22話 収束
耳が痛くなるほどの静寂。
依然として真っ暗な森の中。
時音を抱えて走る仮面の男。――それらはまるで、静止画のように止まっていた。
風に揺れていた葉そしてその風もが完全に停止した中で、時音は目を瞬かせて小さく呟いた。
「成功、した?」
成功どころではない。男一人の動きを止めようとしていたというのに、これではまるでこの世の全てから時間を奪ってしまったようだ。
「……」
もしそれが本当ならば、自分は何という恐ろしいことが出来てしまうのか。慎重に扱わなければならない特別な力だということは聞いていたが、今この瞬間にようやくその重大さを理解したと言ってよかった。
しかし恐れている暇はない。時音が再び暴れようとすると先ほどとは違いあっさりと闇は拘束を緩め、そして男の肩の上から抜け出せた。闇を操る男の思考が止まっている今、魔法での拘束などあってないようなものだったのだ。
そして時音は一目散に森の中を走り始めた。とにかく魔法が切れる前に距離を取らなければと全力で元来た方へと急ぐ。すると数秒後、すぐに木々のざわめきが耳に戻って来る。
「切れた……」
「待て!」
時音が逃げ出したのに気付いた男が声を上げて再びうねる闇を彼女に向ける。
「速く……速く!」
自分に言い聞かせるように足を前に動かすと、途端にぐい、と体が前方に勢いよく傾いた。
「!?」
転びそうになりながらも何とか踏み込んだ足に力を入れて走り続ける。流れる景色が妙に速くなったのを感じた時音は、無意識に魔法を使って自分の時間を加速させていたことに気が付いた。
後ろから聞こえて来る男の声が小さくなっていく。このまま逃げられるかもしれない。時音はそう思い、ほんの少しだけ気を緩めてしまった。
そんな心の隙を突くように、不意に時音は足元に出っ張った木の根に引っかかった。
「うわあっ!」
普段よりもずっと勢いよく走っていた体が前方に投げ出される。彼女はそのまま転がるように地面に倒れ込み、全身を強く打ち付けた。
体中が痛い。しかし時音は何とか起き上がり、そして咄嗟に背後を振り返ってしまった。
「逃がさない」
「あ……」
ざく、と落ち葉を踏む音がすぐ傍で聞こえた。反射的に顔を上げた時音は仮面の男が自分に向かってまっすぐ手を伸ばすその瞬間を見てしまった。
今度こそ逃げられない。止まれ止まれと何度も声を出すのに、今度はちっとも止まってはくれない。混乱している今、冷静に時計の音も思い出せない。
捕まる、と時音がきつく目を閉じる。――その直後だった。
「え」
ひゅっ、と何かが風を切る音と共に、すぐ側で男が小さな呻き声を上げた。
「私の大事な生徒に何をする!」
時音と仮面の男、この場にいる二人とは別の声が聞こえて彼女は閉じていた目を恐る恐る開く。すると目の前の男はいつの間にか体中にいくつも血を流してふらりと倒れそうになっていたのだ。
目を閉じているうちに傷だらけになっていた男を見て唖然としていると、不意に掬い上げるように時音の体が持ち上がり、そして暖かなものに包まれた。
「大丈夫か!?」
「じゅ、潤一さん!」
一瞬仮面の男に捕まったのかと思ったがすぐに聞き慣れた声が聞こえて抵抗しかけた手を止める。時音を抱き上げていたのは潤一で彼はすぐに男から距離を取るように下がり、そして他の人間――先ほど声を上げた学園長の側までやって来た。
「周防君、怪我は」
「大丈夫です……」
入学式以来見ていない学園長に名前を知られていたことに軽く驚いていると、彼はすぐに彼女から視線を外し険しい表情で仮面の男を見た。
釣られるように時音も血塗れの男に目を向ける。すると図ったかのようにぴたりと時音と男の視線が絡み合った。
「ひ……」
仮面の奥から見えたそれは、憎悪や深い執念に満ちた底なしの闇そのものであった。その闇に呑まれた視線は、時音に狙いを定めたかのように彼女から離れることはない。
「あの男を捕まえろ!」
「っくそ……!」
学園長の合図と共に一斉に男に向かって様々な属性の魔法が放たれる。しかしそれよりも早く繰り出された視界を覆い尽くす闇によって男の姿は完全に隠されてしまう。
放たれた魔法達が次々と闇を掻き消していく。……しかし、それが完全に無くなった時には男の姿はどこにも見当たらなかった。
「逃げられた!?」
「周囲を探せ!」
ざわざわと周囲の教師が困惑の声を上げながらも走り出す。そんな中時音は先ほど直視した恐ろしい男の目を思い出してへたりと地面にしゃがみ込んでいた。
怖かった。けれども助かった。潤一に掛けられる声に碌に反応しないまま、それだけが時音の頭の中を何度も巡っていた。
それから無事に保護された時音達はすぐに学校へと送られた。その日は皆疲れていた所為かほとんど話すこともなく寮へと戻り、そしてすぐさまベッドに倒れ込むようにして眠った。
「月野学園長、失礼します」
翌日の午後、潤一は学園長室を訪れた。数枚の資料を手にした彼の表情は硬く、そして彼を迎えた学園長――月野の表情も穏やかなものではなかった。
「二階堂君」
「昨日の事件についての詳細をまとめて来ました」
潤一は月野に促されてソファに腰掛けるとすぐにテーブルに資料を広げ始める。奥の席に座っていた月野も彼の目の前のソファへ移動し、厳しい目で資料に視線を落とす。
「誘拐された生徒達からも話を聞いています。誘拐時に使用されたのは筒のような形状の闇属性の魔法装置だと言います。眠気を誘発して不眠症治療などの医療用に使うもので、病院で使用する以外は一般には売り出していないものでした」
「そうか、なら病院から盗み出したものか……?」
「その辺りはこれから警察が詳しく調査するかと。犯人は三人、そのうちまだ逃走中の男から手渡されたとの証言があります」
「うむ……あの男か」
月野の脳裏に昨晩取り逃がしてしまった犯人の男の姿が過ぎる。のっぺりとした仮面をつけた奇妙な男だ。
「犯人グループのうち、捕らえた二人の名前は田中と清水。身元も確認がとれています。しかしあの二人も仮面の男について詳細を知らないとのことです」
「隠しているのではなく?」
「彼らは二人は元々知り合いだったようですが、彼だけ今回初めて会ったと言ってます。突然誘拐の話を持ちかけられ、研究所の内部の情報や魔法装置を提供する代わりに、生徒達を誘拐してほしいと言われたと」
仮面で顔を隠しているように、自分の正体を隠す為かとにかく人前に出ることを避けたがったという。その為に別の人間に白羽の矢を立てたのだろう。
「犯人達は生徒を裏のオークションに出して売り飛ばそうと計画していました。……ただ」
「ただ?」
「仮面の男の要求は一つだけ。執拗に時属性――周防の身柄だけを求めていたとの証言が」
潤一の表情が酷く苦々しいものになる。教え子、そうでなくても妹同然の時音が犯罪者に狙われているのだ。それも、犯人はまだ逃走中。いつまた狙われるか分かったものではない。
「犯人の目星は付いているのか?」
「それが……少し困ったことになっていまして」
「困ったこと? やつは闇属性だったからすぐにでも割り出せると思ったのだがな」
「私もそう考えていたんですが……警察によると、確認されている闇属性の成人男性のうち、昨夜あの場にいることができた人物がいないんです」
「アリバイがある、か」
「あんな人里離れた場所ですから、行くのにも時間が掛かる。闇属性は魔法で分身体を作ることもできますが、少なくともある程度近くにいないと操れませんから」
「となると……つまり、我々が知らない闇属性の人間が高いということか」
「政府に登録せずに魔法を使う人間もいますからね。あるいは非常に稀ですが突然発現してそもそも他に魔法が使える人間を知らないケースも」
魔法を犯罪に使用することがないように、政府は魔法が使える人間を必ず登録することにしている。基本的に血縁関係がなければ魔法力は発現しないためそこまで漏れがある訳ではないのだが、突然変異が起こるかもしくは時音のように両親が分からない状態であると政府のチェックから逃れてしまう場合がある。
また、血縁関係の全員が全員魔法力を得る訳でも無いため、魔法が使えても隠そうと思えば隠せてしまうのも現在課題になっているところだ。
「今回のようなことが再び起こらないように、研究所はもちろんのこと学園の警備も強化するべきかと……ああ、そういえば。これは今回の案件と直接関係があるかどうかまだ分からないのですが」
「どうした」
「昨日、研究所で臨床試験中の魔法薬がいくつか紛失したとの情報が。何でも今まで治療不可能だと言われていた病気にも回復の傾向が見られた画期的な治療薬だと聞きました」
「捕まえた二人に確認は?」
「既に。ですが全く知らないようでした。可能性が高いのはやはりあの男かと」
「あの、仮面だな……警察の調査で早く人物が特定できればいいが。二階堂君、それと伊波君はどうだ」
「トラックの横転時に意識を失っていましたがもう目を覚ましています。窓ガラスを被って怪我をしていましたが自分でも治療できる余裕はあるようなので数日で復帰できそうです」
「彼女は治療が済み次第、一週間の謹慎処分とする」
今回の件で亜佑に責任があったのは確かで、潤一も既に減給処分の通告が来ている。
しかし謹慎とは言っても名ばかりのものである。亜佑は自分の責任をきちんと受け止めて反省している。だからこそ時間を無駄にしない為に、実際には今後の再発防止に向けての特別訓練の時間ということになっていた。
「報告は以上です。それでは」
「ああ」
資料を纏めて月野に渡すと潤一は一つ頭を下げてから学園長室を出て行く。扉が完全に閉まると、一人になった月野は大きくため息を付いて資料を手にし、ソファから腰を上げて奥の席へと戻った。
「頭の痛い問題が続くな……」
疲れたように独りごちて机に向き合う。そこには先ほど潤一が来る前に頭を悩ませていた書類が待ち構えていたかのようにおかれていた。
”今年度の藤月学年高等部一年における影人との実践訓練について”
政府から届いた書類に目を落とした校長は毎年徐々に時期が早まっていく要求書を見て「いくらなんでも早すぎる」と顔を歪めて肩を落とした。
「くそっ……」
失敗した。一つの目的は達したが、肝心な計画が台無しだった。
薄暗い地下室。ほんの僅かな電灯の明かりの下で、仮面を被った男は苛立たしげに舌を打つ。
時属性の子供を浚う。その為だけに立てた計画だったが、やはり信用できない男達に協力を依頼したのが間違っていた。人前で顔を見せられない為代役が必要だったのは事実だが、それが原因で失敗したのなら意味が無い。
「もう一度。もう一度だ……」
今回の失敗で再び誘拐するのは余計に困難になるだろう。だからこそより慎重にならなければならない。
時間はある。今までも、何年も”時”が現れるのを待ち続けて来たのだ。今焦って捕まる訳にはいかない。まずは、満足に動くことの出来ないこの体の傷が癒えるまで待たなければならない。時音に意識を持っていかれていたとはいえ不意打ちで受けた風魔法は容赦なく仮面の体をずたずたに引き裂いていた。
「……」
男はその顔の面を外すと、ふらふらと覚束ない足取りで目の前に置かれているカプセルのような形状の鉄の塊に触れた。人一人入れそうなそれを睨み付けるように見た彼は「必ず」と自分に言い聞かせるように強い口調で言った。
「どんな手を使ってでも必ずお前を取り戻す。約束を守ってみせる。だから待っていろ
――あやめ」
一章終了です。