15話 和解
「……あ」
詠の頭の中に自然と思い浮かぶ風景。校内にある体育館の隣にある木々、そしてその内の一つの木に、生い茂る葉に紛れ込むようにきらりと光る金色が見えた。
「ああっ!」
「詠?」
「見えた!」
叫んだ瞬間に詠は目を開けて走り出していた。頭の中に残る記憶を頼りに真っ直ぐ運動場を横切って体育館まで走り切ると、詠は下から木を見上げて、その枝にチェーンが引っ掛かった懐中時計を見た。
考えるよりも先に幹の窪みに足を引っ掛けて登り始めた彼女は、片手で枝を掴み体を押し上げて時計に向かってもう片方の手を必死に伸ばした。
「とれ、た……っうわ!?」
指先で掠めるようにチェーンを掴んだ詠がバランスを崩す。ずるりと幹に引っ掛けていた足が滑り、そのまま視界がぐるりと反転した。
「詠!」
慌てて追いかけて来た甲斐が手を伸ばすが一歩届かず、詠は背中を強かに打ち付けて地面に落ちた。
「いったた……」
「大丈夫か!」
「へーきへーき」
珍しくいつもの無表情を崩した甲斐に詠は笑って片手を軽く振り、そして手の中にある懐中時計を確認する。蓋を開けてみれば時計は壊れることなくカチカチと音を立てて正常に動いている。地面に直接落ちなかったのがよかったのだろう、不幸中の幸いだ。
「早く時音に渡さなくちゃ。……あ、そうだ」
勢いをつけて寝転がった体を起こした詠は、立ち上がる前に再び両膝を着いて祈るように目を閉じた。
「……助けてくれて、ありがとう」
「……本当に、よかった」
再び自分の元へ戻って来た懐中時計を握りしめ、時音は安堵で零れそうになった涙をそっと拭った。
「よかったな」
「うん……詠、皆、本当にありがとう」
時音は顔を上げて全員に向かってお礼を告げる。目を潤ませながらも気の抜けた笑顔を見せた時音に、一同も釣られるように表情が緩んだ。
「なー、時計も戻って来たことだし、一件落着ってことで気になってたこと聞いてもいいか?」
「あ、あたしも聞きたいんだけど。時音と二階堂っていつからそんなに仲良くなったの?」
皆で教室へ戻る途中、ふと思い出したように御影と詠が声を上げた。二人の視線の先にいるのは、並んで歩く時音と怜二だ。
今まで碌に話していなかった二人が急に親しくなっているのを不思議に思うのは当然で、華凛も「そういえば」と手を打って首を傾げた。
「家が隣だ」
疑問を浮かべる面々に、怜二は実に簡潔に答えを提示する。
「え、じゃあ幼馴染ってやつ?」
「成程、どうりで周防がやたらと二階堂のことを気にしていた訳だ」
「す、鈴原君何言ってるの!?」
「よく見てるな、と思っていただけだ」
いつものように淡々とした声であっさりと指摘を受けた時音が動揺する。彼女はちらちらと怜二を窺うようにするが、怜二はというと、今の言葉を大して気にしていないようだった。元々よく知った仲なのだから気にすることを特別不思議に思わなかったのだろう。
「でも、どうして今まで言ってなかったの? 全然話してなかったけど……」
「それは、こいつが入学式の日にやたらと突っかかって来て」
「怜二だって売り言葉に買い言葉だったし。それにその後は私の属性のことで拗ねてたじゃん」
「なんだと」
「なによ」
「お前ら、喧嘩するな」
懲りずに言い争いになりかける二人に、甲斐が少々呆れを含んだ声で窘める。
「喧嘩するほど仲がいいって言うけどなー。ところで時音、その時計って相当大事なものなんだろ? 何か訳でもあるのか?」
「お前には関係ないだろ!」
「いや、何で怜二が怒るんだよ? もしかしてお前からのプレゼントとか?」
「違うよ。……怜二、気にしなくていいから」
「こいつらに言うのか」
「時計一緒に探してくれたし、それに、皆だったら話せる」
「……」
不機嫌そうに眉を顰める怜二に時音は笑ってみせる。怜二が気に掛けてくれただけで、時音には十分過ぎるくらい嬉しいのだ。
片手に時計を握りしめながら、時音は穏やかな表情で御影達を振り返った。
「私、自分の本当の両親を知らないの」
「え……」
「生まれた頃から施設にいて、それから今のお父さん達に養子にしてもらった。だけど、この時計だけは本当の両親が残してくれた唯一のものだから」
「そ、っか……そりゃあ大事なものだよな」
「ごめんね、何か重い話で。とにかくこれ、私にとってすごく大切なものなの! だから皆、探してくれて本当に――」
ありがとう、と時音が言い掛けながら廊下の角を曲がろうとしたその瞬間、その先に立っていた人に気付かずに足を踏み出した彼女は思い切り体をぶつけ、背後に転びそうになった。
「うわっ、ごめんなさい……あ」
「……」
時音が顔を上げて衝突した人に謝ろうとする。しかし目の前に立ち尽くしていた男が誰か気付くと、彼女は小さく声を上げて思わず顔を強張らせた。
時音を見下ろして気まずげな表情を浮かべていたのは、先ほど彼女の時計を盗んだ上原だったのだから。
「上原、お前!」
「怜二、止めなさい」
固まった時音の隣で上原に掴みかかろうとした怜二の手を、更に上原の後ろから現れた潤一が掴んで止める。しかし怜二はそれを思い切り振り払うと困ったような表情を浮かべる兄に向かって「邪魔するな!」と叫んだ。
「今にも殴り掛かりそうなら邪魔もするよ。お前が暴力事件でも起こしたら余計にややこしいことになる」
「先生、どうしてここに?」
「今まで教室で事情を聞いていたんだ。……周防、時計は?」
「あ……皆が探してくれて見つかりました」
「そうか、ならよかった。……上原、周防に言うべきことがあるな」
「……」
「上原」
「……悪い」
「え?」
「だから、悪かったって言ってるんだ!」
先ほどまで時音を笑っていた上原の謝罪。時音が思わず聞き返すと苛立ったように声を上げたものの、すぐにばつが悪そうに目を逸らした。
「……ちょっと魔が差したというか、そんなに大事な物だと思わなかったし……」
「もしかして……今の、聞いてたの」
「わざと聞いたんじゃねえ! 聞こえたんだよ! ……だから、悪かったよ」
時音は怪訝な顔で上原を見上げた。先ほど酷いことを言われたことははっきりと覚えているし、大事な時計を盗んで捨てた人間を簡単には許したくはない。
だが、謝られているのにこのまま許さないと突っぱね続けるのも気が引ける。時音は暫し考えた後「いいよ、もう」と呟くように言った。
「見つかったし、壊れてもなかったからもういい」
もしあのまま見つからなかったら時音はきっと上原を許すことなど出来なかっただろう。しかし、今はもう手元にあるだけ十分に気持ちが落ち着いていた。
「上原、職員室でまだ少し話がある」
「……はい」
そう言って潤一と上原は時音達から離れていく。
「時音、よかったの?」
「お前も言い返してやればよかったんだ」
「いいって。もう、これが戻って来ただけでいいから」
時計を耳に当てる彼女を見ながら、詠と怜二は不満げな顔で時音を見る。
「でも上原君……結構お調子者で口悪いけど、あんなことする人だと思わなかったな」
そして華凛は一人、廊下の奥に消えて行った上原の後ろ姿を見送りながら思わず、と言ったように呟いた。
「……本人も言ってたけど、魔が差したんだろ」
「椎名君?」
「怜二みたいに表に出さなくても、内心ではずっと時音が妬ましかったんだろ。人間なんて、誰だって裏では妬んだり憎んだりしてるものだからな」
「……」
独り言のように、廊下の先を見ながら御影が淡々とした口調で言う。いつもの溌剌とした態度とは全く違う冷めたその横顔に、華凛は目が離せずに御影を見つめていた。