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短編小説

シャッター/この目にうつるものは

作者: 寺町 朱穂

 

 写真は、世界の一部だ。


 レンズを覗いてシャッターを押せば、世界を切り取ることができる。

 それは静かにかまえた深い緑の山、風に吹かれ囁きあう木立、大海原に走る白馬のような波の連なり、大好きなあの子が袴を捲し上げながらゴールに向かって全力で疾走する姿……そんな、なにげなくとらえた日常のワンシーンや一瞬の輝きをフィルムに焼き付け、永遠に残しておくことができる。

 それらを自分で大切にとっておくことだってできるし、遠くに住んでるあの人へ渡すことだって可能だ。

 私は絵も文章で表現することも苦手だから、これほど素晴らしい技術はない。


 だから、東京の叔父さんから


「八千代の欲しいものを、なんでも買ってあげよう」


 と聞かれたとき、この機を逃すまいと主張した。


「カメラが欲しい!」


 って。

 そのあと、父から拳骨をくらった。


「女にそんな高価なものは必要ない」


 と、父は額に筋を立てながら怒鳴る。

 私は頭を抑え、むすっと頬を膨らませながら……父の意見に半分同意してしまっていた。


 私の村は、内地から離れた小島だ。

 東京のほうではどうだか知らないが、徳川の世が終わってから50年以上経つというのに、取り巻く環境は大して変わっていないらしい。

 私の生まれる二十年前まで、女の子は学校に通わせてもらえなかったらしいし、女の子は船を見送るときに浜まで降りたら怒られる。学校が終わったら、すぐに近所の赤ん坊の子守りをしなければならない。こうして、叔父さんの話を聞いている今だって、ミー姉ちゃんのとこの赤子を背負っている。


 正直なところ、男の子が羨ましい。


 男の子は、学校が終わったら、思いっきり山でも海でも遊ぶことができるのに。

 兄さんたちが強請ったラジオや玩具に対して、父は苦笑いをしながらも怒らなかったのに。


「わかったか!? 女のくせに物を欲しがるなど、なんてはしたない!!」


 胸の中に悔しさや虚しさがふつふつと浮かんできた。でも、そんな反論は口が裂けても言えないし、表出したところで父が怒り狂うのは反応は火を見るより明らかだ。だから、思いをすべて押し殺すように、こぶしをぎゅっと握りしめる。


「まったく、カメラなんて高価なものを欲しがるとは……そこは『いりません、私は遠慮します』と答えるのが良識のある女子というものだぞ!」

「まあ兄さん、落ち着いて。……そうかそうか、八千代はカメラが欲しいんか」


 ところが、叔父さんは大笑いしながら、私のひりひり痛む頭を撫でてくれた。

 なんでも、出稼ぎにでた東京で起こした事業とやらが大成功し、火を灯して明かり代わりにしてもいいくらい金が余っているらしい。


 その約束通り、数か月後――私宛の箱が数個届いた。

 私の小さな手にあまるくらい大きな一眼レフカメラ。

 叔父さんの手紙によると「欧州(よーろっぱ)から流れてきた、いわくつきの中古もの」らしいけど、太陽の日差しを浴びて優しく反射する黒色の外装は、黒曜石のように輝いている。

 もちろん、私はカメラに没頭した。

 説明を受け、ちょっとおっかなびっくり風景をフィルムに閉じ込めた。学校の暗室を借りて現像するのは大変だったけど、最初の1枚が完成した時は感動のあまり、思わず


「すごい! 魔法みたい!!」


 なんて、みっともないくらい大きな声を上げてしまった。

 それからは、夢中になって村中を撮って、撮って、撮りまくった。子守をしながらだったから移動は大変だったけど、嬉しくてたまらなかった。

 だけど、


『お前はかなり上達したし、村一番のカメラマンだろ?

 なら、これだっ!と思った写真を一発で撮れ。フィルムだって高いんだから』


 って、()()()に注意されてからは、少し控えるようになった。


 あいつに指摘された通り、自慢ではないが村一番のカメラマンになっていたと思う。事実、式典の時や村の結婚式のカメラ係は、いつのまにか私の仕事になっていた。


「これも、あなたのおかげだよ」


 端切れでカメラを拭きながら、私はあいつにお礼を言う。

 実のところ、撮影技術が上達したのも、高価なカメラが奪われずに済んだのも、寂しくてつらいだけの日常に光を差し込んでくれたのも、独力では無理だった。すべてこのカメラのおかげである。

 否、正確に言えば違う。


 私のカメラについている付喪神(あいつ)のおかげだ。


『当たり前だ。この俺様が指導したんだからな』


 あいつはふんっと鼻を鳴らした。

 そもそも、外国のカメラに付喪神が宿るなんて、変な気がするし、本当はカメラに憑いただけの幽霊なんじゃないかとも思うけど、本人が「付喪神」と言い張るのでそう呼ぶことにしている。


 あいつは非常に美しい。

 レンズを思わす水色の瞳は吸い込まれそうなほど美しく、カメラと同じ黒い髪は絹糸のように滑らかで、思わず触りたくなってしまうほどだ。着物は黒一色で柄もなく、世辞にも質が良いものとは言い難いが、まるで高級呉服店で仕入れた一等物のように着こなしている。たとえ、同じ着物を村一番の美丈夫が着ても、あそこまで着こなせまい。

 きっと、あいつは東京の華族様より美人だと思う。

 あまりにも奇麗だから写真に残したいけど、現像しても風景ばかりで付喪神が映った例はなかった。


「でも、どうして悪戯するの?」


 私は疑問を尋ねてみた。

 このカメラは「いわくつきの中古品」。

 いわくつきなんて触れたがらないだろうが、まあ、普通、格下女子がカメラなんて高価なものを手に入れた途端、乱暴者の男の子たちに横取りされ、そのまま取り返すこともできず泣き寝入りするのが鉄板で、事実、数度、このカメラを奪われたことがあった。

 でも、不思議なことに、次の日には戻ってきた。

 付喪神曰く


『そりゃ、俺だって低級ながらも神だからな。依り代を崇めてくれそうな持ち主に使ってもらいたいわけ』


 だ、そうだ。

 男の子たちが取り返しに来ることもなく、そればかりか、一度、このカメラを手にした者は二度とカメラに興味を示さなくなっていた。絶対、あいつが何かしたとしか考えられないが、そんなことよりも戻ってきたこと自体が嬉しかったので、ことの詳細については聞いていない。


「ふーん、そうなんだ。それなら、私以上に崇めてくれて、大切に使ってくれる人がいたら、その人のところに行っちゃうの?」

『ま、そうなるな。だから、俺を大切に使えよ』


 付喪神はそう言うと、土壁に寄り掛かった。

 そして、あいつが何か言葉を続けようとした、その瞬間だった。


「八千代、小次郎君からお手紙よ」


 ふすまが開けられ、母が入ってきた。

 母の手には茶色の封筒が置かれている。


「本当っ!? ありがとう!!」


 私は背中にミー姉ちゃんの赤子がいることを忘れ、勢い良く立ち上がった。

 あまりに急に動いたものだから、赤子は驚いて起きてしまったらしい。肩のあたりから世界を貫くような鳴き声が放たれ、耳の奥がつーんと痛んだ。


「まったく、あんたって子はねぇ、少しは落ち着きというものは覚えたらどう?」

「ごめんなさい」


 よしよしとあやしながら、大好きな人からの手紙を受け取った。


「で、さっき部屋から声が聞こえたけど、誰と話してたの?」

「気のせいじゃないかな? お母さん、疲れてるんだよ」


 私はいつも通り、そう言った。

 どういう原理かわからないが、付喪神はカメラ所有者……つまり、私にしか見えないらしい。

 母は「そうかしら」と首をひねりながらも、忙しいのだろう。すぐに部屋を出て行ってしまった。母が出ていき、赤子が泣き止むと、さっそく私は封筒を破った。


『小次郎って、誰だよ?』


 あいつはどこか怒ったような口調で尋ねてきた。顔も不機嫌そうに歪んでいる。


「内地に出稼ぎに行ってる子だよ」


 私は赤子を驚かさないように声を潜めながら、それでも、どこか声が弾んでいた。


『出稼ぎだ?』

「別に珍しいことじゃないよ。小次郎君は次男だし」

『だがよ、出稼ぎに行ってる奴なんて大勢いるんじゃないか? お前んとこの2番目の兄さんも行ってるだろ? そいつのときと反応が違いすぎるぜ?』

「そりゃそうだよ!」


 私は首を縦に振った。

 もう嬉しすぎて、私は自分の顔がだらしなく緩んでいるのが分かった。


「小次郎君はね、私と結婚の約束をしたんだよ」


 そう口に出すと、顔に熱が集まってきた。耳まで燃えているようだ。


「いいなずけってわけじゃないんだけどね、小次郎君が島を出るときに約束してくれたんだ。

『大きくなったら、嫁にもらってやる』って」


 最初は、ただの顔なじみだった。

 男女は一緒に遊ぶことはないし、教室ももちろん、学年だって小次郎君のほうが2つ上だ。

 私たちの接点は、ただ隣に住んでいるということだけ。

 しかも、小次郎君は勉強熱心で外に出てくることは極めて稀だった。たまに窓から見える横顔は分厚い本に冷徹なまなざしを注いでいて、身体も大きくガッチリしていた。だから、最初は本当に少し怖かった。他の人とは違った雰囲気を子供心にも感じたものだ。


 でも、村人から浮いている分、私みたいな はみ出し者の女子に優しくしてくれた。


 あの頃……男子にたったひとつ自分のものだったマリを海に投げ捨てられ、おいおい泣いていた時、慰めてくれたのは両親でも兄弟でもなく、小次郎君だけだった。

 小次郎君は武骨な手で私の頭をなで、ちょっと恥ずかしそうに言葉を選びながら、


「お前は悪くない」


 と、口にしてくれた。

 夕日に染まり、ほんのり赤くなった小次郎君の頬を見て、涙よりも胸の中に甘酸っぱい感情が溢れ出てきた。

 今思えば、あの瞬間、私は恋に落ちていたのだろう。

 小次郎君も顔を赤らめながら


「だいたい、男が一番っていう時代が古い。列強諸国では()()()()()()文化というものがあって、女性には敬意を払うのが当然とされているのだ。なにもしていないのに、おなごだから意地悪をしてもいい、うさばらしをしていいなど、言語道断!」


 と、まるで自分のことのように怒ってくれた。

 これまで、私のために怒ってくれる人なんていなかった。

 両親でさえ、我慢しろの一点張り。むしろ、我慢できないお前が悪いといわんばかりだったのに。


 それ以来、私は小次郎君と一緒に過ごした。

 私がそばに行くと、彼は少し迷惑そうな顔をしたあと「静かにしているなら、いいよ」と言ってくれる。そのうち、私にいろいろと物事を教えてくれた。カメラを教えてくれたのも彼だった。


 そう、私がカメラを欲したのは彼のためだ。

 彼が島を離れても、ずっと景色を忘れないように。

 小次郎君の故郷は変わらないよ、と伝えられるように。


 だから、私は今日もシャッターを切る。


「……ほら、ここを読んでみて、付喪神!

 小次郎が東京の会社で表彰されたんだって! すごいね! あ、ここに写真のお礼も書いてある!!」

『……だがよ、男ってのは移り気なもんだぜ? ただの口約束の許嫁なら、はやいところ忘れたほうがお前のためだと思うけどな』


 しかし、せっかくの甘い気持ちをすべて水で流されてしまう。

 私はおもいっきり付喪神を睨みつけた。


「そんなことないよ! ほら、私に会いたいって書いてるもの!」

『んなの社交辞令に決まってんだろ。わざわざ高価なカメラで撮った写真同封ともなれば、お礼するのは当然。むしろ、お近づきになって、あわよくば金を引き出そうと……』

「そんなこと、小次郎君が考えるわけない!!」


 思わず大きな声で叫んでしまい、あっっと口を塞いだ。

 幸い、背中の赤子は少し不快そうにぐずっただけで、それっきりだった。私はほっと胸を落とした。


「ともかく、この人は私の大事な人なの。悪く言うのは許さないから」

『あ? 俺はお前を心配して言ってるんだぞ!?』

「心配なんてしなくていいよ。だって、あなたはカメラの付喪神でしょ!? いいなずけのことに口を出さないで!!」

『……あー、そうですか、そうですか!だが、一応忠告はしたからな』


 それっきり、あいつはぷいっとそっぽを向いてしまった。

 いつもは口から生まれてきたのではないか?と思うくらい口達者なはずなのに、気味が悪いほど黙り込んでしまっている。

 少しだけ言い過ぎたような気もしたが、謝る気は毛頭なかった。


 だって、あいつは小次郎君の悪口を言った。

 カメラとしての性能は認めるし、今までの恩はあるけど、それはそれ。これはこれだ。


 今回のことは、絶対に許すものか。 


 私のあいつの関係は、そのまま平行線をたどった。

 仲が進展することも、悪くなることもない。

 ただ……私たちは、いつも一緒にいた。

 だって、私が小次郎君のためにカメラを持ち歩いているから。必然的にあいつも背後霊のようについてくる。そりゃ、ずっと黙っているのはきまりが悪いから雑談くらいはするし、ちょっとだけ勉強を教えてもらうこともある。

 でも、小次郎君の話題は皆無だった。

 2人とも無意識のうちに避けていたのかもしれない。

 とはいえ、私が小次郎君に送る写真を撮るとき……きっと、付喪神はその空気を感じるのだろう。眉間にしわを寄せ、いやそうな顔をする。

 何か思うところがあるなら、言えばいいのに……と問いただしたくなるが、いいなずけのことに口を挟むな!と言ってしまったのは自分自身だったし、小次郎君のことを否定されたくなかったので、私は無視することにした。


 そのまま月日は流れた。

 最初は2週間に1回の手紙が1か月に1回になり、2か月、3か月、しまいには半年に1回になった頃、いつもとは少し毛色の異なる手紙が届いたのだ。

 その文面に目を通した途端、私は勝ち誇った笑みを浮かべてしまった。


「付喪神、見なさい!

 小次郎君、島に戻ってきてくれるって!」 


 白い息を弾ませながら、私は付喪神に勝利宣言をした。

 小次郎君のことを話してから、実に五年も経っていた。


「しかも、私に大事な話があるそうよ!

 誰だったかしら? 私が捨てられるって言ったのは?」

『……そうですか、おめでとさん、おめでとさん』


 私は久しぶりに頬を膨らませた。

 付喪神の答えには、誠意がまるで感じられなかった。そのことを指摘すれば、あいつはつまらなそうな表情でこう付け足した。


『許嫁のことにはかかわらないっていわれたものですからねー』

「……それは、子供のころの口約束でしょ。素直に祝いなさい」

『子供のころであれなんであれ、()は持ち主との約束を破るつもりはないって決めてるんだっての』


 やけに「俺」のところだけ強調して言ってくる。

 まるで、私や小次郎君が約束を守っていないとでも言いたそうな様子だ。 

 ……いや、私は今、その約束を破っていたが。


「……それは、ごめんなさい。でも、あれは約束というより喧嘩で出た言葉であって……」

『言葉でも残るんだよ』


 あいつはぶっきらぼうに呟いた。


(カメラ)で撮った写真は永遠に残る。目に見える形でな。

 それに比べたら、言葉は目には見えないし、一瞬で消える。けどな、それでも、言葉だって永遠に残るんだぜ、ここに』


 そういいながら、あいつは自分の胸を叩いた。


「セリフが臭いよ。おじさん臭い」

『おい、俺、結構いいこと言ったのに、その反応はひどいんじゃないのか?』

「……ごめん」


 でも、付喪神の言うとおりだ。

 私も小次郎君と交わした言葉は、消えずに胸の内に残っている。

 そのとき肌で感じた空気、感じたこと、手のぬくもりや匂い……すべてはとっくの昔に消えてしまったことだけど、そのすべてがあの時から切り取ったかのように、私の心に生き続けている。


 そう、写真のように。


『わかればいい。で、想い人は、いつ戻ってくるんだ?』

「えっと……あ、明日だよ!」


 明日だ。

 明日になれば、小次郎君に出会える。

 私は喜びのあまり、手紙をくしゃっと握りしめた。


 私の写真は送ってるけど、小次郎君からの写真はないから、どのように成長したのかはわからない。

 東京のおいしいものを食べて太ってしまったとしても、逆に都会の水が合わずにやせてしまったとしても、どちらでも構わない。 

 だって、小次郎君は小次郎君だ。どんな姿でも好きだし、会えばきっと、一瞬でわかる。


 そう、私は小次郎君が大好きだ。

 いや、違う。

 大好きなんて軽い言葉ではない。

 小次郎君を愛している。その感情に果てはなく、心の底から狂おしいまでに愛している。

 もし、彼が地獄に行くならば、自分も地獄の底まで共にしよう。


「ああ、早く会いたいな。本当は迎えに行きたいよ」


 その日は眠れなかった。

 薄い布団の肌寒さを感じながら、青暗い天井を見上げる。


 明日の朝、東京からの船が着く。

 それに小次郎君は乗っている。

 この村には港がないから、船は沖合で止まり、荷物や降りる客は艀に乗ってやってくる。

 こっそり、言いつけを破って浜まで降りてみようか。でも、女がそんなことをしたら叱られるから、崖の上で待とうか。それとも、もっと見晴らしの良い丘の上で待とうか。いやいや、浜ぎりぎりまで下りて出迎えたほうがいいのか。


『でもよ、今は冬だろ? 波が高くなる時期だぜ? 船が止まるかどうか分かったもんじゃない』

「そんなこと当日にならないと分からないよ。それに……」


 本当に降りたい人がいるときは、船は多少波が高くても停まってくれる。

 今回の小次郎君の帰省は、私に会って正式に婚姻を交わすためだ。とはいえ、船代は安くないから、彼だってそう何度も来ることはできないし、女の私から内地へ行くことは不可能に近い。

 だから、船長に抗議してでも停めてもらうように頼んでくれるに違いない。

 小次郎君なら、私に優しくて、大切にしてくれた彼なら、そう行動してくれるはずだ。


「きっと……船長に頼んでくれるよ」


 だって、彼は東京へ行く前、私の手を優しく握りしめながら


「大きくなったら、嫁にもらってやる。絶対に戻ってくるから、そのときに結婚しよう」


 と約束してくれたのだ。

 ああ、たしかに付喪神の言う通り、口約束かもしれないが、小次郎君は頭が良くて、村人の誰よりも何でも物知りだった。きっと、言葉だって写真のように心に残り続けることを知っているはずだし、私のために怒ってくれた優しい彼が約束を破るなんて考えられない。

 今まで送られてきた手紙にだって、何度も何度も「大好きだ」と書かれていたではないか。


 それならば、自分も彼の想いに答えなければならない。

 きっと、船を降りて彼はまっさきに私を探してくれるはずだから。

 私は少しでも早く、彼に一目で見つけてもらえる場所にいなければならないのだ。


「私、行かなくちゃ!」


 気が付けば、もう東の空が白み始めていた。

 夏と比べて、冬の船は早く着く。小次郎君は「海流が原因だ」なんて難しいことを言っていたが、私が大事なのは「早く着く」という一点だけだ。

 下手したら、あと数十分で着くのに、このまま肝心な時に寝落ちしてしまったら目も当てられない。私はカメラに手を伸ばした。


『行くって、どこに!?』

「崖まで! 船が来るのを待つの」


 私は着物の上から半纏を羽織ると、藁沓に足を滑り込ませ、外へと飛び出した。

 あいつが


『お前、早すぎだって! 崖まで五分で着くだろ? もう少し家の中にいないと風邪ひくぞ!』


 と叫んでいたが、その忠告に耳を傾けなかった。

 そりゃ、もちろん寒い。なにせ、路には雪が残っている。村人に除雪され、踏みしめられ、降ったばかりよりかは歩きやすくなっているとはいえ、まだ気を抜くと足元を奪われてしまう。しかも急くあまり、何度も滑って倒れこみそうになった。

 それでも、すべては小次郎君に会うためだ。氷上の雪にくじけることなく、ずんずんと海が一望できる崖まで歩みを進めた。


『おいおい、鼻が赤くなってきたぞ。風も強いし、やっぱり、一度戻って火鉢で体を温めたほうが……』

「ダメ! 小次郎君に会えるんだから! あと少しで……だったら、風邪をひいてもいい」


 今の私はだれにも止められない。

 きっと、両親が力づくで抑えてきても、それを振り切って崖まで行く自信があった。白い息を吐きながら坂道を上りきると、目の前に海が広がっていた。下に視線を向ければ白い砂浜が広がり、視線を徐々に上げていけば、暗い海が見えた。果てしなく広がる黒い海に白い波。その遠く遥か向こう側に隣の島の灯台がぽつんと見える。海に浮かんだ星のように輝く灯台を見つめながら、私はくしゅんとくしゃみをした。


『なあ、やっぱり帰ろうぜ? 船が近づいたら警笛が聞こえるだろ? ほら、震えてるじゃねぇか。歯がカチカチ言ってるぞ?』

「大丈夫だよ、心配しないで」


 海がはっきり視認できる高台なだけあって、ほかの場所より風が強かった。 

 正直、こうして立っているだけで爪先がじんじんとしてくる。


「小次郎君に会える。小次郎君に会えるなら、私は……」


 この程度の寒さ、我慢できる。

 だって、小次郎君が温めてくれるはずだから。



 そう、思っていた。





 しかし、思いむなしく、船は停まらなかった。

 船は島の沖合はるか遠くを通り過ぎていく。朝日を浴びて、白く光りながら、次の島に向けて進路を進めて行ってしまう。

 もちろん、波は高い。

 白くて大きな波が幾重にも連なり、海を端まで駆け渡っていく。

 冬特有の高い波模様。空は惚れ惚れするくらい雲がなくて、自分が透明になってしまいそうなくらい青く澄んでいる。でも、身体に吹き付ける風は冷たく、幼子なら飛ばされてしまいそうなくらいの突風だった。

 これでは、船をつけることはできない。


「きっと抗議したんだけど、無理だったんだね」


 私は小さく呟いた。


「……でも、会いたかったな」


 この冬の風が憎いと思った。こんなにも強い風なのだから、そのまま私を攫って船まで吹き飛ばしてくれたらいいのに、とさえ思える。

 数年ぶりに、目が熱くなった。

 小次郎君と離れ離れになったあの日以来、流れていなかった涙が頬を伝う。


「笑いたければ笑いなさいよ。みじめな女だって」

『……いや、笑わないぜ』


 付喪神は私の優しく肩をたたいた。


『ただ船が停められなかった。艀を下せなかった。それだけだ』


 冬なのに、どうしてだろう。

 耳が取れそうになるくらい寒いのに、不思議と触れられた場所だけ春みたいにぽかぽかする。

 小次郎君に会えなくて、せつなくて、つらくて、寂しくて、もう狂いそうなくらいつらいのに、心の隙間の部分は日差しが当たったように温かい。


 この感情は、なんて言うのだろう?


「……そうだね、付喪神」


 けれど、その感情を深く考えてしまうと、今まで積み上げてきた何かがなくなってしまいそうで、急に怖くなった。

 だから、私はやっとの思いで返事だけを口にした。




 それ以降、小次郎君から手紙は来なかった。

 いや、たった1通だけ来た。



 それは、私が死ぬ直前。 


 付喪神の指摘通り、私は結局、風邪を引いた。

 ただの風邪かと思って油断していた。でも、熱はどんどん高くなり、身体の節々が痛み出す。母が額に乗せてくれた雪や氷は瞬く間に解けてしまうほど熱が上がった時には、自分でも「もう駄目かもしれない」と感じた。


 この島に、医者はいない。

 隣の島まで連れて行こうにも、波が高くて船が出せない。

 母は泣いてくれた。父は「情けない。もっと強くせい」と涙を見せなかったが、声はどこか震えていた。兄たちが葬式饅頭の手配をし始めている声が遠くから聞こえる。

 その反応から、自分は死ぬのだと悟る。

 不思議と、死ぬことは怖くなかった。

 ただ、小次郎君に会えないことが寂しかった。


「小次郎君からの手紙はきた?」


 私はうわごとのように呟く。


「ねぇ、お母さん。小次郎君に、手紙を書いて。会いに来てって。最期に、あの人の顔を見たいの」


 でも、両親は口を濁すばかり。

 手紙を書こうともしてくれない。どうしてなのだろう。

 その疑問に答えてくれた人物は、すぐ近くにいた。


『きたぜ、手紙』


 足元から静かな声が聞こえた。

 付喪神だ。

 小次郎君とは違って、女みたいに細い指で茹蛸のように熱い手をさすってくる。付喪神から体温を感じない。冷たいわけでもなく、熱すぎもしない、ちょうどよい心地よさを覚えた。


『あいつ、すぐにお前の後を追いかけるってさ』

「……そっか」


 私の位置から、付喪神の顔は見えない。


「よかった。小次郎君、やっぱり、私のこと……」


 大切に想ってくれていたんだ。

 私は、小次郎君に捨てられたわけではなかったんだ。本当に、船が止められなかっただけだったんだ。

 その言葉を聞けただけで、少し安心した。


『ああ、安心しろ。あいつが追いつくまで、俺が一緒にいてやる』


 もう身体を動かすのも億劫だった。だから、あいつの顔を見る代わりに、私は枕元のカメラに視線を向けた。黒々としたレンズに、青白く痩せ細った私の顔が映る。


『だから、もう寝ろ。たまには、昔みたいに俺の言うことを素直に聞けって』


 その優しさが心に沁みこんでいく。

 彼の言う通り、瞼が鉛のように重い。

 でも、私は……彼のいうことに逆らいたかったわけではなかったのだ。

 付喪神(あなた)の優しさに甘えてしまったら、小次郎君への気持ちが揺らいでしまいそうで、怖かっただけなんだ。

 だから、私は最期の力を振り絞り、レンズに向かって笑顔を浮かべた。


 最期の瞬間、この目に映るのは小次郎君だけ。

 そう決めてたけど、私は満足だ。ゆっくりと、自分の(シャッター)を下ろした。


「ありがとう。あなたと一緒なら安心だよ」







 ※


「ありがとう。あなたと一緒なら安心だよ」


 八千代のわずかに綻んだ口元は、それっきり動かなくなった。

 まるで満ち足りたように幸せな微笑みを浮かべている。


「もしかしたら、小次郎の幻影が見えたのかもな」

「熱をあげていたからね……可哀そうに、本当に、可哀そうよ」


 八千代の母親が静々と涙を流している。父親は瞼から零れそうなほどの涙をためている。

 俺も一言、こいつに言ってやりたくなった。


『この大馬鹿者。幸せそうな顔してるんだよ』 


 もちろん、俺の言葉も八千代には届かない。

 きっと、こいつの両親も俺と似たような気持ちを抱いているに違いない。


『あんな男を愛するなんて、どうかしてるぜ』



 俺は嘘が嫌いだ。

 俺の(カメラ)が写すものは永遠だ。そこに嘘偽りはないし、真実だけが残る。言葉にしろ写真にしろ、残り続けるものならば、嘘偽があってはならない。

 それが、付喪神になってからの俺の信念だった。


 でも、たった2度……俺は嘘をついた。

 1度目は、こいつが風邪を引いた日だ。



 あの日、八千代には言わなかったが、俺のレンズは船の姿をとらえていた。


 船の桟から体を乗り出し、寂しそうに島を見つめる青年。

 そして、その傍らに寄り添う美しい少女。

 そんな二人の指には、揃いの指輪がはまっていた。


 ああ、あれを見た瞬間、俺は八千代に真実を伝えたかった。

 でも、伝えられなかった。 

 寒さに凍え続けただけでなく、ずっと縋り付いてきた細い糸まで無残にも切られたとなれば、この娘は海に身を投げそうな勢いがあった。そうでなくても、死んでしまいそうなほど顔色が悪かったというのに。


 だから、嘘をついてしまった。

 そのおかげで、多少……彼女に活力が戻り、わずかながら延命できたことは事実だろう。

 けれど、その罪悪感で、彼女の顔を見ることはできなかった。

 死の間際になっても、彼女の顔が見えない場所にいることを心掛けた。しかも、また嘘をついた。小次郎からの手紙なんて来てないのに、苦しむ彼女の声を聞きたくなくて、でまかせを告げてしまった。

 なんて、器の小さい男だろうか。自分のことながら笑えてしまう。


『ああでも、俺は……お前のことが好きだったんだ』


 たった一人の男を一途に愛し、嘘偽りなく待ち続けた八千代が好きだったんだ。

 俺の知らない男を想い、彼に向けられる最高の笑顔を見るのが堪らなく好きで、胸やけがするくらい悔しかった。

 八千代がとる写真は、ほぼすべて知らない浮気野郎に送るためのものだった。

 俺の目を通していても、彼女が胸に抱くのは「この写真を見て、小次郎がどんな反応をするだろう?」という喜びあふれた感情だった。


 しかし、彼女の口が最後にこぼした言葉だけは違った。


「ありがとう。あなたと一緒なら安心だよ」


 あの言葉だけは、小次郎でも他の誰でもない、まっすぐ俺だけに向けられたものだった。

 顔も知らない男に向ける喜びに満ち溢れた笑顔とは違ったが、優しく花開いたような微笑みは誰よりも美しく見えた。


 なにより、最期の言葉が俺に贈られた。

 それだけで、俺も充分だ。


『ああ、安心しろ』


 もう一度、彼女の手に指を這わせる。

 ここは、狭く貧しい離島だ。

 島を出た者が戻ってくることは稀で、男女問わず忙しなく働いている。きっと、ほとんど交流を持たなかった早世の少女のことなんて、すぐに忘れ去られるだろう。

 この本体(カメラ)も、いつまでここに置かれるか分からない。

 だが、まだ自分はいわくつきとはいえ、高価な代物だ。そこまで、無下に扱われることはないだろう。


 八千代が生きた証は見えなくなっても、いつまでも言葉や記憶は俺に残り続ける。

 俺は彼女の耳に、そっと囁きかけた。



『俺が生きる限り、お前は永遠だ』







着物姿の少女がカメラを構えている。その後ろには彼女を想う付喪神がいるけど、少女は別の誰かを見ている。

……ある日、そんな絵が浮かんで来ました。

そこから膨らませて書いた作品です。

カメラが出てくるので、時代設定は大正時代となっていますが、今回舞台にさせてもらった実際の伊豆諸島……しかも、この時代に、船の就航率が低い島の小娘がカメラを手に入れた、なーんて、フィクション以外の何者でもありません。

そこは、浪漫と御都合主義であると御了承ください。


題名の由来などの詳しいあとがきは、また後ほど活動報告に書こうと思います。

それでは、今回はこの辺りで。

今後も寺町朱穂をよろしくお願いします。


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