9.デキる女
一陣の風が、暗闇を吹き抜ける。否、打ち放たれた弾丸か。起伏のある地面にそびえる木立の間を、草茂る藪の中を、着弾点目掛けて一直線に突き抜ける。生命の躍動を感じる。四肢が大地を蹴り、土塊を飛ばす。波打つ拍動と熱い呼吸に、生命の息吹を感じる。
文殊丸は、疾風に乗るというより寧ろ、摑まっていた。手綱を両腕に巻き付けて、疾風の首にしがみ付いたままだ。疾風は跳躍するように後脚で地を蹴り、風を掴むように前脚を掻いて駆け続ける。遠巻きにもはっきりと見えていた数本の松明の明かりが、みるみるうちに小さくなって行く。疾風が速度を増す程に、文殊丸には追っ手を確認するような余裕も無くなっていく。息を殺して、疾風の動きについていくので精一杯だった。
疾風の首にしがみ付いていた文殊丸の両腕に、木々の枝葉やら丈の長い草やらが当たり、衣服の袖は破れて大小様々な切り傷やら擦過傷が、肩から二の腕のいたるところに刻まれていく。やがて、肌に滲んだ赤い液体が二の腕を伝い、肘の先で赤い滴の溜りを作る。それが疾風の躍動で機を得ると、大地や草木に赤い花を咲かせた。
「う――。痛ってぇ……」
こちらの状況を気取られないように必死に耐えていたものの、押し殺していた感情の堰が崩壊し、文殊丸は思わず声を漏らした。すると、その声を聞いてか、疾風が速度を緩め始めた。
「腕に、力が入らねぇ……」
そう文殊丸が弱音を吐くと同時に、疾風が脚を止めた。すると、今まで疾風の背中と過行く地面しか見えていなかった文殊丸の視界に、煌々とした真円の月が映る水面が見えて、
「だいぶ、遠くまで来たんだな……」
と、沢まで戻ってきたと気付かされた。手綱を握り締めていた両の手から力が抜け、文殊丸は砂利敷きの沢縁へ、疾風の背から崩れる様に落ちた。
「はぁ、はぁ、何だよ――おまえ、超速えぇじゃねーか!」
文殊丸は仰向けに大の字になり、疾風に感嘆の声を上げる。疾風はそれを知ってか知らずか、悠々と沢の水で口を漱いでいる。
工房での下働きで多少なりとも体を動かすようになったとはいえ、文明の利器に頼りきりで疎かになっていた文殊丸の運動機能は、疾風の上下運動に耐えるだけでも悲鳴を上げていた。文殊丸は頭上の星空を眺めながら暫くの間、呼吸を整える。そうしていると、文殊丸の額をザラザラとした感触が行き来する。疾風が文殊丸の額を舐めていた。
「あぁ、ありがとうよ。おまえのおかげで命拾いしたみたいだな……」
文殊丸は疾風に謝意を告げる。その声の意味を悟ってか、疾風は凛々しく月を見上げた。
「なんか、如何にもデキる女風な貫禄だな。おまえに惚れそうだわ」
文殊丸は悪態をついて起き上がると、疾風は「当然でしょう?」とでも言うように、文殊丸に背を向けてゆっくりと沢の浅瀬を渡り始めた。
「ちょ、置いてかないでくださいよ、先輩ー」
文殊丸は、慌てて疾風の後を追い沢を渡り出した。
疾風は文殊丸の歩調に合わせるように、ゆっくりと対岸の沢縁から茂みの中を行き、獣道を闊歩する。文殊丸は手綱も取れずに、そのあとを重々しい足取りでついて行く。文殊丸は、先を行く疾風を繁々と見やる。暗がりではっきりとは見えないものの、疾風の肢体にも多くの傷が見て取れた。
「帰れたら、きちんと手当してやらないとな」
ふと文殊丸にそんな感情が芽生えた時、疾風の歩みが止まった。文殊丸が斜面の先を見ると、小さな炎の揺らめきが幾筋か見て取れた。松明の明かりだ。そして、それらが次第に斜面を下って近付いて来るのを知覚する。
「ヤバイな、先回りされたか……?」
文殊丸は、蒼白な表情で近くの茂みに潜り込んだ。
「先輩、マジでヤバイって。隠れてー」
言葉が通じるとは思ってはいないものの、もしやと思い疾風へ囁くように小さな声で言ってみる。しかし、疾風は我関せずといった風に、足元の草を食み始めた。
「え?今、お食事っすか??」
こうなっては仕方無し。と文殊丸は一人茂みで息を殺して、この場から離脱する機会を探る。草葉の隙間から視野を確保し、耳を澄ませて辺りを警戒する。そんな文殊丸を尻目に、疾風はその間も呑気に草を食み続けていた。遠くに葉を踏み、朽ちた枝が折れる音が聞こえる。次第にその音が大きく聞こえてきて、距離が無くなってきているのを確信した。文殊丸は、いざとなったら何時でも飛び出せる様に、両足に力を込めた。と、その時
「いたぞー!!」
男の声が文殊丸の頭の上から響いた。
「えっ?」
文殊丸は目を見開いて頭上を凝視する。その視線と入れ違い様に黒い影が背後に降り立ったのを文殊丸は肌で感じた。そして不意に脇から抱え上げられその場に立たされる。渾身の力を込めていた両足の力は行き場を失い、つんのめって茂みの中に倒れそうになる。
「もう大丈夫だ。ご安心 召されよ」
黒い影が文殊丸に言った。程無くして、眼前に疾風と小さな影が姿を現す。
「おぉ。無事で何よりじゃ」
よく見ると、忍び装束に身を包んだ源次が疾風の手綱を取って歩み寄っていた。
「なんだよ、詰んだかと思ったぜ……」
それまでの緊張が途切れ、糸が切れた木偶のように文殊丸はその場にへたり込んだ。