21話 止まれ
「先生!」
「周防さん、まだちょっと動かないで」
動こうとした時音を制して誘拐犯が完全に気絶したのを確認した亜佑は、先ほどまでの気迫を緩めてほっとしたように息を吐いた。続いて彼女は立ち上がると急いで時音の縄と制御装置を外し、そしてそれを使って代わりに田中をきつく縛り上げ始めた。
「……伊波先生、こんなに強かったんですね」
「見てたの?」
「あ……すみません、少しだけ」
目を閉じるように言ったはずだと亜佑が首を傾げると、時音は口を滑らせてしまったことに気付いて謝った。
「実は実家が道場でね」
「そうだったんですか。あの、見たら何かまずいことがあったり……?」
「ううん、ただ周防さんの場所を向こうに特定されたくなかったから出来るだけ大人しくして欲しかったの。犯人の目に見えていたのが偽物だって知られたら困るから」
「偽物……よく分からなかったんですけど、何か魔法使ったんですよね」
「ええ。最初に“閃光”で犯人の目を眩ませた時、一緒に周防さんの姿を隠すように障壁であなたの姿を覆って、そして少し離れた場所に光の反射で周防さんの姿を映していたの。犯人にはそこに周防さんがいるように見えていたって訳」
「……そう、なんですか」
小難しいことはよく分からないが何となく理解したように時音が曖昧に頷く。とにかく犯人には時音が違う場所にいるように見えていたらしい。道理で何もない場所へ拳銃を向けていた訳だと彼女は納得した。
「あれ、でも先生あの時そんないっぱい魔法使ってましたっけ。閃光としか言ってなかったような」
「藤月の教師は皆無言魔法が使えるから」
「あ、そういうことですか」
逆に言えば、無言で魔法が使えなければ採用試験に受からない。影人から、そしてこのような犯罪者の手から生徒達を守るために、藤月の教師陣は軒並み高い魔法技術をはじめとしたさまざまな条件をクリアしなければなることができないのだ。
更に今回の場合、あえて他の魔法は口に出して使ったことで声に出さなければ魔法が使えないという先入観を持たせ、本当に重要な時音を守る魔法の存在を隠蔽していた。
「時音!」
「……あ」
亜佑が話しながらもしっかりと気絶した田中の拘束を終えた所で、通路の奥からばたばたと複数の足音が響いて来た。最初は誘拐犯の仲間かと警戒した二人もすぐに見えた五つの人影にほっと安堵するように息を吐いた。
真っ先に時音の元へ駆け寄って来たのは、どうやらあの後他の四人に助けられたらしい詠だった。
「時音大丈夫!? ごめん、あたし何も出来なくて……!」
「伊波先生が助けてくれたから大丈夫。詠の方こそ大丈夫だったの?」
「うん、あの後すぐに皆来てくれたから」
そう言われて他の四人を見ると、怜二がつかつかと時音に歩み寄り彼女の腕を掴んだ。
「癒しの光」
「あ」
そしてすぐに魔法を使ったかと思えば時音の手首の青くなっていた縄の痕が綺麗さっぱりと消えてしまった。光魔法は唯一怪我を治せると聞いていた時音だったが、それを初めて――正確には初めてではないのだが――受けて目を瞬かせた。
「怜二、ありがとう」
「別にこれくらい何でもない」
「皆」
そっけなくも当然だという態度でそう言った怜二に時音が小さく微笑んでいると、不意に改まった様子で亜佑が声を上げ、振り返った六人に大きく頭を下げた。
「本当にごめんなさい。先生がしっかりしていなかったからこんなことになって……」
「せ、先生の所為じゃないですよ! 謝らないで下さい!」
「悪いのは誘拐犯です。それに、ああも警備が甘かった研究所の方にも問題が」
「いいえ。一緒にいながらあっさり掴まってあなた達を危険に晒したのは先生の責任よ」
華凛と甲斐が亜佑を庇うようにそう言うが、本人は酷くきっぱりとそう断言して顔を上げた。
「……だからこそ、今は何としてでも皆を無事に学校へ帰します」
「先生……」
その時の彼女は普段の生徒達に揶揄われている亜佑とは全く違う、教師としての顔をしていた。
無事に全員が合流したことで、まずはとにかくこの建物から出て外へ逃げようと急ぐことになった。犯人の人数が分からない以上、他にもまだ仲間がいる可能性だって十分にあるからだ。
「っていうか俺達も一人、犯人倒したけどな」
「え!?」
急ぎ足で階段を下っている途中でふと御影が溢した言葉に、時音と亜佑は勢いよく彼を振り返った。
「皆、大丈夫だったの!?」
「ま、俺達に掛かれば」
「怪我はない!?」
「怜二が治してくれたので」
呑気にへらへらと笑う御影に時音と亜佑は顔を見合わせた。四人がかりとはいえ、誘拐犯なんてそんな危険な大人と戦ったという御影達に驚き、しかしそれ以上に無事なことに安堵してついぽろりと涙が零れ落ちた。
「あ……」
「と、時音ちゃん大丈夫だからね!」
先ほどまでの緊張が緩んだ所為か思わず、という感じで流れた涙を見た華凛が慌てた様子で時音の背中を擦り、怜二は少し呆れたような顔を見せた。
「ったく、本当にいつまでもお前は泣き虫だな」
「だ、だってそんな危ないことしたっていうから心配したじゃん!」
「俺達よりも危なかったのはお前だろうが。あの男に連れて行かれそうになったんだろ」
「そうだけど。……あ、そういえば」
「どうしたの?」
「あの人……何か言ってたような」
袖口で雑に涙を拭った時音は考えるように口元に手を当て、先ほど自分をどこかへ連れていこうとした男の言葉を頭の中で思い浮かべた。
「確か、時間がないとか……あと、“あいつ”が此処に来る前に、とか」
「あいつって……四人が倒したやつのことかな?」
「いや多分違うと思うぞ。俺、皆よりも早く……ここに来る途中のトラックの中で一度薄っすら意識が戻ったんだが、その時あいつら、誰か別のやつと電話してたみたいなんだ。『これから合流地点へ向かう』って言ってた」
「ということは、これから別の共犯者が此処に来るかもしれないのね……尚更急がないと!」
更に別の協力者がいる可能性が高いと分かった七人は話すのも止めて、とにかく外に出ることだけを考えて足を急がせた。
特に複雑ではない構造の建物だった為出入り口は容易に見つかった。外は既に真っ暗になっており、周囲は鬱蒼とした森に囲まれているようだ。目の前には碌に舗装されていない道が一本だけ伸びており、そしてその道の脇には一台の大型トラックが停められていた。
運転席に誰もいないことを確認した亜佑がトラックに近付き、そしてドアに手を掛ける。
「……不用心でしょ」
あっさりと開かれたドア、そして刺さったままになっている鍵を見て思わず亜佑が呆れたように呟いた。逃走時のタイムラグを減らす為かもしれないが、それにしたって不用心過ぎる。
しかし彼女達には好都合だ。更に助手席の足元に置いてあった鞄から回収されていた携帯電話が見つかったことも僥倖だった。素早く自分の携帯を手に取ると切られていた電源を入れてすぐに目的の人物に電話を掛ける。繋がる間に亜佑は待機していた時音達を振り返ると「後ろに乗り込んで!」と指示を出してからエンジンを掛けた。
「――もしもし! 学園長ですか!」
『伊波先生! 無事でしたか! 子供達は』
「全員無事です。今の場所は……」
カーナビで現在地を確認した亜佑が場所を告げると、『やはりその辺りだったか』と少し安堵したような学園長の声が聞こえて来た。
『真宮寺に頼んである程度の範囲は絞ってもらっていた。そんなに遠くないからこれから向かうが、君達も出来るだけ犯人の拠点から離れるか身を隠してくれ』
「トラックがあったのでひとまず広い道まで出ます。場所は携帯のGPSを」
『了解した。すぐに向かう』
「はい。……申し訳ありませんでした」
『それは無事に合流してから聞きましょう』
「はい」
電話を切って全員がトラックのコンテナに乗り込んだのを確認した亜佑は「揺れるから気を付けて」と声を掛けてから入口を閉めてすぐさま運転席へ乗り込んだ。
「行くわよ!」
気合を入れるようにそう叫んだ亜佑は、慣れないマニュアル車の操作に苦戦しながらも一気にアクセルを踏み込んだ。
「す、すごい揺れるね……」
怜二の魔法で比較的明るくなったコンテナの中で、がたがたと止まらない揺れに酔いそうになりながら時音達はコンテナの隅に身を寄せていた。
「先生の運転、結構荒いんだ……」
「緊急事態だし、道も悪そうだから仕方ないよな」
「甲斐、大丈夫?」
三半規管が弱いのか、一番に顔色を悪くした甲斐を詠が気遣うように窺った。しかし返事も出来ないのか少し顔を上げただけですぐに俯いてしまう。
「それにしても、まさか誘拐されるなんて思わなかったよなあ」
「でも皆無事で本当によかっ――!」
一時はどうなることかと思った、と考えながら時音が話をしていた、その瞬間だった。
「は」
「うわっ!」
大きな音と共に視界がぐるりと回転し、そして強い衝撃が時音達を襲ったのは。
一瞬意識を飛ばしていた彼女が我に返ると、速度を出して走っていたトラックは横倒しになり、沈黙したように静寂が訪れていた。
怜二の魔法も切れて殆ど何も見えない闇の中で時音がゆっくりと痛む体を起こしていると、更に続けてつんざくような大きな破壊音が彼女の鼓膜を叩いた。
「……あ」
顔に当たる風を感じて唖然とした。今の衝撃でコンテナの壁が破られ、そして月明りで僅かに明るくなった外にひとつの人影を見たのだ。
「来い」
簡潔な低い声と共に闇が襲い掛かって来る。早すぎて全く動くことも出来なかった時音はあっという間にその闇に呑まれるように体を覆われ、そして気が付いた時には体に巻き付いた闇と共にコンテナの外に出ていた。
「時音!」
酷く焦った怜二の声が聞こえたが、彼女が声を上げる前にどんどんトラックから引き離されていく。外に居た人影の所まで連れていかれると、彼――暗くて見えにくいが男のようだ――は時音を肩に担ぐようにして道から外れた森の奥へと走って行ってしまう。
「離して――っむぐ」
「静かに」
男の肩の上で時音が抵抗するとすぐさま体に纏わりついていた闇が拘束を強め、口まで塞がれた。
この男は恐らく先ほどの誘拐犯の一人だ。息苦しさに苦しみながらも時音が男の顔を振り返ると、そこにはのっぺりとした何の装飾もない仮面が闇の中で浮かび上がっていた。
迷いなく木々の間を走り抜けていく男の担がれながら時音はパニックに陥りそうになりながらも必死で思考を巡らせる。考えろ、どうすればいい、今自分に出来ることは。
その時、首に下げていた懐中時計の存在を思い出した。
「っ!」
一か八か。
時音は無我夢中で顔を動かして口元を塞ぐ闇から何とか逃れようとする。そしてそれと同時に頭の中でカチカチと時を刻む針を思い浮かべた。
そして、僅かに口を覆っていた闇が外れ大きく空気を吸い込んだ瞬間、規則的に動くその針の音を時音は頭の中で止めた。
「――止まれっ!」
刹那、この世から全ての音が消えた。