12. 追跡者(下)
平八は舳先を北側に向けると、素早く舟尾に艪を取り付け直し、体全体を使って大きく艪を漕ぎ始めた。
「お、おい! 何処へ行く気だ!!」
父と義父の敵を眼前にしているにもかかわらず、一太刀すらも浴びせられずにその距離が離れて行く事に、庄五郎は声を荒げた。
「いよっ! ほっ! 旦那の気持ちも、解らないでは無いんですがね――。いよっ! ほっ! 分が悪過ぎるってもんですよ」
軽快な掛け声と共に艪を漕ぎつつ、平八は庄五郎に平静を装いながら言った。
「いや、しかし……。今ここで彼奴の首を刎ねねば、父上と親父殿の死が報われぬ! お主に俺の気持ちの何が解ると言うんだ!!」
至る所に槍傷の付いた薙刀を片手に、満身創痍を絵に描いた様な姿で立膝を突く庄五郎は、艪を漕ぎ続ける平八を睨み付けた。
「旦那、勘違いしないでくださいよ。俺にゃァ、旦那の気持ちの全ては解らなくとも、旦那達を守る為に死んだ人の気持ちは、今の旦那よりもハッキリと解りますぜ」
平八は睨み付けて来た庄五郎を、憂いを含んだ眼差しで見遣りながら言った。
「な、何だと! 父上や親父殿に会った事すら無いお主に、その様な事が解る筈もあるまい――!!」
平八の言葉に、庄五郎は苛立ちを隠そうともせずに食って掛かろうとするが、
「いよっ! ほっ! そもそも旦那の親父さん達は、旦那達に敵を討ってくれなんて言ったんですかい?」
平八は艪を漕ぐ手を止めずに、庄五郎へ問い掛けた。
「そんな事ある訳無いだろう! 死人に口が利ける筈も無かろう――くっ!」
平八の問いに庄五郎は反論するも、途中で肩から崩れ落ちた。
「庄五郎さん――! 御気を確かに!!」
黙って二人の遣り取りを見ていた千佐は、突っ伏す様に倒れた庄五郎に駆け寄ると、庄五郎を背中から抱き起こした。
「だから、それは親父さん達の思いじゃなくて、旦那自身の思いでしか無いんじゃないですかね?」
平八は両の手で掴んでいた艪を手放すと、帆柱に歩み寄って帆の向きを調節しながら庄五郎へ更に問い掛けた。
「…………?」
千佐に背を預けた庄五郎は、問われた真意を測りかねた表情のまま、平八の問いに答える事が出来なかった。
「よし。あっちはまだ船の向きを変えきれてないな。まだ何とかなりそうですぜ」
平八は帆桁に繋がる手縄を握って舟尾の先を見つめながら言った。
作兵衛達の船はその大きさ故に速度は出ても小回りが利かず、方向転換に手間取っている様子だった。それを尻目に、平八の舟は絶妙に調節された帆に大きく風を孕んで速度を上げる。平八は手縄を握ったまま、その場に胡坐を掻いて庄五郎の方を向くと、
「こう見えて俺も、子を持つ親なんでね。子等を逃がそうとした親の気持ちってのは、痛い程解りますぜ」
独り言の様に話し始めた。
「旦那達に、生きて欲しかったから身を挺してでも守りたかったんでしょ。そんな人達が、態々危険を冒してまで敵を討ってくれなんて言う訳無い事くらいは、会った事の無い俺にだって解りますって。ましてや自分の子等なら尚の事、絶対に言う筈がない。人の親って言うのは、そういうもんですぜ」
平八の独り語りに庄五郎の背を支えていた千佐は、瞼から零れ落ちようとするものを堪えながら、
「……庄五郎さん、船頭さんの仰る通りなのかもしれません。私達には子が居りませんから、思い至らなかったのでしょう」
庄五郎の背に向かって呟いた。満身に生じた傷の痛みを荒々しい呼吸で耐えていた庄五郎の背にも、支える千佐の手が震えていたのが伝わった。
「――そういうものか。千佐、其方がそれで納得できると言うのであれば、もうこれ以上は言うまい」
庄五郎は、そう言って大きく息を吐いた。
庄五郎からすれば、千佐が口にした言葉が決して本意では無い事などは、十分に承知している。子供が居ないから親の気持ちが解らない、などという理屈で合点など行く筈も無い。ただ、そうでも言わなければ庄五郎のみならず、千佐自身の怒りの矛先の納め場所が見つからないからだ。千佐からすれば、敵への憎しみよりも、痛めつけられ続ける庄五郎の姿をこれ以上見ていられなかったのであろう。
「さて、そろそろ追いかけて来る頃合い――だよな」
平八がそう呟いて舟尾を見ると、作兵衛を乗せた船は進路を平八の舟に向け終え、文字通りに満帆の風を推力として一直線に追いかけて来ていた。平八は握った手縄を微調整しながら舟を走らせる。が、やはり船速は作兵衛を乗せる船の方が格段に速い。遠巻きに見遣っていた船影が、確実に大きくなっている。
「随分と逃げて来たが、流石に逃げ切れぬか――」
刻一刻と迫り来る船影に、舟の上では何も出来ぬ庄五郎は歯噛みするしか無かった。すると、
「旦那、伏せていないと危ないですぜ」
平八は庄五郎へ注意を促すと、素早く帆を畳み帆柱までも取り外して、船底へ俯せになってしまった。
「お、おい! どうにかしなければならぬ時に、船頭のお主が寝そべってどうするんだ!!」
平八の行動に、庄五郎が泡を食って声を掛けた。
「いやいや、旦那。船頭とはいえ、こっから先は神頼みってやつですぜ――」
そう平八が答えた。庄五郎と千佐は納得のいかない表情のまま、平八の姿に倣って舟底に俯せになった。すると、それまで舟尾から吹いていた風が次第に弱々しくなり始め、軈てぴたりと止んでしまった。作兵衛を乗せた船は帆を開いたまま、先程までの風の勢いの惰性で目と鼻の先までの距離に迫って来ている。
「おや、やっとその気になって頂けましたか。その姿は降伏するという意味と取って差し支えないですよね」
船首に姿を現した作兵衛が、舟底に俯せになる庄五郎達の姿を眺めて満足げな笑みを浮かべた。その瞬間、
「きゃあっ――!!」
千佐が堪らず声を漏らした。突然、舟が上下に大きく揺さぶられ始めたからだ。そしてそれから間を置かずして、唸る様な音を立てながら突風が吹き付ける。
「ち、千佐! しっかり摑まっていろ!!」
庄五郎は舟が大きく上下に揺さぶられる中、千佐を庇いながら舟底にしがみ付く。轟音と共に間断なく吹き付ける突風と、上下へ揺さぶる大波に舟が軋み出す。庄五郎は、二度三度と大きく波に揺られる間に舟底へ水が入り込んでいる事に気付く。
「旦那! 水を掻き出そうとか余計な事を考えてちゃいけませんぜ! 放り出されたら一巻の終わりですぜ!!」
平八に促され、庄五郎は必死で舟底にしがみ付いた。
「早く船を近付けなさい! 我らの大願は、目前に在るのですよ!!」
温容な表情しか見せていなかった作兵衛が、顔を紅潮させて指示を出す。しかしながら、開かれたままの帆に向きを変えた真横からの突風が襲い掛かり、大きく船体が煽られる。
「――急いで帆を閉じさせなさい!!」
作兵衛は船縁にしがみ付きながら、紅潮させた顔を今度は蒼くして指示を出す。しかしながら、一度風を孕んで開ききった帆を閉じるのは容易ではない。大きく波に揺られる度に、帆柱へ近付こうとした船員が体勢を崩して湖面へと飲み込まれて行く。
「縄を切ってでも帆を閉じなさい! 早くなさ――あぐっ!」
作兵衛が指示を出している最中にも、波と突風に船が煽られて船体が大きく斜めに傾ぎ、作兵衛は強かに額を船縁にぶつけた。次の瞬間、今までよりも更に強い突風が吹き付けて木材の軋む音が辺りに響くと、限界点を越えて湾曲した帆柱がその中程から大きな破断音と共に、真っ二つに圧し折れた。帆柱を失い制御不能となった帆は突風任せに靡き、その帆と帆柱を繋いでいた縄は暴れ狂い、甲板に居た者達を絡め取って湖面へと放った。だがしかし、鳰の海の牙は容赦をしない。畳み掛ける様に間断無い突風で船腹に噛み付くと、波の起伏と相俟って上下左右にと翻弄し続ける。その間にも足下を掬われた者達が湖面へと放られ、船体を構築していた部材が剥がされて行く。軈て船内に湖水が侵入し始めて船体は大きく傾いだまま、波に揺られる木っ端の如く湖面を彷徨い始める。が、それも束の間。殴り付ける様な突風が吹き荒れると、船体を横転させてしまった。
「旦那! 振り落とされないでくださいよ!!」
平八が必死の形相で庄五郎に声を掛けた。
「わかってる! こんな所で、魚の餌になんぞされて堪るか!!」
庄五郎は、精一杯の強がりを込めて平八に答えた。そんな中、庄五郎は吹き荒れる突風の轟音の向こう側に、数々の悲鳴が混ざっている事に気が付く。断末魔の叫び、ないしは怨嗟の雄叫びとでも言うべきか。暫くして、木材の大きな破断音が聞こえると悲鳴は最高潮に達し、軈て吹き荒ぶ風音しか聞こえなくなっていた。