30話 帰省
「何かすごく久しぶりです」
「ああ、そうだろうね」
数ヶ月振りに踏みしめた駅のホームで、時音は感慨深い気持ちになりながら周囲を見回した。
とうとうお盆の時期になり潤一も休暇に入ったので、時音は彼と共に実家へ帰省することになったのだ。学園長へ掛け合い、その間は潤一が時音の護衛をするという条件付きだが。
「でも潤一さん、ごめんなさい。折角の休みなのに私の所為で」
「別に気にしなくていいよ、時音ちゃんを守りたいのは私の意志だからね。それに過信する訳ではないがそのブレスレットもある」
潤一の視線の先を辿るようにして、時音は自分の左手首にある細いベルト状のブレスレットに目をやった。緊急時に付けられているボタンを引っ張ると即座に潤一へSOSの連絡が行くようになっているのだ。
「それから、私から一定の距離が離れるとまた同じように分かるようになっているからそれだけは気をつけてくれ」
「一定ってどれくらいですか?」
「大体市外に出たら、ってとこかな。窮屈で悪いね」
「そんなことないです!」
時音がぶんぶんと大きく首を横に振る。むしろ彼の自由を制限してしまったのは時音の方である。
出来るだけ家で大人しくしていようと心に誓った彼女が改札を通り抜けて駅の外へ出ると、むっとした熱気と共に眩しい日差しを浴びて思わずくらりと目眩がするような気分になった。
「時音!」
眩しさに目を細めていた時音を誰かの声が呼ぶ。いや、誰かなど言うまでもなかった。
「お父さんお母さん、ただいま!」
駅のロータリーに停められた見慣れた車の側に両親を見つけた時音はすぐに彼らに向かって駆け寄った。喜びが隠しきれないように自然と口元が緩み、息を切らしながら家族に合流する。
そして隣から急いで離れていく時音に、潤一は彼女の背中を眺めながらとても微笑ましげに表情を緩ませていた。
周防家の車に乗った時音は見るからにはしゃいだ様子で潤一と共に後部座席に乗り込んだ。
「潤一君、時音が世話になって」
「いえいえ、時音ちゃんはとてもいい生徒ですよ」
「ちょっと、潤一さん」
自宅へと走る車内で交わされる言葉に、時音は少し気恥ずかしくなりながら潤一の服の袖を引いた。近所のお兄さんではなく担任の教師として両親と話されるとどうにも居心地が悪い。
「そういえば、戻って来るまでにちゃんと宿題もやってたの? また溜め込んで遊んでなかった?」
「大丈夫! なんと全部終わらせて来たんだから!」
時音は自慢げに胸を張った。普段は母の言う通り後々に回しがちであったが、今年は計画通りやれという怜二の言伝と、そして出掛けられもせず本当に暇だった所為で全ての課題を終えてしまった。苦労したレポートも昨日のうちに全て仕上げられているので本当に清々しい気持ちで帰って来ている。
「全部? ホントに? だって部活とか文化祭の実行委員とかもやって忙しかったんでしょ? あんた頑張ってるわね」
「え……ま、まあ、ね? ははは……」
「学校生活が充実しているようでよかった。私達も安心したよ」
感嘆する両親に時音は忙しなく目を泳がせながらも曖昧に頷き、そして無意識のうちに潤一とアイコンタクトを取っていた。
予め電話で母に話していたことは基本的に嘘である。部活にも入ってはいない上、そもそも後に行われる文化祭の実行委員などクラス内でも決まってすらいない。それは時音が寮に残る為に潤一と考えた言い訳であった。
「あ、そうだ時音」
外を流れる景色がどんどん自宅に近付いて来るのを眺めていると不意に思い出したように唐突に名前を呼ばれる。
「何?」
「このタイミングで帰って来たってことは今年もお祭り行くでしょ?」
「え……」
「ちゃんと浴衣も出しておいたからね」
「こ、今年は……ちょっと行くの止めておこうかな」
「ん? 何で?」
「いやその、久しぶりの家だしのんびりしたいなって」
毎年お盆になると家の近くで夏祭りが行われる。屋台も多く出店しこの辺りの人間は軒並み訪れる割と大きな祭だ。時音もこれまでは毎年参加している。
しかし今年は、と時音は苦く笑った。祭りなんてたくさんの人混みの中では何が起こるか分からない。本音では勿論行きたかったが、これ以上潤一に迷惑を掛ける訳にはいかない。ただでさえせっかくの休暇を自分の護衛の所為で潰しているのだ。極力家で大人しくしているつもりだった。
「……」
車が周防家の駐車場へと滑り込む。そんな中、潤一は少し考えるようにして時音の横顔を窺っていた。
「おい、時音。夏祭り行くぞ」
「は?」
数日後の夕方、予定通り家の中で大人しくしていた時音を突然訪問して来たのは怜二だった。
「だから祭りだ。さっさと準備しろ」
彼はそう言うとずかずかと家に上がり込んで来る。「ちょっと」と時音が止めようとするものの、怜二はそのまま平然と周防家のリビングに入っていった。
「あれ、怜二君じゃない。どうしたの?」
「時音の準備が出来るまで待たせてもらいます」
「何だ、結局お祭り行くんじゃないの。ほら時音、早く準備しなさい」
「ええ……?」
「怜二君を待たせるんじゃないの」
いきなりの展開に呆然としていた時音を母がぐいぐいと浴衣と共に部屋へ押し込んでくる。
そのままぴしゃりと閉められた扉と押しつけられた浴衣を手に、時音は酷く困惑した表情のままのろのろと手を動かして着替え始めた。
「お、お待たせしました……」
「遅い」
時音がリビングへ戻ると開口一番に怜二の不機嫌な声が飛んできた。ちなみに彼はソファで人の家とは思えないほどゆったりと寛いでいる。まあ正直今更な話ではある。母もまったく気に留めずにキッチンで夕飯を作っている。
怜二は寝転んでいた体を起こすと扉の側に立っていた時音をちらりと確認するように眺めた。
母が用意した浴衣は白地に朱色の小さな金魚がいくつも泳ぐシンプルなデザインだ。髪も急いで纏め上げていつもよりもすっきりとしている。
「ど、どうかな……?」
「ふうん、別にいいんじゃねえの」
淡泊な返答に、時音はどう反応していいのか一瞬迷い、結局小さく頷くだけにした。
この場合の彼の”いい”という言葉が、似合っているだとか可愛いだとかそんな意味で用いられていないことを時音は知っている。客観的にチェックしてしっかり着付けや髪のセットが出来ているかどうかという判断をしているに過ぎないのである。
具体的に言葉にせずとも意味を分かってしまうそれが、少し嬉しいようで本当は辛い。
「……華凛だったら照れまくってる癖に」
「何か言ったか?」
「何でも無い!」
「何だよ? ……まあいい、さっさと行くぞ」
時音がぼそりと呟いた言葉は聞き取れなかったらしい怜二は、首を傾げながらもすぐに切り替えて彼女の手首を掴んで――勿論そこには潤一との約束のブレスレットが着けられている――引っ張るように家から連れ出した。
「ねえ怜二、何で」
「何でって、何がだ」
「お祭りだって! 私がそんな場所に行ったら潤一さんにも迷惑が」
「いいから来い」
「でも」
「あいつが言ったんだよ」
「え?」
周防家と二階堂家の中間で足を止めた怜二が時音を振り返る。
「兄貴の方が祭りに行きたがってんだよ。だから嫌だろうが護衛されているお前はそれに付き合う義務がある。分かるな」
「……何それ」
時音はぽかんと口を開けて歩みを再開した怜二の背中を見つめる。何しろそれは、考えるまでもなく潤一が時音に気を遣ってくれたと決まっているというのに。
彼女がそれを指摘するか悩んでいるうちにすぐに二階堂家に到着する。そのまま家の中まで上がり込んでリビングへ行くと、そこには潤一と三葉が二人を待っていた。
「ああ、来たか」
「こいつの準備が遅かったんだよ」
「こんにちは……」
時音は切り出す言葉に悩んでうろうろと視線を彷徨わせる。と、ちょうど時音を見ていた三葉と視線が交わった。
何故か酷く驚いた様子で時音を凝視していた三葉は、彼女と目が合うとあからさまに動揺して勢いよく時音から顔を背けた。
「……三葉君どうしたの?」
「いえ、別に……そ、そういえば浴衣なんですね……」
「うん、お母さんが用意してくれたから」
「……」
再びちらりと時音を一瞥した視線はまたすぐに逸らされる。本当に自分が気がつかないうちに何かしてしまったのだろうかと時音が首を傾げていると、それを見ていた潤一が小さく笑った。
「時音ちゃん、よく似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます」
最も聞きたかった人からではないが勿論嬉しい。時音が表情を緩くして自分の浴衣を見下ろしている間に、三葉は少しむっとした様子で潤一を睨んでいた。
「あの、それで祭りって……」
「ああ。この前車の中で周防さん達が話していただろ? それを聞いてたらたまには行きたくなってしまってね。でも護衛としてはあまり離れる訳にはいかなし、時音ちゃんも悪いが付き合ってくれないかな」
何の裏もありません、と言いたげにさらりと潤一はそう告げた。その言葉に、今し方まで追及するか迷っていた時音もその心を決める。
「喜んでお供しますよ」
「そうか、ありがとう」
時音が笑ってみせると、潤一もまたそんな彼女を満足げに見て笑みを浮かべた。