10. 追跡者(上)
「おや、山崎屋さん。今朝戻ったばかりでやしたよね? 日も明けぬというのに、また御出立で? 油屋さんってのは、そんなに儲かるんですか?」
そう愛想良く矢継ぎ早に庄五郎へ質問をぶつけて来たのは、鳰の海で渡し舟の船頭を生業としている平八だ。庄五郎は、美濃への行商の際には必ず渡し舟を使って南湖を往復していた。その為、庄五郎は船頭の幾人かとは既知であったが、殊にこの平八の渡しを常用していた。「時は金なり」とは、誰が言ったかは知らないが、その妙味を庄五郎は心得ていた。大津から渡しを使わずに湖の最南端を迂回して、瀬田に架かる橋を渡り対岸の草津まで徒歩で行くとなると、倍近くの時間を要する事になる。『武士の 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋』急がば回れの語源でもある連歌師・宗長の歌にもある様に、平時は穏やかに見える湖も時折牙を剥いては船を転覆させる。それでも尚、庄五郎が渡しを使うのは、この平八あっての事だ。薄汚れた褌に襤褸を羽織る小奇麗とは言い難い身形に、粗野な言葉遣いの平八ではあるが、この界隈で鳰の海の風と波を読むことに関しては右に出る者は居ないと噂される程の力量の持ち主だ。庄五郎はそんな平八の腕を買っていた。つい先刻、美濃からの帰りに使った渡しの船頭も平八であった故、平八の疑問は当然と言えば当然の事だ。
「あ、あぁ。まぁな……」
庄五郎は言葉少なに平八をあしらうと、千佐の手を取って平八の舟に乗り込んだ。
「おぉ? 旦那、今日は油の瓶じゃなくて、女を運ぶんですかい?」
平八は岸に穿たれた杭に腰掛けたまま、下卑た笑みと共に庄五郎に問い掛けた。
「そんな訳あるか、俺の女房だ。いいから早く出してくれ」
庄五郎は何時に無く低い声で平八に出航を促した。
「あ。そいつは失礼しやした……。でも旦那、他の空きが埋まるまでは出せませんよ」
船頭を含めて七・八人は乗れる乗り合いの帆舟である。乗客がたった二人で出航するとなれば、平八としては商売にならないからだ。
「満席往復分の額を払うから、直ぐに出してくれ」
庄五郎は腰を下ろすと、周囲を警戒する様に注視しながら平八に再度出向を促した。
「へいへい。そんだけ頂けるなら、文句はありゃしませんよ。と言っても、鐚一文負けやしませんけどね」
平八は手の甲で鼻頭をひと擦りしてそう言うと、腰掛けていた杭に括られた縄を解いて軽い身の熟しで乗船し、艪を漕ぎ始めた。夕陽に紅く染まる鳰の海を、ただ一艘の舟が黒い漣を立てながら沈み行く夕陽から逃れる様に進んで行く。舟はいつも通りに大津を出て、南湖の対岸にある矢橋を目指す。暫く経つと、夕涼みに心地よい風が頬を撫ではじめる。すると、平八は待ってましたとばかりに折り畳まれていた帆を一気に開く。舟は張られた帆に風を孕み、艪を漕いでいた時とは比べ物にならない程の速さで進み始める。そんな折、庄五郎が平八に声を掛ける。
「済まぬが、頼みがある。このまま太湖へ出て、なるべく東の方に着けてくれないか?」
平八は帆の向きを調整しながら、庄五郎に顔だけ向けると驚いた表情で言う。
「冗談言っちゃいけませんぜ、旦那。太湖は南湖よりも吹き付ける風が難儀なのは、此の辺なら餓鬼でも知ってますぜ? ましてや、この暗がりで太湖に出るだなんて、正気の沙汰とは思えませんぜ!!」
比良山地から鳰の海に向かって吹き付ける猛烈な北西の風、比良颪。何百、という舟を湖底に沈めてきた鳰の海の牙の正体である。面積の狭い南湖であれば凌ぐ事が出来ても、それよりもはるかに広い太湖で吹き付けられてはひとたまりもない。流石の平八も、暮れ行く西の空を見遣り呆れ顔だ。
「ほら、旦那。風枕が出てますぜ。今日は間違いなく荒れますよ」
平八はそう言って夕日の傍らに映える山影を指し示す。庄五郎は黙したまま平八が指し示した先を視線で辿る。山々の稜線を、夕日に照らされた燃える様な分厚い雲の帯が覆っていた。
「庄五郎さん、あれは……」
そんな折、庄五郎の対面に座っていた千佐が、先刻舟が離れた岸の方を指差し不安気な顔で庄五郎に声を掛けた。庄五郎が千佐の指し示す岸の辺りに視線を向けると、数本の松明の揺らぎが見える。
「不味いな、もう追いつかれたか」
庄五郎は呟くと、足下に置いていた先端を布で包んだ長い柄を掴んだ。
思えば、女連れでの移動であるから遅かれ早かれこうなる事は予見出来ていた事ではある。馬でも使えればより時間を稼げたであろうが、馬の手配をする様な時間はとても無かった。千佐の手を取り奈良屋を裏木戸から出ると、小路を抜けて人目を掻い潜りながら京を出た。取り敢えず護身用にと足元にあった薙刀を手にはしたものの、それ以外に旅支度をする余裕など無かった。最速で遠方へ逃れる方法を考えたのだが妙案も思い付かず、気付けば通い慣れた行商の道程へと足が勝手に赴いていたのだ。
「平八、あの船よりも速くは進めないのか?」
庄五郎は船尾から見える、岸を離れたばかりの船を指差して平八に訊いた。
「え? それは無理ってもんですぜ。あっちは漕ぎ手が数人乗ってて、尚且つ船も大きいから帆も広い。当然、あっちの方が船足も速いってのが道理ってもんですぜ?」
平八は更に呆れ顔で庄五郎に答えた。そんな平八の背中に、見る見るうちにこちらよりも二回りほど大きな船が迫って来る。平八は帆を調整しながら、呑気に口笛を吹いていたのだが、
「おわっ! 真後ろに付けようとしやがって、俺の風道に割り込むんじゃねえよ!!」
船尾を振り向いた平八は、あからさまに不機嫌な顔をして唾棄する様に言い放った。本来、平八の舟が受けるべき追い風が後ろに割って入って来た船に遮られ始める。帆船が後ろから追い上げてその距離を縮める毎に、平八の舟はその船足を弱めて行く。南湖の半ば程まで出たところで平八の舟は追い風を捉える事が出来なくなってしまった。後から追いかけて来た帆船が既に五・六間の真後ろに迫ってしまったからだ。
「庄五郎さん、皆さんを残してどちらへ行かれるのですか? 皆さん寂しがっておいでですよ。さぁ、戻りましょう」
追いかけて来た帆船の船首から庄五郎に声を掛ける者が居る。両の手を庄五郎へ向けて開き、芝居じみた大げさな身振りで語り掛けた。顔は見えずとも、庄五郎にはその声に聞き覚えがあった。そして、それはまた千佐も同じであった。
「父様の命を奪ったのはあなたですね!!」
そう言って、庄五郎が手にしていた長い柄を取り上げる様にして構えたのは千佐だった。軽く吹いた横風がその先端を覆っていた布を脱がし、隠していた白刃が露わになる。千佐が身を隠していた作業場で、又兵衛に尋問をしていた者の声は千佐の脳裏から離れる筈も無く、聞き間違え様も無い。
「いけませんよ、他人の物を勝手に持ち出しては」
船上の人影の横顔を、微かに残る夕日が照らしてようやっと男の顔が判別できる。しかし、庄五郎も千佐もその判別を必要として居なかったのは言うまでも無い。今となってはあの温容な表情も、取って付けた様な薄気味悪さと嫌悪感しか残さない。
「やはり。あなただったんですね、作兵衛さん」
千佐は薙刀を構えたまま、船上の影を睨み付けた。




