16. 忘れ物
「御加減は如何ですか? 松五郎殿」
簡素な作りではあるものの、小奇麗な僧衣を纏った男が穏やかな声色で問い掛けながら、座敷へと入って来た。
「まぁ、何というか。慣れた、とでも言うべきか――」
松五郎がそう言いながら、突っ込む様に覗き込んでいた手桶の水面から視線を上げて、声を掛けてきた主の方へと顔を向けると、
「慣れた――ですか?」
そう言って僧衣の男は、良く陽の当たる縁側に座していた松五郎の真横へと歩を詰め、手慣れた所作で僧衣の袖裾を払いながら隣に座した。
「何か、大事なものを忘れている様な気がするんだ――」
松五郎はそう言うと、軒下の縁側から晴れ渡った空を見上げた。
「松五郎殿。もしや――拙僧の事もお忘れに御座いますか?」
唐突な僧衣の男の問いに、松五郎は我に返えると、
「いやいや、ちゃんと覚えてますとも。日運さんでしょ?」
僧衣の男へと視線を戻して、問いに答えて見せた。
「確かに、それはそうなのですが。私が申して居りますのは、何と申しますか――」
日運は、自身の内に生じた疑念をそのまま言葉にすべきか否かを逡巡して、口を噤んだ。
松五郎が覚えていると言ったのは、つい先日の遣り取りの事だ。姦しい小僧たちの喧騒で目覚めたものの、己が立ち位置を見つけられずに呆けていた松五郎へ、騒ぎを聞きつけてやってきた僧衣の男が、自身を日運であると名乗った事だ。それに比して日運は、それ以前の自身と松五郎との関係性について問うたのだ。日運からしてみれば旧知の兄弟子が来訪したのであるから、喜びも一入ではあるのだが、どうにもその他人行儀な物言いに一抹の不安を想起せずにはいられなかったのだ。
「えーと、確か――善からぬ輩? に追われて……でっかい湖? を小舟で――逃げていたんですよ」
自身の記憶力を疑われたと感じたのか、松五郎は途切れ途切れに、ここまでの道程を口にし始めた。
「ふむふむ」
松五郎の隣に座した日運は、先を急かす素振りも見せずに、松五郎の言葉に相槌を入れながら、耳を傾けていた。
「途中で突風に晒されて――荒波に揉まれて――それから――湖岸に打ち揚げられて――」
松五郎は、記憶の断片を搔き集める様にたどたどしく言葉を紡ぎ、
「山道?を歩いてたら――明かりが見えてきて……」
そこまで言うと、一つ溜息をついた。
「山道に明かり、ですか」
日運は落ち着いた声音で松五郎の言葉を辿ると、そのまま沈黙する松五郎の言葉を待った。
「――その後は、真っ暗。只々、真っ暗」
続けられた松五郎の言葉を聞いた日運は、綺麗に剃り上げられた自身の頭に手を遣ると、瞑目して口を閉ざした。
「ホントに真っ暗。あの、トン・チン・カンの三小僧に起こされるまで真っ暗でしたよ」
松五郎はそう言って、中空を見据えて乾いた笑みを浮かべていた。
「トンチンカンですか。これはまた、言い様ですな」
日運はゆっくりと瞼を開くと、その顔に朗らかな笑みを湛えて松五郎の言に同調した。すると、
「さて。それではお教え願いたいのですが、何故、追っ手を善からぬ輩と思われましたか?」
居住まいを正して、日運は松五郎に問いかけた。
「何でかな? 言われてみると、可笑しな話だ。生理的にとでも言うか、潜在的にとでも言うべきか――」
松五郎は、日運に問われて小首を傾げると、
「根拠は無いんですよね。何て言うんだろ――狩られる獲物の心情とでも言うんですかね。こちらに向けられる敵意みたいなのが、尋常じゃなかったというか――」
そう言って日運の方へと曇らせた表情の顔を向けた。
「そうですか。因みに、道中は御一人で御座いましたか?」
日運は、平静を装った表情で松五郎の視線を受け止めると、松五郎の記憶の輪郭を、より鮮明なものにできないかと試みた。
「一人、ではなかったような……。確証はないんですけど、なんて言うんだろうな。自分の後ろが気になるというか、そんなモヤモヤっとした感じは――」
松五郎はそう言いながら両の手で自身の顔を覆うと、沈黙してしまった。
「これは、詮無い事を致しました。どうぞ、気を御平らかに。心身が健全に戻れば、自ずと思い起こされる事もありましょう。不躾が過ぎました、今の問いはお忘れくださって結構に御座います」
日運は自身の試みが早計であったと自省すると共に、松五郎の身を案じたのだが、
「いやいや、日運さんが俺の記憶力を疑うのも、無理の無い話ですよ」
松五郎はそう言って両の手を顔から解放すると、その場に立ち上がって
「ぅぐあぁーっ! ]
と、両の腕を高々と上げながら大きく背筋を伸ばして、日運の憂慮を払拭した。と同時に、
「お? あれは――何してんだ?」
立ち上がって開けた視界の更にその先の河原に、幾つもの小さな人影がわらわらと蠢く様を見つけて、松五郎は思わす声を上げた。
「何か、物珍しいものでも御覧になられましたか?」
そう言って日運は立ち上がると、松五郎に並び立つようにして松五郎の見遣る視線の先を辿ったのだが、
「おやおや。また、ですか」
と、見飽きた何時もの光景を目の当たりにしたとでも言いたげな表情で溜息混じりに呟くも、松五郎と共に河原の人影の動きを目で追っていた。然う斯うして、わらわらと蠢く小さな人影が右から左へ、左から右へと幾度かの揺動を繰り返し、ぱたりと動きが止まった暫く後、風に乗って子供らのものと思しき黄色い声が聞こえてきた。
「直に、トンチンカンが戻ってきますよ」
言うなり日運は、座敷の傍らに置いてあった薬研を手に取って縁側に座ると、袂から取り出した植物を徐に轢き始めた。
「え? 何かの儀式でも始めるの?」
日運の行動に理解が追い付かない松五郎は、目を丸くして問いかけた。
「これは、異な事を。拙僧も、松五郎殿も大いに世話になったではありませぬか。それはもう、調練の後には必ずと言っても良い程に」
怪訝な表情を浮かべながらも、日運は動かす手を止めずに松五郎の問いに答えた。そんな日運の返答に、松五郎はさらに怪訝な表情で小首を傾げて日運の言を反芻していた。
そうこうしていると、
「不甲斐無い、不甲斐無い! あの程度で押し崩されるとはっ!」
「そうだぞ、勧進坊。其方も何時までも泣いておるでない!」
「ひっ、えぐっ……」
縁側から見える境内に、姦しい声が響いてきた。
「いやいや、鎮護坊。俺が言うておるのは、其方らの備えの事じゃ。もうひと踏ん張り出来たであろうに」
「いやいや、惇厚兄。おいらは踏ん張りましたよ。でも、勧進坊がすぐに退くから――」
「えぇぇーっ!? 退けと仰ったのは、備え頭の鎮護兄ではありませぬか!!」
それまで泣きべそを掻いていた勧進坊が、理不尽な鎮護坊の釈明に泣き止んだ。
「よいか、勧進坊。槍というものは、こう振り落として、こう薙いで、こう突くのだ!」
最年長の惇厚坊が手にしていた棒きれを勇ましく振りながら、勧進坊にその扱いを示すと、
「そうだぞ、勧進坊。槍というものは、こう突いて、こう突いて、こう突くのだ! 」
惇厚坊に続いて、鎮護坊も手にしていた棒きれを突きつつ、勧進坊に自身の槍捌きを披露した。
「いやいや、鎮護坊。槍というものはだな、ただ突けば良いというものではなくてだな――」
「いやいやいや、惇厚兄。やはり槍はこう突いて突いて突いて、決して退いてはならぬものに御座る!」
鎮護坊はそう言い切ると、勧進坊にしたり顔をみせた。すると勧進坊は、痣だらけの坊主頭に巻いた鉢巻を震える手に取り、
「ぐぬぬ、――――訴えてやる!!」
地面へ力任せに投げつけた。