25話 幼馴染ですから
「皆ー、俺を助けてくれー」
御影の情けない声が教室の中にこだまする。ぱたりと机に突っ伏した彼を他の五人は大体呆れたような顔をしながら眺めていた。
まもなく藤月学園でもテストが始まる。そのため時音達六人は授業後に集まり机をくっつけて勉強会を行うことになったのだ。しかし初っ端から成績が底辺に位置する御影がこの有様で、先が思いやられると時音は肩肘を付いて教科書を開いた。
「だ、大丈夫だって。椎名君も頑張ればきっと成績上がるよ!」
唯一の良心である華凛だけは御影に呆れることなく、根気強く彼を励ます。するとゆっくりと頭を上げた御影が華凛と目を合わせて「……そうだよな!」といつもの元気を取り戻したようににかっと笑った。
「ここには学年一位と二位がいるしな。二人とも頼りにしてるぞ!」
「それは俺への嫌みか貴様っ!」
二位という言葉に過剰反応して怜二が怒鳴る。ちなみに成績は甲斐と怜二がトップクラス、そして華凛がやや上位、時音と詠が全体の中間ほど、と言った具合である。
「それにしても……魔法とかの教科はホントに分からない……」
ようやく始まった勉強会だが、時音は『魔法・世界理論』の教科書を開いて眉間に皺を寄せてしまっていた。一般的な数学や化学も苦手だが、時音にとっては高校から新たに学び始めた教科もかなりの難所となっていた。知識的なこともさることながら、実技のテストは一体どんな風に行われるかすらも分かっていないのである。
「ねえ甲斐、ここって何?」
「ああ、これはだな――」
未知の世界に頭が痛くなった時音が教科を数学に変えていると、彼女の正面にいる詠が隣の甲斐にノートを見せて質問をしていた。甲斐の両側には詠と御影がおり、ほとんどの時間を御影の勉強に費やしている。学年一位は忙しそうだ。
「二階堂君、この問題って分かる?」
そして甲斐達に向き合うように座る残りの三人は、怜二を真ん中にして両側に時音と華凛がいる。怜二を挟んで時音の向こう側にいる華凛が参考書を寄せると、怜二はびくっと肩を揺らして動揺を露わにした。
「あ、ああ。この問題は……」
僅かに顔を紅潮させながらも丁寧に説明を始める怜二。その様子を見ていた時音はつい眉を顰めてしまい、気付かれないようにそっと教科書を顔の前に立ててそれを隠した。
「……あ、そっか。ありがとう。二階堂君って教えるの上手いね」
「そ、そうか?」
「うん、すごく分かりやすかった」
華凛に頼られて気を良くした怜二が照れたように頬を掻く。
普段から怒りっぽい所はあるが、意外にも怜二は人に勉強を教えるのが上手い。彼自身がぱっと理解してしまう天才型ではなく、分からない問題に何度も躓いて地道に理解を重ねて来たからだ。理解しにくい箇所を知っているからこそ、解説も丁寧で分かりやすい。
しかし普段の嫉妬深く誰にでも噛み付く彼の性格から、中学までその恩恵を受けていたのは時音だけだった。
「……」
「なんだ、お前も分からない所あるのか」
教科書ごしに見られていたことに気付いた怜二が華凛から視線を外して時音を振り返る。
「……うん」
「見せてみろ。どうせこの前やった二次関数の辺りだろ」
「すごい、正解」
「当然だ」
はっ、と鼻で笑うようにして口角を上げた彼に、時音は緩みかけた口元を引き締めて教科書を広げた。当然と言ってしまうくらい理解されているということに喜びを覚える。
しかしそれでも、先程から感じる僅かな心の淀みは残り続けたままだった。
「私、ちょっと飲み物買ってくるね」
怜二から分からない問題の解説を聞いた後、時音はそう言って一人教室から廊下へと出た。とぼとぼと歩き出すその足取りは決して軽いものではない。
とっくに授業も終わり部活もテスト期間で無い今、校舎の中は随分と静まりかえっている。図書館や寮で勉強をしている生徒も多いのだろう。人気の無い廊下を進んで食堂を目指しながら、時音は誰にも聞かれないのをいいことに大きくため息を吐いた。
「はあ……」
怜二は言動はきついことが多いものの、昔から一緒だった時音には比較的甘い。どうにも「このそそっかしくて泣き虫な幼馴染みには自分が居ないとどうしようもない」と思われている節がある。
勉強を教えてくれたり、泣きそうになると慰めてくれたり、代わりに怒ってくれたり。……けれどそれは、彼女が彼にとって身内だと思われているからに他ならない。妹同然に扱ってくれる潤一と同じく、家族のように思ってくれているからこそ気に掛けている。
そこに一切の恋愛感情がないことを、時音は嫌と言うほど理解していた。
「時音!」
「詠?」
そんな時、肩を落として歩く時音の背中に声が掛かった。振り返った先に居たのは小走りになりながら時音の元へとやって来る詠だ。
「どうしたの?」
「皆も飲み物欲しいっていうからまとめて買いに行こうと思って」
椎名もへろへろになってて休憩いりそうだったからね、と詠が肩を竦める。そのまま二人で食堂へ向かうことになったが、歩きながら時音は時折詠の顔を窺って話を切り出すタイミングを窺っていた。
「……ねえ、詠」
「何?」
「詠って、好きな人とかいる?」
「へ?」
唐突に切り出された質問に気の抜けた声が返って来る。きょとんと目を瞬かせた彼女は首を傾げながら平然と「いないけど」と口にした後、すぐに何かに気付いたように「あ」と小さく声を上げた。
「そう言うってことは時音には居るんだ。誰?」
「え?」
「あ、分かった分かった。ひょっとして二階堂――」
ぎくり、と肩が揺れる。ばれていたのかと焦る時音だったが、続けられた言葉に焦りは一気に吹っ飛ぶことになった。
「先生でしょ?」
「……え?」
「だってこの前の体育大会で、時音一番かっこいい人ってやつで先生連れてたし、それに昔からすごい人だったんでしょ?」
直接告げられた訳ではないが甲斐と御影には知られているようなので、もしかしたら詠にも、と思っていた時音は少し安堵して首を横に振った。
「潤一さんじゃないよ」
「え、違うの?」
「かっこいいのは確かだけどね、向こうは私のこと妹みたいに思ってくれてるし、私も潤一さんは頼りになるお兄さんだと思ってるから」
「そうなんだ。じゃあ誰が……あ」
「詠?」
当てが外れたからか、少し残念そうな顔をした詠が思案するように視線を上方へ向ける。無意識に窓の外を見て口元に手をやっていた詠だったが、しかし不意にその体がぐらりと傾いた。
「危ない!」
倒れかけた彼女を時音が慌てて支えようとするが、すぐに我に返った詠は傾いた体を戻して「ごめん」と呟いた。
「……先生じゃなくてあっちの二階堂の方だったか」
「え!?」
いきなり倒れかけたかと思えば唐突に確信めいた声で詠はそう言った。
「な、何で分かったの!?」
「本当にごめん、ちょっと外見たら急に二階堂の顔が頭に過ぎって。……別に聞くつもりはなかったんだけど、星達が教えてくれちゃったみたい……」
「ええ……!?」
まさかの暴露に時音はぽかんと口を開いたまま暫し唖然とした。宇宙から見下ろす星々は過去現在未来全てを知っていると教科書にあった気がするが、それにしたってこんな一個人の好きな人の情報まで把握していると誰が思うのだ。
そもそも仮に知っていたとしても勝手に教えないで欲しいと時音は頭を抱えたくなった。ちなみに余談だが、亜佑の好きな人を知ったのも星による密告だという。個人情報が駄々洩れだ。
「けど、二階堂ねえ」
「すぐ怒るけど悪いやつじゃないんだよ」
「うん。それは何となく分かって来たけど……へー」
「……あのさ、お願いだから華凛にはこのこと言わないで欲しいんだけど」
「? うん、分かった」
詠は不思議そうな顔をしながらも頷く。時音のことにも気付いていなかった彼女は、きっと怜二の好きな相手も知らないのだろう。だからこそ相談は出来ないと、時音はそこでその話題を終わらせた。
食堂は同じく閑散としていた。時音は入り口近くにある三つの自販機に近寄ると、何を買おうか考えながら詠を振り返る。
「皆何がいいって?」
「えっと……華凛がオレンジジュースで甲斐がブラックのコーヒー、あと椎名がコーラで、二階堂は……」
「貴様ここまで説明して何故分からん!?」
「そんなこと言われても……」
「……これは厳しいな」
時音と詠が不在の教室ではひたすら怜二の怒鳴り声が響いている。華凛の口添えもあって、甲斐に加えて怜二も御影の教師役になったのだが、あまりのお手上げ状態に相手が御影ということもあって怜二はぶち切れ掛けていた。
「なあ一度休憩しようって。そろそろ二人も戻って来るだろうし」
「戻ってくるまでは頑張れ」
「いいからさっさと式を書け!」
「ええー……スパルタ……」
二人の畳み掛けるような発言に御影ががっくりと頭を落とす。時音と詠はまだかとついつい教科書から目を離して入り口近くをちらちらと窺ってしまう。
「早くコーラ飲みたい……あとオレンジジュースも飲みたい」
「誰が貴様にやるか!」
「怜二のじゃなくて華凛のなんだからお前が断らなくてもいいだろー」
「常磐のものをお前にやる意味が分からない」
「まあまあ……ちょっと分けて上げるから、ね?」
華凛が仲裁するように話に割って入るとようやく怜二は一旦落ち着くように口を閉じた。
「そういや怜二って詠に何頼んでたっけ」
「周防に任せたと言っていたぞ」
「あ、そういえばそうだった」
「……自販機に何が置いてあるか分からなかったからな」
既に雑談モードに入ってしまった御影に、怜二も疲れて参考書を閉じる。しゃべりすぎて喉が乾いた。
「時音に選ばせれば確実だろうし」
「流石、時音ちゃんって二階堂君のことよく分かってるんだね」
「付き合いが長いからな」
微笑ましげに華凛がうんうんと頷く。物心付いた時から一緒にいるのだから嫌でも相手の好みぐらい分かってしまう。
「なあ、怜二」
ごく当然のように言い切った怜二を御影が頬杖を着きながら見上げた。
「怜二って時音のことどう思ってるんだ?」
「はあ? どうって何だよ。時音は時音だろうが」
「……へー」
完全に質問の意図が伝わっていないと思いながら御影は曖昧に相槌を打った。怜二にとって時音とは友人だとか幼馴染みだとかでもなく「時音」というカテゴリに属しているらしい。ある意味特別である。
そして誤魔化しでもなく真にそう思って言っているらしい怜二の言葉に、側で聞いていた甲斐は密かに時音に同情した。
「ただいまー、買って来たよ」
「やっと休憩だー!」
その時、開いていた教室の入り口から時音と詠が顔を出した。缶とペットボトルを抱えた二人はそれをくっつけられている机の真ん中に一旦置いて、それぞれを手渡し始める。
「コーヒーが甲斐で、コーラが椎名で……」
「華凛はオレンジでいいんだよね。はい」
「ありがとう」
三人に飲み物を差し出し、詠は自分の分のサイダーを手に取る。残ったのは林檎ジュースと冷たいレモンティーだ。
「はい」
「ん」
時音からレモンティーを受け取った怜二はすぐにキャップを開けるとごくごくと飲み始める。サイダー、ジュース、紅茶とその時の気分で選ぶものが違う怜二だが、今はレモンティーだなと時音はなんとなく思った。べたべたと暑いのでさらっとして飲みやすいものの方がいいだろうという判断である。
念のため違っていたら時音の物と交換しても良かったがどうやら合っていたらしいとほっと息を吐いた。
「……あの、何でこっち見てるの?」
時音も早速飲もうかと席に着くと、何故か詠と怜二以外の三人から異様に微笑ましげな視線を向けられて困惑する。
「ううん、何でもない」
「流石だなー、とな」
「気にするな」
口々に言われて時音はますます困惑する。助けを求めるように怜二を窺うが、彼は相変わらずレモンティーに夢中のようで、時音の様子には気付いていなかった。