18.新説・長良川の戦い(中)
「……はてさて。一宿一飯の恩義とは言うけれど、あんなもんで良かったんだろうか」
穏やかに流れる長良川の河原から少し離れた土手へ腰を下ろし、晴れ渡る青空を見上げて誰に言うでもなく松五郎は呟いた。
日運の提案とトンチンカン三小僧の期待に満ちた眼差しに、松五郎は断る術も無く槍術指南役という大任を仰せ付かった。しかしながら、当の松五郎自身は薙刀の構え方どころか、薙刀を握った事すら身に覚えが無かった。過去の自身を知っている日運が言うのだからと、試しに棒切れを薙刀に見立てて振ってはみたものの、身が覚えていないのだから思い出せる訳も無く、闇雲に振り回すだけで息が上がる有様。当然のことながら、槍術指南と言える程の指南が一朝一夕に出来るものでは無い事は、火を見るよりも明らかであった。とはいえ、かけられた期待を無下にもできぬと思考を巡らせ、縋る思いで記憶の欠片を集めて辿り、やっとの思いで得られた答えが眼下の河原に広がっていた。
「おいおい、そんな長い棒切れで何をしようってんだ。この漁場を諦めて、中州で釣りでも始めようってのかい?」
今回の対戦相手である陣の大将と思しきガキ大将が、三小僧等の陣に嘲笑しながら近付いた。
「あ、諦めてなど……おりませぬ。こ、今回は、必ず――か、勝ちまする!」
陣の中央に立っていた勧進坊は、歩み寄るガキ大将に気圧されながらも、気丈に反論した。
「いいか、槍というものはだな――」
ガキ大将はそう言って、手にした棒切れを軽快に振るって見せると、
「突いて、払って、捻じ伏せる。これを如何に素早く出来るかが勝敗を分ける。そんな物干し竿では、初手を避けられたら次の手に入る前に突き倒されるだろうに」
そう言って、勧進坊に鼻で嗤ってみせた。すると、勧進坊は得物を握る手に力を込めて、
「こ、これは……わ、我等が必勝の――さ、策に御座います」
自身より、頭一つ以上も大きなガキ大将を見上げて言い放った。
「だぁーっはっは!――策だぁ? 策ならば、特別に俺が良い策を授けてやろう」
ガキ大将は笑いながら人差し指で勧進坊の額をひとつ小突くと、
「その竿に褌括って、早々に白旗上げるって策だ。 そうすれば、お前も泣きベソ掻かずに済むってもんだろ、なかなかの良策だと思わねぇか? だぁーっはっは!!」
そう言って大声で笑いながら、勧進坊に背を向けて自身の陣へと大股歩きで戻って行った。
「言いたい放題言いやがって――」
横並びの陣の右翼に陣取った鎮護坊は、遠巻きからその様子を見て歯噛みするものの、
「良いか、皆の衆。今日までの調練の成果を見せる時ぞ。えい!えい!おー!!」
左翼に陣取った最年長の惇厚坊が鼓舞する声に、手にした物干し竿を高々と掲げて「おー!」と雄叫びを上げていた。と同時に、横一線に身の丈以上の物干し竿が高々と天に掲げられた。
他所の陣や今まで使っていた得物は、ほぼ背丈と同尺程度であったのに対して、此度三小僧等の陣が手にした物干し竿は背丈の二倍程もあった。流石に、それ程の長さのものが横一線に掲げ上げられるとなると、その様は異様を通り越して、壮観ですらある。
「か、構えぇーい!!」
陣の中央に位置する勧進坊が号令を発すると、子供等は号令に倣って得物を正眼に構えた。すると、先程までの喧騒とは一変し、河原を静寂が支配する。撫でる様に吹き込んで来る風の音だけが、河原の静寂を掻き乱そうとしていた。両陣の子供らは、今にも溢れ出んばかりの滾る闘志をその身に留め置き、何かに耳を澄ませて睨み合ったまま、その時を待っていた。
「おや、今日も始まるようですな」
そう不意に声を掛けられて、視線を声がした方へと松五郎が向けると、
「これはこれは、山崎屋殿では御座らぬか」
腰に刀を帯びた、身形の良い壮年の男が歩み寄って来た。
「え?……あ、あぁ。ど、どうも」
松五郎が怪訝な表情で答えると、
「その節は当家の者が不快な思いをさせてしまい、忝い。こんな所まで足を延ばされるとは、商売熱心な事に御座いますな」
壮年の男は松五郎に向けて軽く会釈をして、松五郎の隣までやって来た。非礼を詫びられた当の松五郎は、未だに怪訝な表情のままだった。
「拙者の事を、お忘れに御座ろうか? 以前、国境の村で貴殿より油を買い受けた、矢野に御座る」
そう言って壮年の男は、ゆるりと松五郎の隣に座り込んだ。
「そ、その節はどうも。勿論、覚えておりますとも。矢野様――」
松五郎はそう言いながら座り直す素振りを見せて、隣に座り込んだ矢野との距離を少し空けた。
「山崎屋殿は、いずれかの陣に縁がお有りなのですかな?」
矢野は、松五郎の素振りを気にも留めずに問いかけた。
「縁といえば、縁。――腐れ縁、ですかね。知人が彼方の陣に居りまして」
松五郎はそう言って川下の陣を指差した。
「ほう、それはそれは。彼方の陣にも有望な男の子が居りますか」
矢野は言いながら、松五郎の指差す方へ視線を向けると、
「それにしても、あの陣容は如何なものでしょうな」
そう言って松五郎に意見を求めた。
「勝機が無い、とは言い切れないと思いますよ」
松五郎は矢野の問いに簡潔に答えると、
「ところで、矢野様もいずれかの陣にお知り合いがいらっしゃるのですか?」
そう言って、水を向けた。
「知り合いが居るという訳では御座らぬ。専ら、これも拙者の勤めの内、とでも申そうか。有望な者を取り立てる為に、こうして領内を探査しているという次第に御座る。河原合戦では槍働きの品定めが出来る故、時折こうして足を運んでおる次第――」
言い終える前に矢野は、刀を差した反対側の腰に提げていた竹筒の栓を抜いて一口煽ると、
「一献、如何か?」
そう言って竹筒を松五郎に手渡した。
「これは、どうも。――頂きます」
松五郎はそう言って、矢野に倣う様に一煽りすると、
「ありゃ……。水だ」
面食らった表情で零した。すると矢野は頭を掻きながら、
「拙者の扶持では、酒などは到底手が出せる代物には御座らぬからな。とはいえ、こうして杯を交わした仲に御座る。他人行儀な呼び方は止めと致しましょうぞ。拙者の事は、五左衛門の名で呼んで下され。はっはっは!」
破顔して快活に笑った。
「なるほど。それならば、私の事は松五郎とお呼びください」
松五郎は言い終えると、五左衛門に竹筒を返した。
「拙者が思うに、彼方の陣の真ん中に居る童なぞは、中々に見所があると察するが、如何に」
五左衛門は言いながら、川上の陣の中央に仁王立ちするガキ大将を指差し、松五郎に意見を求めた。
「体格と覇気。それに、陣をまとめ上げるだけの器量は十分に有りそうですね」
松五郎が五左衛門の問いにそう答えると、
「やはり、松五郎殿もそう思われるか」
五左衛門は、松五郎の期待した通りの返答に満足げな表情を見せた。しかし、松五郎は続けた。
「でも、それはあくまでも個としての話です。これ程の人数では勝敗を決する決定的な要因にはならないでしょう」
五左衛門は「ほう」と声を発すると、松五郎の見解のその先を待った。
「秀でた能力は、時として慢心や驕りというものを生むでしょう? むしろ、そちらの方がこのような場では、勝敗を決する決定的な要因になるんじゃないですかね?」
松五郎はそう言って、両陣が対峙する河原に視線を向けた。