24話 一番かっこいいのは
六月の第一週の金曜日、その日の藤月学園では中等部高等部合同の体育大会が開かれていた。
天気は曇り。気温は少し高いものの風が吹いているのでそこまで辛くもない良い天気である。開会式の後応援席に座った時音はプログラムを眺めながら小さくため息を吐いた。
「あーあ、魔法使って良かったらまだいいのに」
「いや、時音のは反則でしょうが」
呟いた声は近くに居た詠に聞こえたらしく、即座に突っ込まれる。
体育大会での魔法使用は一部の属性が有利になったり不利になったりしてしまうので全面的に禁止されている。例えば風属性ならば自分にだけ追い風を吹かせたり、土属性で他の選手の足下にぬかるみを作ったり、はたまた時属性で自分以外の選手の時間を止めてしまったり、まともな勝負にならなくなる。
しかしながら「魔法が使用出来たら」という思考があっさりと出て来たのは、随分時音がこの学園の常識に慣れてきたという証拠である。既に一般的な常識から離れ始めている自分を自覚して彼女は苦笑した。
「あ」
順調にプログラムは進んで行き、中等部の女子百メートル走が終わった後のことだった。続いて始まった男子の百メートル走の選手の中に見慣れた姿を見つけた時音は少し驚いたように小さく声を上げた。
「三葉君だ」
「時音ちゃんの知り合い?」
「怜二の弟だよ。ほら、あの眼鏡の子」
華凛達に説明しようとスタート地点に向かう三葉を指で示してみせると、彼女達は遠目に三葉の姿を見つけて「あ、あの子ね」と頷いた。
「可愛い子だね」
「しかも何か、すごい中等部の子からきゃあきゃあ言われてない?」
「三葉君もかっこいいからねえ……」
二階堂三兄弟は性格はばらばらだが、三人とも揃って顔は良いのである。女子の黄色い声を受ける三葉を眺めて、時音も負けじと彼に向かって大きな声を出した。
「三葉君、頑張れー!」
聞こえないだろうとは思いつつも応援すると、スタート地点に立った三葉が不意に顔を上げて振り返った。
「え?」
多くの歓声の中でとても聞こえたとは思えなかったというのに、時音はその瞬間三葉と目が合ったような気がした。
「――用意……」
スタートの合図が鳴り響いた瞬間、三葉は真っ先に飛び出していた。一緒に走る五人をスタートで一気に引き離した彼はそのままぐんぐんと距離を広げ、そして気がついた時には百メートルを走り切ってしまう。
その瞬間、わっと歓声が更に大きくなった。
「やった、一位だ!」
「早いねあの子」
「大人しそうなのに意外」
余裕の一番になった三葉に時音達も感嘆の声が出る。
「怜二、三葉君勝ったよ」
「俺に振るな」
興奮しながら怜二を振り返ると少々不機嫌そうに返される。仲が悪いのは分かっているのだが、ついつい伝えてしまっていた。
「――高等部男子二百メートルに参加する選手は集まって下さい」
「次か……行ってくる」
「行ってらっしゃい、頑張って」
それからしばらくして放送が掛かると怜二が立ち上がり、応援席から出て行った。時音が怜二を見送っていると不意に視線を感じ、彼女は恐る恐るそちらを振り返る。
「……」
「いやー、いいな今の。新婚っぽくて」
無表情無言の甲斐と、そして対照的な笑顔に満ちた御影。その二人に見られていた時音は咄嗟に言い返そうとして……しかし何も言えずに真っ赤な顔でふるふる震えながらつい二人を睨んだ。
「その顔二階堂に似てるな」
「うるさい!」
淡々とした甲斐の感想に時音が叫ぶ。
「時音さん」
「あ……」
そんな時背後から声を掛けられて時音は我に返る。彼女のことをさん付けで呼ぶ人間は一人しかいない。
「どうかしましたか」
「な、何でも無い。……それより三葉君、見てたよ。一位おめでとう」
「ありがとうございます」
振り返った先に居た三葉は相変わらず淡々とクールにそう言った。
「あ。お前三葉だっけ」
「椎名先輩、鈴原先輩。この前はどうも」
三葉が来たことに気がついた甲斐と御影が彼に視線を向ける。知り合いだったのかと時音が尋ねると、彼は小さく頷いた。
「時音さんの頼みを聞いた時ですよ。あの人に荷物を持って行けと言われた時の」
「ああ、あの時」
「……見舞いの物、あれやっぱり周防からだったのか。後からそうだろうなと思ったが」
「ん? 何の話?」
「前に二階堂が風邪を引いた時に――」
「そ、その話はいいじゃん!」
話が見えない詠が尋ねるが、甲斐が答える前に時音の声が割って入る。別にばれても問題は無いのだが、何だか気恥ずかしかった。
「怜二はこれから走るみたいだよ」
「そうですね」
スタート地点を見ると真剣な顔をした怜二がまっすぐゴールを見据えている。そんな彼と共に走るであろう選手を眺めていた華凛が小さく「あ」と声を上げて前方を指さした。
「あの人陸上部だよ。中等部の頃は部長だったの」
「え」
華凛の言葉に気を取られているうちにパン、と大きな音が鳴って選手達が走り出した。勢いよく飛び出した怜二が一気にスピードを上げるが、その隣を今し方話題にしていた陸上部の男子が追い抜いてしまう。
怜二の顔が驚愕に染まり、追い抜いた背中が遠くなる。数十秒に満たない勝負はすぐに終わり、結果的に怜二が再び彼に追いつくことはなかった。
酷く悔しげに陸上部の彼の後ろに並ぶ怜二の姿を見ながら、時音は何とも言えない心境でため息を吐いた。
「……怜二って、何でこう、巡り合わせが悪いんだろうね」
安定の二位である。一緒に走ったのが彼ではなかったらきっと一番になっていただろうに。
「何でしょうね、あの人の運命というか」
「三葉君でも運命とか言っちゃうんだ」
「ここまで来ると流石に」
幼馴染み同士でうんうんと頷き合っていると、ふと思い出したように三葉が真面目な顔になって時音を窺った。
「ところで時音さん、あれから何事もないですか」
「ああうん、心配掛けてごめんね」
「……いえ」
例の誘拐事件だが、事件自体は学校中で知られているものの実際に誘拐された生徒の情報は伏せられた。が、時音達が居なくなったのを知っている生徒達から情報が漏れたらしく、事件の後すぐに三葉から心配するメールが届いたのだ。即座に中等部にまで広まった噂の早さに時音は酷く驚いたものだ。
「ッチ、どうしていつもこうなる……って、なんでお前がここに居るんだ」
「別に僕の勝手だと思いますが」
話をしていると怜二が応援席へと戻って来た。そこで三葉を見た彼は、順位も相まって非常に機嫌が悪そうに顔を歪めた。
「ねえ、二階堂って先生だけじゃなくて弟とも仲悪いの?」
「まあ、そんな感じで」
こそこそと話しかけて来た詠に時音が苦笑する。彼女には見慣れた光景だが、やはりこうも兄弟仲が悪いと他の人には異様に見えるのだろうか。
「さっさと自分の席に戻れよ」
「はいはい分かりました。二位、おめでとうございます」
「この野郎……!」
「あ、時音さんは何に出るんですか」
「借り物競走だよ。他のやつだと勝ち目なんてないし」
「そうですか。頑張ってください」
「うん、ありがとね」
「それでは」
軽く頭を下げて三葉が去って行く。時音が彼の背中を見送っていると詠が「へー」と感嘆とも呆れとも言い難い声を上げた。
「何かマイペースな子というか」
「三葉君は昔から動じない子だったから」
「本当に、似てないね」
常に冷静だった三葉と、憤慨した様子の怜二を見比べた華凛がそう言って苦笑した。
「――次は、借り物競走です。選手の入場です」
綱引き、騎馬戦、昼食を挟み、そしてとうとう時音の番がやって来た。
「時音、頑張ろうな!」
「うん、椎名君も」
一緒に借り物競争に出場する御影と共にグラウンドへ歩き出す。御影は他の競技にも出ているが「ただ走るよりも面白そうだから」とこれにも出たがったのだ。
先に出番が来たのは御影の方だった。一列に並ぶ御影達の前方、今から走るコース内にはいくつかのカードが置かれている。
この競技では、三枚のカードを拾って三つのお題をクリアしなければならない。一つ目と二つ目のカードには物が、そして三つ目のカードには人が指定されている。先に二つの物を集めてから、最後に選んだ人と共にラスト五十メートルを二人三脚でゴールしなければならない。
時音が見守る中、競技が始まり御影達が走り出す。スタートしてすぐに置かれているカードを拾い上げた御影はそれを裏返すと、何故か一瞬時音を振り返った。
「?」
しかしすぐに前を向いた彼は教員が集まるテントに駆け込んで何かを言ってすぐに走り出した。その手には腕時計が握られている。
指定されたのが時計だということですぐに時音を連想してしまったのだろう。しかし今から走るということで時計は怜二に預けている。御影はそれを知らないかもしれないが、どちらにしてもすぐに教員席へと向かったのであの時計を彼女から借りる気はなかったのかもしれない。
続いて御影は二つ目のカードを拾う。今度は側の応援席に向かって水筒を借りたようだ。すぐにお題をクリアした彼はコースに戻り、最後のカードに向かって走る。
「これで最後……っと」
三枚目を見た御影が一瞬悩んだように動きを止める。僅かに考えるような素振りをみせた御影だったが、すぐに走り出して自分のクラスの応援席へと向かっていった。
「華凛、一緒に来てくれ!」
「え、うん。分かった」
クラスメイトの中から華凛の手を引いた御影は再びコースに向かって走り出す。引っ張られながらも何とか御影に着いていった華凛と共に二人三脚のスタート地点へ向かい、そして足を固定する。
「行くぞ」
「うん」
息を合わせてゆっくりと固定された足を同時に踏み出す。後ろの選手が到着したのと同時に進み始めた二人は、特にバランスを崩すこともなく順調にゴールへと向かっていく。
しかし後ろから迫る二人組が早い。追いつかれそうになったことに時音がはらはらと見守っていたが、ぎりぎりで御影達が逃げ切ってゴールした。
「よしっ!」
「カードを確認します。時計、水筒、それと……」
側に居た教員が御影から受け取ったカードを見る。三枚目に目を落とした彼はすぐにその視線を華凛に向けた。
「”可愛い女の子”」
「でしょう?」
にやりと御影が笑うのと同時に華凛の顔が赤くなった。恥ずかしさを微塵を感じていない様子の御影に教員は小さく笑いながらOKサインを出した。
マイク越しに運動場の全員に届いたそれに、生徒達は一気に盛り上がりを見せる。時音は御影が勝ったことに喜びながらも、これから来る自分の番を思って少々冷や汗が流れた。もしまずい指定が来たらどうしたものかと。
そして嫌でも彼女の番はすぐに回ってきた。一緒に走る女子達は大人しそうな子ばかりで走るのが速そうな子達に見えないのがまだ幸いか。
「用意……」
音と共に時音は走り出した。あまり体力の無い彼女は少し温存しながら五人中三番目に最初のカードを拾い上げる。書かれていたのは赤いバトンで、すぐに倉庫の前まで走って後のリレーで使う為に準備されていた赤いバトンを手に取った。
一つ目は楽でよかったと思いながら走り、二つ目のカードを手に取る。既に息が切れ始めながらもカードに目を落とすと次の指定は眼鏡だった。
時音は真っ先に思い出した人物の応援席へと駆ける。比較的近くにあったそこへたどり着くとすぐにぐるりと中等部の生徒達を見回して目的の人物を見つける。
「三葉君眼鏡貸して!」
「いいですけど……汚したら怒りますからね」
するりと眼鏡を外した三葉からそれを受け取る。いつもよりもより幼い顔立ちになった幼馴染みに「ありがとう!」とお礼を言って時音は重くなってきた足を動かして最後のカードへと向かった。
「最後は……っ」
「火属性の人とか簡単なお題でありますように」と祈りながら三枚目のカードを見た時音はひく、と顔を引きつらせた。お題は”一番かっこいいと思う人”だ。
好きな人と書かれて居なかっただけ少し安心する。が、結局は似たようなものである。時音が誰よりもかっこいいと思う人間など決まっていて、その人をゴールに連れていったら彼女の気持ちがばれてしまうのと同然だ。彼自身は「俺が一番なんて当然だ」という顔をして終わりそうだが、更に学校中に知られてしまうという嬉しくもないおまけ付きである。
「ど、どうしよう」
思わず立ち止まった。どうする。怜二の元へと行くのか。それとも――。
「……」
数秒の逡巡の後、時音は走り出した。向かうのはクラスの応援席……ではなく、かなり離れた場所にある教員がいるテントだ。
「二階堂先生ちょっと来て下さい!」
「分かった」
時音は到着するとプログラムを確認していた潤一の手を引いた。お題を知らない彼はすぐに頷くと立ち上がり、時音と一緒にグラウンドを横切るように走る。
最後は二人三脚だ。しかし身長差のある時音と潤一では歩幅も全く違い、更に運動神経も良くない時音は時折バランスを崩して倒れかけた。
「おっと」
「すみません」
しかし潤一がその度に軽々と彼女の肩を引き寄せて倒れるのを防いでくれる。昔から知っていなければうっかり好きになっていたかもしれないと、時音はちらりと潤一を見上げてそんなことを考えてしまった。
最後まで転ぶことなくゴールすると、結果は二位だった。途中で悩んでしまったのがタイムロスの原因だろうと考えていると、すぐに「それでは確認します」と教員が時音の元へやって来た。
「一つ目、赤いバトン。二つ目が眼鏡。そして三つ目は……一番かっこいいと思う人、です」
「……周防、君ねえ」
「あはは……」
会場が沸くのに対し、潤一は酷く呆れた顔で時音を見下ろした。
「怜二を連れて来ればいいだろうに」
「そんなこと私に出来ると思いますか!?」
「そこは威張るんじゃないよ。それにあいつはかっこいいと言われたら単純に喜ぶと思うけどね」
「だって……だって怜二本人はともかく、他の人には分かっちゃうじゃないですか! それにほら、先生なら皆納得するだろうし!」
「……うーん、どう考えても一人納得しないやつがいると思うんだが」
苦笑する潤一の脳裏にいつも通り怒る弟の姿が過ぎった。
「時音! 俺があいつより劣ってるとはどういうことだ!」
大体俺の方が近かっただろうが! とその後、案の定潤一の予想通り、応援席に戻った時音は怜二に詰め寄られたのだった。