19.新説・長良川の戦い(下)
中天に日が昇った長良川の河原に、川のせせらぎと緩慢に頬を撫でる柔風の音だけが聞こえる。そんな静寂の中、風に乗って正午を知らせる梵鐘の音が聞こえて来た。
「それっ、一気に蹴散らせ! かかれー!!」」
梵鐘の音を切っ掛けに、川上の陣のガキ大将が号令を発した。
「やー!!」
「いけー!!」
「わー!!」
川上の陣の子供等は其々に気合を入れながら得物を振り上げて、一気に距離を縮めようと駆け出した。それを見た惇厚坊は、
「皆の衆、慌てるでない。調練通りに行えば良い。勧進坊に倣えぃ!」
声を発して、敵陣の勢いに飲まれそうになる自陣の気を引き締めた。
「た、隊列を整えて、前進!――す、進め!!」
勧進坊が指示を発すると、物干し竿を正眼に構えたまま三小僧等を擁する川下の陣は、横一線の隊列を維持したまま、ゆっくりと前進を始めた。
「チビ助、白旗上げなかった事を後悔させてやる! 皆の衆、遅れを取るな! 俺に――続けぇー!!」
ガキ大将は、両の手で掴んだ得物を振り回しながら、川下の陣の中央に居た勧進坊目掛けて、一目散に先陣を切って来た。
「ひっ――。と、止まれ。中央、止まれぇーっ!!」
勧進坊は、ガキ大将の気迫に押されたのか、まだ大分距離のある位置で、自身の指揮する中央の陣の前進を止めさせた。
「ほう。其の覇気や善し。恵まれた体格も然る事ながら、相手を怯ませる気迫も中々のもの」
五左衛門は、ガキ大将の咆哮に川下の陣の中央部が怯んで立ち止まったと見ると、満足げな表情で手にしていた竹筒を一煽りした。
「五左衛門さんには、そう見えますか」
松五郎は河原の子供等を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「臆したか、この根性無しがっ! 今すぐ俺の手で叩き伏せてやる!!」
ガキ大将は唾棄するように声を発すると、踏み込む両脚に力を込めて、更に速度を上げた。
「ちゅ、中央、前進!――す、進め!!」
両翼が迫り出すように前進していったのを見届けると、勧進坊は自身の指揮する中央の陣へ再び前進の指示を出した。
「チビ助、相手してやるから出て来い!!」
眼前に獲物を捉えたガキ大将が、勧進坊を名指しで呼び付けたその時だった。
「さ、最強こまんど!――発動!!」
勧進坊の号令に合わせて、川下の陣の全員が一斉に、手にしていた得物を最上段に構えた。
「うえ!うえ!!」
勧進坊が声を発すると、それに倣って川下の陣の全員が、
「うえー!!うえー!!」
大きな声を上げながら、最上段から真下に物干し竿を二度、地面に叩き付けるように同時に振り下ろした。
「小癪なっ!何のっ、これしきっ!!」
ガキ大将の得物では届かぬが、物干し竿からは届く絶妙の距離。如何にガキ大将の体格が良いとはいえ、左を避ければ右が当たり、右を防げば左が当たる。物干し竿での一斉攻撃に、ガキ大将は防戦を余儀なくされる。
「くそっ!卑怯な!!」
それでも尚、ガキ大将は恵まれた体格に物を言わせて果敢に前進を試みようとする。しかし今度は、
「した!した!!」
間髪入れずに勧進坊からの号令が発せられた。
「したー!したー!!」
勧進坊の号令に答えて川下の陣の子供等は、叩きつけた物干し竿を足元から掬い上げるように、地面を浚う。
「うがっ!お前らっ――早く来い!!」
剥き出しの脛に物干し竿がぶつけられ、然しものガキ大将も苦悶の表情を見せ始め、後れを取った自陣の子供等に反撃の指示を出すのがやっとの様子だった。
「獅子奮迅の働きぶり――と言えば良いものか」
松五郎の隣で河原合戦を眺めていた五左衛門は、敵陣の目前で侵攻を止められたガキ大将の姿を目の当たりにして、松五郎に水を向けた。恵まれた体格故に、一人だけ突出して川下の陣に取り囲まれる形となったガキ大将を眺めながら松五郎は、
「孤軍奮闘――が妥当かと」
端的にそう答えると、立ち上がって尻についていた砂埃を払った。
「決着を見ずに行かれるのか?」
五左衛門は松五郎が帰り支度を始めたと見ると、怪訝な表情で問いかけた。
「もう、勝敗は着きましたよ。これから寺に戻って、トンチンカン三小僧等の手当の準備をしなきゃならないんで――。あれ? 今日はしなくても大丈夫か」
松五郎は面倒臭げに言いながら、途中でその必要が無いことを悟った。
「ほう。寺とは、何処の寺に御座るか? 行商を辞めて仏門に入られる御積りか?」
五左衛門は形の良い眉を歪ませて、更に怪訝な表情で松五郎に問いかけた。
「いやいや、出家するとかそういう事では無いですよ。知人に居候させてもらっているだけですよ。あそこの寺です」
松五郎は河原に背を向けると、周りに比べて一際大きな造りの建物を指差して答えた。
「あれは――常在寺に御座るか……」
五左衛門はそう零すと、何やら思案顔で呟いていた。
孤軍奮闘するガキ大将の呼びかけに応えて、後れを取った川上の陣の子供らが次々に押し寄せて来る。すると勧進坊は、
「ひだり! みぎ!」
自陣の子供等に、新たな指示を発した。
「ひだりー! みぎー!」
川下の陣の子供達はそれに倣って、手にした物干し竿を呼吸を合わせて左右に振り回す。すると、不用意に突っ込んできた川上の陣の後続が、次から次へと横倒しに薙ぎ払われていく。一本目の物干し竿を受け流しても、隣り合わせの二本目が追い打ちを掛ける。そして、運良くそれを受け止められた者があっても、反対側から折り返して来た物干し竿に殴打される。
「ひだり! みぎ!」
「ひだりー! みぎー!」
勧進坊の号令に呼応するように物干し竿が左右に払われると、川上の陣の後続勢は嵐が過ぎ去るのを待つように、その暴風域の外で足を留める他無かった。
「糞がっ! この程度で、打ち伏せられるとでも思っていやがるのかっ!」
ガキ大将は、物干し竿が荒れ狂う嵐の中で歯噛みしながら良く耐え、その機が来るのを待ち続けていた。
「今だっ! 目にモノ見せてくれるっ!!」
長い物干し竿が左右に振られる折り返しの一瞬の隙を縫って、ガキ大将は声高に叫ぶと、両脚に力を込めて一気に踏み出した。すると、その様子を具に見ていた勧進坊は、これが最後とばかりに叫んだ。
「びぃ!! えぃ!!」
「びい!!! えい!!!」
勧進坊の叫びに応えるように、川下の陣の子供達は物干し竿を素早く手繰り寄せ、突っ込んできたガキ大将と川上の陣の後続勢目掛けて、物干し竿を勢い良く突き出した。
「うがっ!!」
「ひぎぃっ!!」
「ぐえっ!!」
勢い良く飛び込んだ矢先に、物干し竿の貫突が体の至る所へと突き刺さる。竿先は鋭利な作りになってはいないものの、相反する力の衝突力は文字通りに、突き刺さらんばかりの破壊力だった。猛烈な突進を試みたガキ大将は、ぐうの音も出せないままに突き倒されて白目を剝いたまま天を仰ぎ、後続の子供達は貫突の痛みに耐えきれずに泣き出した。
「勝負有った! 勝負有ったー!! 我らの勝利じゃ!!」
鎮護坊が手にしていた物干し竿を放り投げて、両手放しで勝ち名乗りを上げた。すると、川下の陣の子供達は、抱き合ったり飛び跳ねたりと、全身で喜びを表出させていた。そんな中、蒼白な顔色をした勧進坊はただ一人、河原を眺めていた松五郎の方へと駆け寄ってきた。
「し……師匠、大変な事をしてしまいました」
「待ち侘びた勝利だったんだろ? もっと喜んでもいいんじゃねぇの?」
久々の勝利に、喜びの報告をしに来たのかと構えていた松五郎は、血の気が失せたように青白い顔色の勧進坊の様子に違和感を覚えた。
「いや、その……。わ、私は――人を殺めてしまいました」
視線と唇を震わせた勧進坊は、そう言うなりその場に膝から崩れ落ちた。