2話 魔法
「……」
謎多き通り魔事件及び突然のスカウトから一夜明けた翌日、学校もなかったその日の朝、時音は緊張した面持ちで隣の家の玄関の前に立っていた。
隣――二階堂家は時音の家とは比べ物にならない大きな家だ。豪邸とまではいかないものの、この辺りの一般的な住宅とはかけ離れたセレブ感が漂っている。有り体に言ってしまえば、二階堂家は金持ちだった。
昨日潤一が言った藤月学園へのスカウトの話は保留にしてある。まず他に聞かなければならないことが多すぎるからだ。そして今日は、その話を聞きに来た。
……だが、少し入り辛い。一体何を言われるかちっとも分からない上、おまけにあれだけ藤月に入りたいと言っていた怜二の目の前でスカウトされたのだから顔を合わせにくかった。
「あ」
いつもならば気軽に押せるインターホンの前で時音が立ち往生していると、不意に玄関の扉が開いた。時音がぎくりと肩を揺らしていると、そこから人影が現れる。
「家の前でずっと何やってるんですか、時音さん」
「……三葉君、おはよー」
「おはようございます」
出て来たのが怜二ではなくて時音は少し安堵した。
玄関から顔を出したのは怜二の一つ下の弟、二階堂家の三男三葉だった。穏やかな長男、そして意地っ張りな次男に続いて誕生した三葉は、常に冷静沈着な理知的な少年だ。……こうして考えると兄弟だというのに全員性格が見事にばらけている。
眼鏡を押し上げて時音を訝しげに見た三葉は「もう兄さんも居ますから早く入って来て下さい」と冷めた口調で時音を促した。
「お邪魔します」
「はい」
おずおずと家の中に入った時音が靴を脱いでから顔を上げると、何故か三葉がじっと何か言いたげに自分を見ていることに気が付いた。
「何?」
「いえ別に、時音さんは気にしなくていいですから」
時音が首を傾げて尋ねるものの、三葉は淡々と言ってそれ以上の追及を避けた。彼がこうして冷めた性格になったのは一体いつからだったか。昔は「お姉ちゃん」と時音のことを呼んでくれていたというのに、いつの間にか随分他人行儀になったものである。
「時音ちゃん、よく来てくれたね」
「朝早くからすみません、お邪魔してます」
三葉と共にリビングへ行くと、そこには二階堂家が勢揃いしていた。朗らかに笑って時音を迎えてくれた三兄弟の両親、そしてその隣で同じような表情で時音を見ている潤一。普段藤月学園の職員寮にいる為滅多に帰って来ない彼がこの家にいるのは非常に珍しい。
「お、おはよう怜二」
「……」
そして彼らの向かい側にいる怜二は、酷く不貞腐れたような顔で時音を見ないようにしている。それを彼女が気にしていると「兄さんのことは放っておいていいですよ」と三葉にこそっと耳打ちされた。
対面式のソファの片方は既に埋まっている。残りは怜二の隣二つが空いているのだが、気を利かせた三葉が先に怜二の隣に座ってくれたことに感謝しながら時音はようやくソファへと落ち着いた。
「あの……それで、昨日のこと聞いてもいいんですか?」
「ああ、勿論。その話をしに戻って来たからね」
世間話を楽しむ余裕もなく単刀直入に時音が口を開くと、潤一が大きく頷いて居住まいを正した。
「時音ちゃん、はっきり言ってこれから言うことは荒唐無稽だと思われるだろうし信じられないと思う。だけどとりあえず最後まで聞いてくれ」
「……はい」
「最初に一番重要なことを言っておくけど」
昨日の可笑しな出来事を語るのならばその内容だって多少非現実的なものだろうという想像は着いている。
しかし時音は潤一が真っ先に告げた言葉に、結局言葉を失っていた。
「この世界には、魔法が存在する」
魔法とは、この世の科学では説明しようがない超常現象を起こすものの総称である。時に風を自由に起こし、時に何もない所から火や水を生み出す力――魔法力を持つ人間は、僅かであるが存在する。
魔法士と呼ばれる彼らは普通の人間から少し進化し始めた人類として扱われており、主に成長期……中学生くらいの年齢でその力が発現することが多い。
その数はほんの少しずつ増えてきているが、しかし今はまだ混乱が生じるのが目に見えている為公に出来ない存在だという。
「そして何故人間がそんな進化を始めたかというと……簡単に言うと、天敵が現れたからだ」
「はあ……」
色々な事を言われてパンク状態の時音が力なく相槌を打つと、潤一は穏やかに笑っていた顔を少し真面目なものにして話を続けた。
「時音ちゃん。君達を昨日襲ったあの黒いやつこそ、その天敵だ」
「え」
「彼らは私達の間では“影人”と呼ばれる。真っ黒で人型をしたあれらは物理的な攻撃が殆ど効かず、魔法でしか対処できない」
普段学園を離れない潤一があの場にいたのは、その影人を追いかけて来たからだった。
「でも、昨日は塀にぶつかって居なくなって」
「実際に致命傷になったのは私が使った魔法によるものだ」
「……は?」
「私はね……というよりも父さんも母さんもだが、魔法士なんだ」
ぽかんと口を開けて呆けた時音に潤一は小さく笑ってみせる。そしてややあって我に返った彼女は「え、え?」と未だに困惑したまま視線を彷徨わせた。
「潤一さんが……それに、おじさんとおばさんが、魔法使い!?」
「魔法士ね」
「あとそれに、三葉もこの前魔法力が目覚めて」
「……はあ!? そんな話聞いてないぞ!」
今までずっと無言で話を聞いていた怜二が突然驚いたように声を上げる。「しまった、怜二には内緒だった」とうっかり溢した父親の声を聞いた彼は余計に憤り、隣に座る弟を忌々しげに睨み付けた。
「何で俺には言わなかった!」
「決まってるでしょう。そうやって煩くなるからですよ」
「三葉お前!」
「ちょっと怜二!」
しれっと返した弟に掴みかかろうとした怜二を慌てて立ち上がった時音が止める。しかし彼は時音の手を振り払うと、今度は標的を彼女に変えて当たり散らすように叫んだ。
「お前も! 何で俺じゃなくて時音が魔法士になるんだよ!!」
「は? 私?」
「昨日あいつの動きを止めたのはお前だろうが! 何で俺だけ……!」
いきなり指を指された時音が困惑しているうちに、怜二は苛立ちをそのままにリビングを飛び出して行った。
怜二の後ろ姿を見ていた時音に「時音ちゃん、怜二がごめんなさい」と声が掛かる。
「いえ、あの……私が魔法士ってどういう」
「今怜二も言っていたが、時音ちゃんは昨日影人に襲われた時、あれの動きを止めたんだろう?」
「確かに一度変に止まってましたけど、あれを私がやったかどうかは」
「影人を追って来て遠くから見た限り時音ちゃんだと思ったが……まあ、それはこれから証明する」
「証明?」
「君に魔法力があるかどうかを調べるんだ」
そう言うと、潤一は傍に置いてあった鞄の中から何やらコードに繋がれた小さな機械を取り出した。一目見た限り、時音には血圧計のようにしか見えない。
「腕を出してくれるかな」
「はあ……本当に血圧測るみたい」
「元はそれから改良したらしい」
腕帯をぐるぐると巻かれ機械のスイッチを入れると、ものの十秒ほどでピピッ、と機械が音を立てた。ちらりと小さな画面を覗き込んだ潤一は、続いてそれを皆に見せるようにテーブルの上に置いた。
魔法力有、という短い言葉と共に緑色のランプが点滅している。それを見た時音以外の面々は「やっぱり」「本当に時音さんが」など口々に感想を言い合った。
「時音ちゃんにはやはり魔法力があるみたいだね」
「ほ……本当なんですか!?」
「この機械は簡易的なもので単純に魔法力の有無しか測れないんだが、結果は間違いない。さっき時音ちゃんが来る前に怜二が三回も試していたが一度も反応しなかったしね」
先に怜二に魔法力がないのが分かっていたので、影人を止めたのが時音だと潤一はほぼ確信していたのである。
「それで時音ちゃん。魔法力があると分かった所で改めて、ぜひ君に藤月学園へ来て欲しいんだ」
「……あの、いまいちどう繋がるのか分からないんですけど」
「あ、しまった。その話がまだだったか」
うっかりしていた、と潤一が手を打つとそれを見た隣の父親が「実はね」と代わりに話し始めた。
「藤月学園は魔法力のある人を集めて魔法士を養成するための学校なんだ」
「はい?」
「だから生徒の一般募集もしない。魔法力は基本的に遺伝するから、家族ぐるみで藤月に通う人も多いんだ。私達夫婦も藤月出身でね」
「僕も三年から藤月の中等部へ転校することになりました」
「そう……なんだ」
時音は頷きながら、怜二があれだけ藤月学園に拘っていた理由が分かったような気がした。三葉のことは知らなかったにせよ、家族の殆どが藤月に通っていたのなら、それに選ばれない自分に強いコンプレックスを抱いても仕方がない。
「影人は人を襲う。そしてそれに対抗できるのは魔法士だけだ。だから彼らから表の世界を守るために魔法の才能を伸ばして育成する機関が必要になった。それが藤月学園だ」
「表の世界って、どういう……」
「影人は、この世界とは違う場所から出てくる」
「へ?」
「所謂、裏世界と呼ばれている。この世界を一枚捲った先にある暗い闇の世界だ。影人はそこから現れて、表世界を侵食しようと常に狙っている」
「ちょ、ちょっと……待って下さい」
いきなり話が壮大になったことに時音は少々眩暈を覚える。しかもそれを話しているのが普段嘘など言わない隣の家の大黒柱なのだから、彼女は素直に信じればいいのか笑い飛ばせばいいのか分からない。
微妙な表情をしていた時音を見て、父親が小さく笑う。
「まあ細かいことは今はいい。とにかく魔法力を持つ人間は貴重なんだ。時音ちゃん、どうか藤月学園へ来て魔法を学んではくれないかな」
「そんなこと言われても……」
「潤一、いきなりそんなこと言われても時音ちゃんも信じられないと思うわよ。一度魔法を見せて上げた方がいいんじゃない?」
「それもそうか、百聞は一見に如かずって言うし」
「え」
母親に促された潤一が頷いて時音に向かって手を差し出す。手のひらを上にした彼は「ちょっと見ててご覧」と彼女に告げた。
その瞬間、手のひらの中で突然風が巻き起こった。
「うわっ」
「これが魔法だ」
覗き込んでいた時音の顔に風が当たる。驚きながらも恐る恐る手を伸ばした時音は、その風が本当に潤一の手から発生しているものだと理解し、そして言葉を失った。
昨日もそうだ、潤一が現れた瞬間に不自然なほどの強風が吹き荒れた。色んな角度から見ても、何やら仕掛けがあるようには思えない。
「じゃあ私も」
「え……ええっ!?」
驚く時音をにこにこと見ていた母親がそう言うと、彼女は宙に円を描くようにぐるりと指先を動かした。するとそれに合わせるように突如水が現れて宙に輪を作ったのだ。潤一がやった風とは違い、宙に浮く水のリングは自然現象でもこんなことは出来ないだろう。
「……私も、こんな風に風を起こしたり水を出したり出来るって言うんですか?」
「魔法力の属性は色々あるから時音ちゃんがどうなのかはちゃんと調べてみないと分からない。だけど科学では証明できないような何かしらの現象は起こせるはずだ」
「……」
「時音ちゃん、藤月に来てくれないか。君の力で助かる人間がいるんだ。……それに、また突然君が魔法を使ってしまって、その時の周囲に他の人間がいたらどうなると思う?」
「それは」
「今回目撃したのが運よく私と怜二だけだったから良かったが、次もそう上手く行くとは思えない。魔法士になった全員が影人と戦う訳ではないけど、ただその力のコントロールを身に着けておかなければ後々大変なことになる」
「……私は」
時音は困ったように周囲を見回す。二階堂家の父、母、潤一、三葉。全員が真面目な顔をしており、寄ってたかって時音を騙そうとしているなど到底思えない。
もしこれが見知らぬ人間だったとしたら時音は悩むことなく騙されていると判断しただろう。だが信じられないような話をしているのは幼い頃から沢山世話になって来たお隣さんだ。
「……時音さん」
「分かりました」
三葉が彼女の名前を呼んだ所で、時音は決心したように顔を上げた。結局彼女の判断基準は、いかに荒唐無稽な話を受け入れられるかということよりも、二階堂家の人々を信じるかという方に寄っていた。
第一志望の高校も、元々確固たる理由もなく一番近いという理由で決めたものだ。
時音が了解の言葉を返すと、潤一は嬉しそうにほっと息を吐いた。
「よかった。うちの学校は生徒が少ない分一人一人への指導もしっかりしているし設備も充実している。魔法と関係なくても良い学校だと自信を持って言えるよ。まあ寮生活にはなってしまうけど」
「あ……そうだった」
「その辺は周防さん達とも話し合ってもらわないといけないね。ところで……一応聞くけど二人は魔法は使えないんだね?」
「うちの両親ですよね。そんな話は聞いたことないですけど」
もし耳にしていたらもっと藤月へのスカウトに悩むこともなかっただろう。しかし時音がそう言うと、途端に潤一は訝しげな表情を浮かべた。
「血筋に関係なく魔法力が発現するのは非常に稀なんだ。親戚の誰かが魔法士の可能性はあるが……その辺も調べなければならない。時音ちゃん、近いうちに戸籍謄本を用意してくれるかな。入学の細かい手続きはこちらで行えるから」
「戸籍謄本ですか?」
「ああ、また時音ちゃんの家系で魔法士が現れるかもしれないからね。今の内に把握しておかなければならない」
「分かりました」
「今日話したかったのはこれで全部だ。色々分からないこともあると思うけど、その時は父さんか母さんに聞いてもらえば大体答えてもらえると思う。……時音ちゃん」
「はい?」
「藤月へ来てくれてありがとう。教師として、改めてこれからよろしく」
ふっと微笑んだ潤一が時音に手を差し出す。先ほどとは違い風が吹き荒れる訳でもないその手を、彼女は少々緊張しながら握った。
「よろしくお願いします、二階堂先生」