外れなのに苦笑しながら「そうかもしれない」と時音は誤魔化すようにそれに乗った。



「ねえ、また何か弾いて。私が好きなやつ」

「ったく、しょうがないやつだな」



 時音が頼むと、怜二はぶつぶつと文句を付けながらもバイオリンを構えて一呼吸の後に楽譜も見ずに伸びやかな音を奏で始める。そして背中から聞こえて来るその音に耳を傾けながら、時音は椅子の上で膝を抱えるようにして顔を隠すように俯いた。


 彼のバイオリンを聞けるのは時音だけの特権だ。華凛だって知らない、時音だけのために奏でられる音。

 時音は、怜二にとって自分が特別な存在であることを自覚している。けれどそれでも……違うのだ。



 泣いていないと言った側から零れ落ちた涙を膝に押しつけて、時音は決して伝えられない本心を心の中で悲鳴のように叫んだ。




 ――欲しいのは、その特別じゃない。



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