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夏の金平糖

作者: 雨森 夜宵

 普段歩き慣れた道の、一本裏を行く。非日常の興奮を無意識のうちに騒がせながら、彼はハンドタオルで執拗に汗を拭った。追い越していった車のテールライトが、陽炎のなかで滲むほどの暑さである。物音、そんな概念は存在しない。ただ波のように寄せては返す蝉時雨の轟音が、元々湿った空気をさらに上から押さえつけてくる。その空気のうちには一欠片の慈悲もないように、彼には思えた。

 地表に這う人間の存在など忘れたかのように、ずっしりとのしかかる大気。休む間もなくハンドタオルを往復させながら、水飴状に粘る夏を掻き分けて進む。が、その妨害は彼の精神を軽く参らせるに足るものであった。まだ始まって間もない夏が、毛穴の一つ一つを抉るように満たしていく。それでも、悪寒がするほどに凍らされた日常よりは随分とマシに思える。

 人は無意識に日常を恐れると、彼は何かの本で読んだばかりだった。それは世界を徐々に蝕み、灰色に染め上げることで、人を内側から腐らせていく。やたら小難しい論理と語彙をこねくりまわした後、本文にはそう書いてあった。著者の顔はどう見たところでうさんくさかったが、どうもその言葉は彼の脳裏を離れようとしないのである。

 何のことはない、と彼は心中に小さくこぼした。蝕まれる前に広げればいいだけの話だ。


 黙々と熱気を掻き分けて。そんな中でふと傾けた彼の視界に入ったのは、ちょっとした建物の軒先に置かれたひとつのベンチだった。ガラス張りの建物はホールのようだが、少し薄暗い。日差しを煌めかせるそれの手前、濡れたような灰茶色が、ぎりぎり日陰に踏みとどまってその濃度を保っている。その隣で素知らぬ顔をする自販機のこともあって、彼はふらふらとそちらへ引きずられていった。

 少し位休んだって構うまい。彼は先に自分宛の弁解を述べた。何しろ夏は粘るのだ。わざわざ遠回りをする時間は余っていても、その分急ごうなんて体力はないこと位、どうせみんな知っている。風流に行こうじゃないか。

 どさりと尻を落としたベンチは案の定、ほんのりと薄い冷気を纏って彼を迎えた。淡い水色に塗られた建物の外壁もなかなか目に涼しい。自販機の前に立つと太陽がまた彼を灼いていったが、転がり出てきたスポーツドリンクはやはり淡い水色で、頬に当てればじゅっと音がしたような気がした。彼はもう一度ベンチに座り直した。一気に煽った冷気が食道を滑り落ちて胃に達したところでやっと、大きなため息が漏れる。逆に白く曇りそうなほど冷えた吐息が、ふんわりと降りていく。

 炎天下で感じたゲル状の夏は、彼が逃げ込んだ影に触れた瞬間、気だるげな動きで太陽の下に戻っていくらしかった。どこからか、仄かに涼しさを帯びたそよ風が来る。風鈴がひとつ鳴った。空気を澄ませるような浄化の音であった。それを合図に、彼を取り囲む空気はゆっくりとその透明度と軽さを取り戻していった。顔を上げることもままならなかった夏、その人を拒むような鉄面皮の裏にでも入り込んだ感覚。彼はやっと夏の中に入ったと感じた。そこは奇妙なほどに安定して、柔らかなクッションのように彼を抱く。

 陽炎のように揺らめくアスファルト、その奥に佇む住宅街、全部引っくるめて、「夏」という名の額縁に入れたらどうだろう。なかなかいいかもしれない。どこか遠ざかる景色に、彼は僅か微笑んですらいた。


 ふと、彼は背後が気になった。

 薄暗いガラスの向こうに何かが光ったような、そんな錯覚に襲われたのである。彼はそこに自らを呼ぶ何かを感じた。脈打つ温もりのようなものが、冷気の滲む日陰に響くような気がしたのだ。子供がするように、彼はベンチに膝を乗せて、その背の向こうに立つガラス板を覗き込んだ。

 そこがホールではなくスタジオであることは、見てすぐに分かった。掘り下げられたのだろうそこはいやに低い位置にあり、彼の頭上にひとつだけ点けられたスポットライトが、遥か下に向かって光を注いでいる。鈍色のリノリュームは光を吸い、余分なものの無い洗練された空間を造り出す。そこは圧倒的な静で充たされていた。言うなれば、背後に威圧感を漂わせる夏の、その対極概念とでも言うべき存在を彼はそこに見いだしたのだった。


 彼の眼下には、気だるげにすら見えるほど緩やかに舞う、一人の少女がいた。


 その淡い桃色が異世界の女王の衣装であることを、彼は朧気に思った。日本語に金平糖と訳される彼女が、愛する人形を連れずにここに一人舞う意味を想った。優雅なその舞はどこか神楽にも似て、さながら上から見下ろす彼を誘い込むかのようにも見える。

 少女の孤独は静寂の中に、一滴、また一滴と滴り落ちて、彼の鼓動に染み入り、そしてゆっくりと、彼の内側に音を打ち鳴らしていった。蛍のような淡く儚げな光が、静かに明滅しながら漂うような旋律。少女の腕が、脚が、空気を叩く度に、どこか籠ったようなパステル色の音が煌めく。オン・ポアントの硬い呟きはない。柔らかい振動が彼の横隔膜を弾き、囁きを残していくのである。


 蝶のように少女の手首がはためくのを、彼はここではない場所から見ているのだった。掻き回される空気。ゆっくりと渦を巻いて昇り行くそれはガラス越しに小さく滲みて、少女の吐息が花のように香る。だが彼は、ガラス越しに触れられる近さで少女を見ていたのだ。その手が彼の頬を撫で、跳ねた汗が彼の顎に伝うほどの距離で。少女は彼を認めていたのかも知れなかった。少女の世界は青ざめたスタジオに潜伏し、彼の胸を激しい高揚感に浸した。彼の鼓動は騒いだ。少女は次第に、青い熱を帯びていく。より美しく、されど抑圧的に、しかし情熱的な、それはある種の狂乱と言える舞であった。連続する回転。乱れ打つパステルが青に滲み、淡桃はその鮮やかさを増し、ポアントが灰色のリノリュームを打ち鳴らす。その身は軽やかに、素早く、さながら空に飛び立たんとでもする如くに。彼はその背に翼を見た。砂糖菓子の翼は凍りついたように動きを止め、もう一度大きく開き、その欠片は音と共に渦を巻き、その虚空を満たすように踊り狂い、そして、そして――――。


 ――――綺麗でしょう?


 後ろから急に掛けられた声で、彼は本当にベンチから転げ落ちそうになった。何かに弾かれたような衝撃が、刹那的に彼の意識を弾き飛ばしたのだった。


 気を取り直して振り返れば、人懐っこそうな笑みに戸惑いを浮かべたひっつめの少女が、真っ白な袖無しのワンピースを熱風にはためかせていた。バカのように騒ぐ蝉の声が、思い出したようにそのやかましさを主張し始める。そこは彼の日陰であった。冷気は力無い囁きのみを残して、熱気の下に押し潰されて伸びていた。

 夏が、そこにいた。


 驚かせた旨を謝罪する彼女に彼が狼狽えていると、彼女は僅かばかり悔しそうな表情を帯びた。大丈夫、みんなそうですから。そこに座ると、みんなあの子に見いられちゃうんです。そんなことを言って彼女は小さく会釈をし、不思議に軽い足取りで建物の入り口へと消えていった。彼女の歩いた後には小さな煌めきが、所々陽光を弾いて彼の目を射るようであった。

 暫く呆然としていた彼だったが、ゆっくりと態勢を整え、もう一度ベンチに座り直した。日陰は狭くなり、空は橙を帯びて寂しげである。彼は小さく笑った。それはまだ夏の始まりに過ぎなかったのだ。彼は日常の威力を知り、そして正に今、少女の手によって日常から救出されたことを理解した。彼の目に世界は未知であり、彼の想いは砂糖菓子の旋風に洗われて、その透明度を取り戻したのである。そして陽炎のような真夏の白昼夢は、大気の透明度のなかに砕けて、消えていったのだった。


 風鈴がひとつ鳴った。

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