Nonetheless,dear my sister.
私は昔から、童話の世界というものに憧れたことなんて一度だってなかった。
魔法や人魚の存在は信じなかったし、民を惹きつける魅力あふれるお姫様ほど幼稚で子供だましだと思ったことはなかった。
そんなものが王子だとかなんとか名乗る見ず知らずの男と結ばれる結末を、ハッピーエンドだなんだって有り難がる人間とは絶対に分かり合えないだろう。想像するだけで身の毛がよだつ思いだ。
とにかく私は当時、自他ともに認める変わった子だった。正直周りの人間に可愛がられたという記憶がまったくない。それを望んだことすらもなかった。
今でも歪だったと思う。でもそんな風に育ってしまったのにはちゃんと理由があった。
これ以上ないほどに明確で、そして単純な理由。
私には姉がいたのだ。ただその姉がどんな空想や理想よりも鮮烈に輝き、魅力に満ち溢れた人だったというだけ。
姉が口にした林檎は氷さながらの透明さを帯び、砂を踏みしめればたちどころにダイヤモンドへと変貌を遂げる。それを幻視して有り余るほどの神秘性が私には感じられた。
もちろん本質的には私と変わらないただの人間だと分かってる。それでも、どんなお姫様よりも慈愛に溢れ、どんな王子にも起こせない奇跡を起こす。幼き日の私は、それを信じて疑わなかった。
そんな姉を前にしては、他のあらゆるものが低次元なものに見えてしまうのは無理もなかった。私も含め、すべての愛は姉へと向けられるためにあるとさえ思ったのだ。
そう、私は姉を愛していた。
それが単に妹が姉に向けるにしては妄執が過ぎ、肥大化し、そして途方もなくエゴイスティックなものだったとしても、それを自覚してなお何かで代用できるものではなかった。
姉の本当の名は、書かない。
ただ私と同じ姓を持ち、可憐な少女のイメージとしては割と有り触れた名前とだけ、言っておこう。
でも姉のことは、この国にいる者ならおそらく誰だって一度は耳にしたことがあるはず。
むしろ彼女が及ぼす経済効果と言ったら、ある清涼飲料水を飲んでいると分かればその商品は需要過多で生産休止に追い込まれ、好きだと呟いた本は瞬く間にベストセラーとなるほど。
有り体な言い方をするなら、姉は有名人だった。
グラビアアイドル、姫野夕月――――もちろん芸名だが――――それが私の姉。
仕事から帰った私を迎えてくれるのは、ただ無音と闇に満ちた空間。浮かび上がる橙色の光が照明のスイッチの在り処を無機質に教えてくれるだけ。
既に疲労の溜まりきった身体ではあったが、ぼうっと立っているだけでは何も始まらない。今すぐにでもフローリングの床に倒れこみたい衝動を抑え、酷く緩慢な動きで明かりを付けた。
部屋が明るくなったとはいえ、何か特別な感情が芽生えるわけじゃない。ただここが私の住むアパートの一室で、そこに私が一人でいるということを改めて教えてくれるにすぎない。
父の反対を押し切り、姉を追うようにして単身上京したものの、私を待ち受けていたのは職場と部屋とを往復するだけの毎日、上司にいびられ同僚に嘲笑される仕事、そしてどうしようもないほどの姉との立場の違いだった。
遅めの夕食を摂るが帰りに買ったコンビニの弁当も、冷蔵庫から引っ張り出した発泡酒も味気ない。姉が務めているコマーシャルではあんなにも美味しそうに見えたのに、どうやら飲む人が違うと味も違うらしい。
いつものこととはいえ、なんて侘しい。私はため息を一つ付いて、テレビのリモコンに手を伸ばす。
画面には姉の姿が大きくフォーカスされていた。
バラエティ番組で司会の言葉に相槌を打っている。喉を鳴らし、飲み物を口にしている。表紙を飾る雑誌の一コマを紹介している。主人公のよき理解者である教師を演じている。
テレビに姉の映らない日はなく、彼女の多方面に渡る活躍の機会は日に日に増していく。少し眺めているだけで多種多様な姉の姿を見ることができた。
私はそれが喜ばしく思い、同時に怖く思い……そして歯痒かった。
私の知らない姉が増えていく。私の知らない人間関係が築かれていく。私の知らない世界を歩いていく。
少しずつ、でも目に見えてはっきりと、姉と私との距離が遠ざかっていくのが感じられる。
まだ半分以上残ったままの発泡酒の缶を握りしめる。すでに冷たさは失われ、ただ温いだけで美味しくもない液体がチャプチャプと音を立てる。
行き場のない衝動が心の奥底を焦がしている。体の内側が熱くなっていくのは、きっとアルコールのせいなんかじゃ、ない。
夕食も半ばに、私はおもむろに立ち上がった。もう目の前の食べ物になんの魅力も感じない。生きるための不可欠な栄養ということを考慮してなお、それを体内に取り入れる意義をまるで見出せない。
今、私に必要なのは――――
リビングを離れ、寝室のドアを開ける。そこにあるのはベッド、本棚、そして……
「ただいま。お姉ちゃん」
目の前には一枚のポスター。南国の砂浜をバックに、青い水着を身に着けて快活な笑顔を浮かべる姉の姿がそこにあった。
2015年10月23日に発売した彼女の3rd写真集の付録だ。今までと違い、清純さを前面に出したコンセプトのため露出は少なくなっている、女性からの支持も厚い一冊。白いフリルが眩しい。
それでも彼女の売りである豊満な胸は健在で、決して主張しすぎないものの、その谷間を大胆にも曝け出している。彼女の持つかつての淫靡さと、新たに提示していきたい清廉なイメージが良い意味で混ざり合った素敵なポスターなのだ。同時に私の一番のお気に入りでもあった。
その若々しさといったら、私よりも3つ多く年を重ねてるとは思えないほどだ。
ポスターは一枚だけじゃない。壁に貼られたそれはむしろ本来の壁が見えている箇所の方が少ないほど。
そこには水着のほかに、浴衣、アオザイと呼ばれる民族衣装、ワンピース、ブレザーなど、様々な姉の姿が写っていた。
眺めているうちに遠のきそうになる意識を辛うじて取り戻し、ベッドの脇にある引き出しを開けて一冊のファイルを取り出す。
中身は雑誌やら新聞やらに掲載された姉の写真、その切り抜きたちだ。一ページめくるたびに、所狭しと敷き詰められた数々の姉の姿が私の目に飛び込んでくる。そしてこの引き出しの中には、そんなファイルが両の手では数えきれないほど入っている。
おそらく世に出回っているもののなかに、これらに収められていない写真はないだろう。たとえ百数十ページの雑誌の中のほんの一枚だったとしても、カラーであろうとモノクロであろうと、デビュー前の些細な特集であろうと、情報を手に入れては入手し、すべてこのファイルに収めてきたのだ。
一方で姉以外にはまるで興味がないので、残りはすべてゴミ袋か資源回収の道をたどっているのだが。
何度でも言えるほど姉は本当に魅力にあふれ、そして神秘性に満ちた人だった。
膨大な数の写真のどれをとっても、何一つとして同じものはない。もちろん表情や服装に似通ったものは多いのだが、放たれる色が繊細な変化をはっきりと表しているのだ。
青と一言で言っても浅葱色、藍色、縹色、瑠璃色と多様な色彩があるように、一つひとつが万華鏡のように多岐な輝きを持ち合わせていた。
毎日見ていたって飽きない。これらだけを持ったまま無人島に放り出されたって、不自由さをまるで感じさせないままに満ち足りた笑顔で餓死できる自信がある。
これだけで、姉の存在を視覚で感じられるだけでよかった。はずだった。
「………………っふ、ぅ」
無意識に、いや、初めからそうするつもりで右手を体の下の方へと滑らせていく。
胸からお腹、足の付け根、そして亀裂へと。
指の先端が触れただけで、そこが湿っているのが分かった。驚きはない。すでに心の昂りは押し留めることができないほどで、溢れだしたものが太ももを伝っているのを感じていた。
身にまとうものを脱ぎ捨てる。露わになった肢体は空気の流れにすら敏感になる。ましてやここは姉に包まれた空間。閉め切った寝室を満たすのはそこにはいないはずの姉の吐息だった。
糸の切れたマリオネットさながら、重力が私をベッドへと押し倒す。疲れと眠気が私から理性を完全に奪い去り、求めるままに快楽を貪る。
右の指にまとわりつく肉壁と液体が、小刻みに音を立てる。ファイルはベッドの上で開きっ放しのまま、残った手は自然に上部の双丘へと吸い寄せられ、申し訳程度の膨らみを揉みしだく。
「んぅ……あ、ああ……っ」
言葉にならない快楽と共に去来するのは、痛み。悲鳴を上げそうなほどの疼痛が身体を、心を蹂躙する。
こんなことがなににもならない、と。他でもない私が知っている。どれほど求めても、決して届かない存在。それが姉だったはず。それでもよかったはず。あの頃の私は、彼女を愛しこそすれ、欲しいなんて思わなかったはず、なのに。
もはや呪いだ。あれを知ってしまったら、もう欲望の加速なんて止められるはずない。
脳が破裂するような絶頂を迎え、文字通り精根尽き果てた私はそのまま眠りにつく。
これが私の一日の終わり。こんなことがもう12年も続いているなんて、誰にも言えない。
眠りの水底で、すべての始まりを想起する。
あれはまだ私が小学生だった、暑い夏の日だった。
当時既に父は他界していて、家族と呼べる存在は母と祖母、そして姉の三人だった。
不自由なくとは言えなくてもそれなりに幸せな幼少時代を送れたのは、やはり姉がいたからだろう。
あの頃の私は彼女を純粋に大切な家族として慕っていた。魅力あふれる少女だったという印象は変わらずとも、それ以上の感情を持ち合わせてはいなかった。
歳の差のせいで姉と小学校の在籍は被らず、どこに通うにしても私は独りぼっちだった。
玄関を出て団地の階段を下りるまでお互いを励まし合い、そこから正反対の道を歩いていく。その後姿がいつも頼もしく、そして寂しかったのを覚えている。
姉は可愛らしく、凛々しく、そして強かった。
臆病だった私は毎日のように男子にからかわれたし、片親ということに対しての哀れみと蔑みの視線は常に私を苛んでいた。
そんなとき、姉はいつでも颯爽と現れた。時に苛めっ子を撃退し、時に毅然と相手を睨み付ける。私を守るというただそれのみで動いてくれていた姉に、私は感謝という一言では表せないほどの思いを抱いていた。
でも守られてばかりではいけないと。幼心に思わなかったわけではない。
小学校も六年になり、姉も大学受験を控えている大事な時期。きっと姉はもうすぐこの家を去ってしまう。その前に自立しなければならない。姉の背中を見ているだけの私から、一歩先に進もう。そんな風に考えた私は、意を決して姉の部屋のドアをノックしたのだ。
反応はなかった。いつもならすぐさま姉の溌剌とした返事が返ってくるはずなのに、物音ひとつしない。
いや正確には姉のものと思われる吐息と、布のこすれるような音がひっそりと聞こえてきた。彼女が部屋にいるのは確からしかった。
一呼吸おいてドアを開けることにした。
「お姉ちゃん……ごめん、開けるよ?」
ドアに鍵はかかってなかった。少し力を込めただけでドアノブは回り、キィッという音とともに徐々に姉の部屋の中が見えてくる。
途端に妙な緊張感に襲われる。今まで姉の許可なしに彼女の部屋に立ち入ったことはない。まるで高貴なお城に忍び込んだ夜盗のようないたたまれなさに、全身から熱が逃げていくのを感じる。
予想通り、姉はベッドで眠っていた。午後のまだ日差しが高い時間とはいえ、明け方まで模試の予習に励んでいた疲れが今になって押し寄せたのかもしれない。その眠りは深いようで、私が声をかけても安らかな寝息のままわずかな身動きすらしなかった。
ともかく、これでは私の用件は伝えようがなかった。それにいつまでも姉の部屋に居座るわけにもいかない。もう少し時間が経って姉が目覚めてから出直そうと、その考えは最初は確かにあったはず。
でも私は動けなかった。視線の先にあるものから目を逸らせず、足や手を動かして視界を遮ろうとしても体がそれを拒絶する。
そこには何度となく見たことのあるはずの姉の寝姿。だが暑さもあってか、この日の姉はいつにも増して気持ちが緩んでいたらしい。
上下の下着に少しよれたシャツを一枚羽織っただけのラフな、ともすればだらしないと窘められそうな服装。それを見た私は、無意識のうちに生唾を飲み込んでいた。
どんなお姫様よりも神秘性に満ち、どんなヒロインにも勝る気高さを感じた姉のどうしようもないほどの無防備な格好に、私の中の何かが溶けていくのを感じる。
高嶺の花、決して手が届かない存在だと思っていた姉の狂おしいほどの豊満な肉体に、私の全身に灼けそうなほどの熱が廻っていくのを感じる。
次の瞬間、私の手は姉の肢体へと伸びていた。思考がうまく働かない。ただ一点の感情のみがそれを認識させぬままに私を動かす。
欲しい、と。
元々それほど距離のあるわけでもなかったため、そこにはすぐに到達した。
薄布一枚で遮られただけの、姉の躰で最も突出した部分。保健体育の授業で習ったばかりの、女性が二次性徴を迎えて大きく変化する場所。私にはない、女の姿。
手のひらを添えるとじんわりと温かさが伝わってくるのを感じた。私のものと違う、他でもない姉の体温。たったそれだけなのに私の中に何かが紛れ込んだような異物感を覚える。
姉が私の中に入ってこようとしているのだ。隙間に、内側に、奥底に、私のあらゆるものを支配しようと。
上擦る息を抑えられない。高鳴る鼓動は胸を突き破って今にも飛び出そう。脳髄にピリピリしたものを感じる。
私の手が徐々に姉の肉へと沈みこんでいく。こんなにも柔らかく、熱いものなのかと考えれば考えるほど、その手つきは大胆になっていく一方だった。自制なんてできるはずもなかった。
もはや触るなんて段階ではなかった。時に握りこむように、時に撫でるように、強く弱く、上下左右に両手を動かす。肉は私の動きに合わせて形を変える。私によって姉が動かされている。
こんなこと、駄目駄目駄目……分かっていても、止められない。むしろ目を覚ました姉がどんな反応を見せるのか知りたくてたまらない。驚くだろうか、泣くだろうか、怒るだろうか、軽蔑されるのは間違いない。叩かれるかもしれない。罵られるかもしれない。二度と口を聞いてくれないかもしれない。
どれでもいい。なんでもいい。姉を知りたい。姉を感じたい。姉を聞きたい。姉を見たい。姉を変えたい。姉を思いたい。姉を取りたい。姉を探したい。姉を壊したい。姉を穢したい。姉を想いたい。
もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっと――――
「んぅ…………」
結論から言うと、抑制できなかった私の欲望を静止させたのは、やはり私自身の欲望だった。
どれほどの時間そうしていたのか分からない。ただ煩いほどの私の息遣いだけが響いていた姉の部屋に、隙間を縫うように突然可愛らしい声が聞こえてきた。
私の身体が一瞬硬直する。姉を弄ることだけに注ぎ込まれていた五感がわずかに正気を取り戻し、姉の様子を伺うために一歩身を引く。
姉はまだ眠っていた。今自分の身に何が起きてるかを知りもしない、安穏そのものの姿。でもそれはむしろ、私から新たな欲望を引き出そうとする煽情性を秘めていた。
胸だけではない。姉をもっと色濃く感じることのできる場所が、まだ、ある。
姉を女たらしめる、最も弱く、最も脆い部分。女の子、そのもの。
私の視線が舐めるように下腹部へと滑っていく。そこには薄桃のショーツ。
目の前が真っ白になる。息が詰まりそう。
考えただけでこれなのだから、そんなところに直に触れてしまったら私は――――
瞬間、パチンという音を聞いた気がした。
膝が抜け、力なくその場に崩れ落ちる。全身に力が入らず、がくがくと痙攣が止まらない。
未知の経験に怖くなった私は這うようにして自分の部屋へと戻った。気がつけば陽は傾き、窓から差し込む光はどこかオレンジがかってきている。
息を深く吸い込む。思考に霞がかかってる。自分がしたことなのに、さっきまで起こっていたことが理解できない。
姉の部屋に、私は何しに行った? 何故姉の確認なしに立ち入った? 姉の寝姿を見て、どうしてすぐ出直そうとしなかった? 何故姉に触れようと思った? 何故触れるのを止めた?
そして、これはなに……?
下着が、濡れていた。おもらしなどではないことは私自身が分かっている、なのに、滴るほどのなにかをそれ以外で説明する術を持たない。
股からにちゃりと音がする不快感と、手に残った姉の感触だけが、いつまでも脳裏にこびりついて離れなかった。
あれ以来、私は姉を女としてしか認識できなくなった。
姉でもなく、純粋な同性としてでもない、ただの性の対象へと変貌を遂げた。
お姫様というならきっと淫売なそれなのかもしれない。それでも、彼女の持つ輝きはいくらほども失われてはいない。ただ高貴なまま、私は彼女を辱めることを夢想する。
今に至るまで、姉に触れることはおろか正面切って直視することすらできなかった。
そのことを姉は不思議がっていたものの、よくある反抗期なのかと一人納得したまま家を出て行ってしまった。離れて暮らすようになってからも連絡は取り合い続けたが、どうやらあの時の出来事を彼女は知らないままらしい。知らないからといって、なかったことにはならないのだが。
そう、なかったことにはならない。あの時わけのわからないまま初めて迎えた絶頂が知識として理解できるようになってもなお、あれほどの快楽を感じることが未だできていない。
私はどこへ行くのだろう。自分で、いや、姉によってもたらされた無間地獄。あるいは太陽に近づきすぎて翼を焼いたイカロス。貪れば貪るほど欲しくなり、同時にこの身を癒えぬ疵が蝕んでいく。止められない。止まらない。
私の瞳から流れる一筋の涙が、重力に逆らえずに真下の枕へと染み込んでいく。
ああ、泣いている間だけは私は救われる。愛するものを欲して枕を濡らすことは誰にだってある。いたって普通、どこにでもある、珍しくない、ちっぽけな感情。
でも普通が私にはうれしい。普通が私にはくるしい。
この想いが、この欲望が、ただの恋愛感情ならよかったのに。叶わぬなら叶わぬまま、過去の傷として前を向けたのに。
携帯電話はもう何年も鳴っていない。もう届かない。受け取れない。歪に膨れ上がっていく想いが砕かれる機会は永遠に訪れない。
だから絶えるまで満たすのだ。この空気を、この身体を、この時間を、覆い尽くすほどの姉で。
いつか自壊しよう。これが私に許された。たった一つだけの結末だと信じて――――
「させないわ、私の愛しい貴女」
姉はそこにいた。一糸まとわぬ柔肌を露わにして。
脱皮したての小動物のような危うさ。それでいて成熟しきった肉食獣のような獰猛さ。
夢にまでみた、私の畏敬してやまない、姉がそこにいた。
姉は一歩ずつ距離を縮めてくる。その歩幅は限りなく狭い。まるで恭しい儀式のごとく、その過程すら楽しいと言わんばかりにクスクスと、淫らな笑みを浮かべてあられもない格好の私を、そして姉に塗れた部屋全体を見据えている。
ああ、そんなまさか、どうして、ここに。やめて、みないで。はずかしい。
ちがうの、これは、わたしが、わたしの、だって、とおくて、すこしでも。
姉は甘い蜜のような声色で囁く。
いいの? ゆるしてくれるの? うけいれてくれるの? さわっていいの?
いっていいの? そばにいていいの? みてくれるの? きいてくれるの?
姉の腕が深淵へ手招きするように私へと伸びる。
ひぁ……そんなところさわらないで、わた、わた、わたしだって。
ずっとずっと、こうしたかった。もっと、もっとって。でも、できなくて。
姉が食虫植物のように私の手をつかんで自身の躰へと引き寄せる。
えへ、へ、へへへ。やっぱりやわらかい。あたたかい。
わたしも、きっとまけてないよ。ほら、おとだってきこえる。
姉が、
あ、だきしめてくれる。いいにおい。なつかしい。
「ごめんね、傍にいてあげられなくって。これからはずっと一緒に」
うれしい、うれしいうれしい、ありがろう、うれしいよぉ。お、ね、え、ちゃ
文章はここで途切れている。正確には文章の体、さらに言うなら文字が文字としてかろうじて形を成しているのはここまでだ。
冒頭からここまでにわたって記したのは『事件後、加害者の自宅より押収された一冊のノートの中身』だ。
事件。三日前、芸能人である姫野夕月が自宅へと帰る途中に一人の女に刺され、病院へと緊急搬送された。
姫野の受けた刺し傷は大小含めて数十か所にものぼり、現在もなお予断を許さぬ状況が続いている。
そして犯行現場から百メートルほども離れていない地点で、一人の女が喉にナイフが突き刺さった状態で死んでいるのを近隣住民が発見する。
状況証拠とナイフの血液情報などの物的証拠により、×゜県警はこの人物こそ姫野夕月殺人未遂事件の加害者と断定。捜査の結果この人物の住居にたどり着き、そしてこのノートを見つけたという経緯だ。
記すことのできたのは中身のほんの一部であったが、このノートにはおそらく、全記述にわたって姉と称す姫野夕月に対する恋慕、劣情、崇拝といったものが記されているのだと推察する。
ここに記していない残りのページは殴り書きであったり、どの言語の法則にも当てはまらないローマ字や数字や記号の羅列だったり、果てには人物画と思わしき図形が無造作に散らばっていたりと、とにかく読み解くにはあまりに不毛と言わざるを得ないものだった。
上記の文章にもその兆候は見受けられる。整合性に欠け、脈絡のない内容。
そもそも姫野夕月に、姉妹や兄弟関係にあった人物がいた事実はない。姫野夕月という名前も正真正銘の本名。兄弟の存在や芸名説はインターネット上で一時期まことしやかに囁かれていた噂なのだが、事務所と本人の口によって先日はっきりと否定された。報道各社によって裏も取れている。
おそらく加害者とも、面識はまったくなかったのだろう。
全てが虚構、この物語とも詩とも取れるような文章を書き、果てには凶行に及ぶに至った衝動。今やそれを語る手も、歌う口も何もかもが加害者の死とともに闇の中へと霧散していった。
これから様々な専門家や報道によって加害者の人物像が論じられていくだろうが、真実はもはやだれにも、永久に分かりえない。
それでもあえて言うなら、きっと加害者はなにかに縋りたかったのではないかと考える。
後半につれて文章が感情的になり、同時に悲痛さが帯びていくのは、加害者自身すらも埋めていた本当の深層心理が発露しつつあったからではないだろうか。幻想でしかない夢物語の中でも、報われない想いを嘆くという心理だけは確かな真実だったのではないだろうか。
ノートの表表紙に書かれた、これらすべての感情を纏めたタイトルと思しき文章、『Nonetheless,dear my sister.』。
――――それでも、私の愛する姉へ。
何度も書き直したような薄汚れた歪んだ文字が、ただ無性に寂しげだった。
愛のかたちは様々。綺麗なものもあれば醜いものだってある。
でもそれらに優劣をつけることはきっと誰にもできないでしょう。
拙い文章ながらここまで読んでくださりありがとうございました。
色々と粗も多い未熟な作品です。
これからも精進していきたいと思いますので、ご縁があればまた読んでいただけると幸いです。