15. 伝統芸能
揺蕩う汚泥の中へと沈められた様に、深い闇の中を只々沈んで行く。体中に枷をされた如く、身動ぎすることも出来ずに、鬱屈とした闇の中を仰向けのままゆっくりと何処までも沈んで行く。遮るものは何も無く、沈み行く身を流れに任せる他無いのかと、諦観を覚える。否、何処かでそれを自身が甘受しているのかもしれない。そんな思考が朧気に浮かんでは、輪郭を形成し終える前に消えて行く。思考も然る事乍ら、己の存在自体も空漠なままに、果て無き深淵の底を目指す様に沈んで行く。
どれだけの時を費やして沈降していたのだろうか。未だに、深淵の底まで辿り着けた自覚は無い。そもそも、こうして茫漠としている己が何者なのかという根源的な部分さえも曖昧なままなのだ。ただ、何者からも干渉されないこの静寂に満たされた空間が、己の心待ちにしていたものだったのではないかと、漠然とした安らぎに身を委ね始めているのは否めない。
何時からだろうか。途切れ途切れに、意識の遠くから何者かの声が聞こえては消えて行く。上とも下とも、左右何処からとも判らない。
「…………もう三日もこうして…………」
「――――このまま目覚めぬやも――――」
「…………息は有ります故――――」
安らぎを覚え始めた至福の静寂を、何者かの声が侵害して来る。それは、微睡へ身を委ねた頃合いに、無防備な項をざらりとしたもので撫でられる様な不快感に似ていて、嫌悪すら覚える。
「……大恩ある御仁と……は仰せではあったが……」
「――目覚めぬのでは――もあるまい――」
「……もう暫く様子を見ましょう。恐らく明日には――」
聞こえる声の間隔が短くなるにつれて、小波が軈てうねりを伴う大きな波へと姿を変える様に、はっきり意識の中へとその存在を主張し始める。
「食事を取らせろと和尚様は仰せであったが、如何したものか」
「目覚めぬ者に食事をさせろとは、これまた難儀な問題を出されたものだ」
「こちらに運ばれてから既に三日も意識が戻らぬままですから。流石に息があっても、このまま目覚めぬとなると、意識が戻る前に餓死してしまうやも知れませぬ」
それらが聞き覚えの無い、声音の異なる三人の子供の声であると知覚する。
「昨日は口元まで匙で運んでみたが、結局飲み込ませる事も出来ぬままであったし。如何したものか」
「ふむ。――――であれば、口移しで無理矢理にでも押し込めば、何とかなるやも」
「……え? だ、誰がやるんですかそんな事。私は嫌ですよ――」
左右と頭上の、三方向から声が聞こえてくる。と同時に、自身が仰向けに寝かせられ、その枕元をぐるりと囲まれているのだと認識する。
「衆生の民の救済を手助けする事が、沙弥である我らの役目。故に、これも我等の役目の一つという事であろう、違うか? 鎮護坊、勧進坊」
一番年長の者と思しき声が、年少であろう者達を諭すように言った。
「う、――うむ、確かに。惇厚兄の言う通り、相違あるまい」
次席の者と思しき声が、最年長の惇厚坊に同調した。しかしながら、
「……そ、そうかも知れませぬが――」
と、最年少の者と思しき声の主は、乗り気でない様子がありありと感じ取れた。
「では、勧進坊。鎮護坊の申した方法以外に、妙案があるというのか?」
惇厚坊が、勧進坊に問い掛けた。
「い、いえ。私にも、それ以外の方法は無いものと考えまする……」
勧進坊は、惇厚坊の問いに答えた。すると、
「この難題を達成できれば、和尚様からの覚えもさぞ目出度かろう。とは言え、その様な欲に動じぬのは、さすが勧進坊様じゃ」
鎮護坊は、そう言って勧進坊を揶揄した。
「……否、決してその様な、大それた事では御座いません。ただ私は――」
勧進坊は鎮護坊の揶揄いを否定するも、乗り気でない事は変わらない様子だった。そうして暫くの沈黙と気不味い空気が漂うと、
「されば、おいらがやりましょう!」
次席の鎮護坊が思い切りよく声を発した。すると、
「いやいや、此処は最年長である俺が其方等に手本を見せようぞ」
そう言って惇厚坊が鎮護坊を制する。
「いやいや、言い出したのはおいらですから、おいらが責任を持って――」
鎮護坊は、惇厚坊の制止を振り切る様に主張する。
「いやいやいや、此処はこの場を任された俺がだな……」
今度は惇厚坊が更に負けじと主張する。そんな不毛な遣り取りが交わされる中、
「で、では私も……」
と、それまで消極的であった勧進坊が口にした瞬間、
『どうぞどうぞ!!』
惇厚坊と鎮護坊が、口を揃えて言った。
「おい! 鉄板の伝統芸能かよっ!!」
その声に、「ひっ」と三人の引き攣った声が上がると、周囲の喧騒が一瞬で静寂へと変わった。




