9. 監視者(下)
粗雑に張られた壁板の隙間から侵入して来た日差しが一条の光をつくり、薄暗い作業場の土間へと照り付ける。時が止まったかの様な空間に、ひたひたと油の雫が落ちる音だけが響く。啖呵を切った庄五郎の眼は充血し、固く結んだ口の端からは赤いものが滴り落ちていた。庄五郎の中に沸々と滾る、行き場を失った怒りが臨界点へと達しようとしていた時だった。
「…………さん…………」
山の様に積み上げられた、空き樽の奥から声の様なものが聞こえて来る。
「宝珠が望みか、それとも俺の命か! くれてやるって言ってんだ! 出てこい!!」
庄五郎は更に怒声を張ると、肩幅に足を開き腰を落として前傾姿勢をとる。そして、これから姿を現わすであろう敵対者に、ありったけの怒りと激情をぶつけてやろうと両の足と拳に力を込めた。しかし、奥の方で何かが蠢く音はするものの、一向にその何者かが姿を現す気配が無い。
「そこに居るのはわかってんだ! さっさと出てこい!!」
己に失う物は無いと腹を据えた庄五郎は、せめて一矢でも報いてやろうと鼻息を荒くさせていたが、
「……し、庄五郎さん。申訳ありません、出られぬのです」
庄五郎は、やっと判別できた消え入る様な声に聞き覚えがあった。
「ち、千佐なのか――――!?」
庄五郎は空き樽の山に駆け寄ると、声を辿りながら樽の山を掻き分けて声の出所を捜す。二つ三つと手前にあった空樽を退かし、一段上に積まれた樽を何とか引きずり下ろす。そうして寄せ集められていた樽の山の一角が切り崩されると、その隙間に膝を抱えて蹲る女の姿があった。
「千佐! 千佐!」
庄五郎は妻の名を呼んでその肩をきつく抱いた。
「父様が、父様が……」
千佐は、庄五郎に消え入る様な声で肩を震わせながら何度も訴え掛けたが、庄五郎には返す言葉が見つからない。
「あぁ。……済まない」
庄五郎は、たったそれだけの言葉を返すのが精一杯だった。唯一、千佐が無事であった事に安堵の感も在るものの、眼前にある惨状をどう受け止めればいいのか、どう伝えれば良いのか庄五郎は答えを出せず、只々震える千佐を抱きしめるだけだった。そんな折、
「おーおー、これはまた随分と派手にやられておるのう。おい、家の者は居るかー?!」
不意に店先の方から男の横柄な声が聞こえてくる。眼前の凄惨な現実から目を背けたかった庄五郎の意識は、その声で無慈悲にも引き戻される。庄五郎には、声の主が隣人である作兵衛が報せを出した所司代からの役人であろう事は察しが付いた。庄五郎は蹲っていた千佐の肩を抱いたまま立ち上がらせると、千佐のつぶらな瞳を見つめて口を開いた。
「済まぬ、千佐。俺には行かなければならない場所がある。これから役人の詮議があるであろうが、起きた事をありのままに役人へ答えよ。それと、俺の事は行商に出たきり姿も見ていないと言ってくれ。そうしなければ、お前に要らぬ迷惑を掛けてしまう事になるからな……」
そう言い終えると、庄五郎は千佐に背を向けた。すると千佐は縋る様に抱き付き、庄五郎の背に顔を埋めて言う。
「お待ちください! 私は父様を失い、恐らく惣二郎たちも――。家族と呼べる者達を失い、これより更に私は、あなたをも失うと言うのですか? 」
庄五郎には、この押し込みの真意に見当がついていた。又兵衛の背に突き立てられた薙刀と、庄五郎が肌身離さず懐に仕舞い込んでいた七彩色の宝珠に似せた数珠。庄五郎には思い当たる節が在り過ぎる。薙刀を得物に押し込みを謀る賊などいようものか。七彩色の宝珠そのもの或いは、その在処を知りうると思しき峰丸こと庄五郎を狙ったに相違無い。又兵衛のあの様は、明らかな犯行声明に他ならない。その場に居なかった庄五郎に対する、無言の脅迫である事は明白だ。庄五郎は、それならばいっその事、眼前に転がる薙刀を片手に叡山へ馳せ、宝珠を叩き付けて寺内で孤独な弔い合戦を演じて暴れるまで、と意を固めていた。しかしながら、千佐にはそんな自棄になっていた庄五郎の意が、手に取る様に汲み取れたのであろう。背を向けたまま固く両の拳を握る庄五郎へ、千佐は更に問いかける。
「それに、おかしいとは思われませぬか? 明け方に騒ぎが起きたというのに、今頃になって御役人がお見えになるなど時が経ち過ぎております。ここに日が差し込むという事は、既にお昼近くなのではありませぬか?」
庄五郎は千佐の問いかけに、頭へ上っていた血が一気に逆流する様な錯覚を覚えた。
「な、なんだって!?」
庄五郎は思わず縋りついていた千佐に向き直って訊き返した。
「明け方に店の戸を叩く音がして、それから間もなく惣二郎の叫びが聞こえました。その声を聞いた父様が唯事では無いと、私をここへ隠しました。暫くの間、家捜しをしていた様な音が聞こえていましたが、ついにここも見つかり、父様は賊に討たれました……」
千佐は正気へと戻ったであろう庄五郎の為に、本来であれば思い起こしたくも無いであろう出来事を己が感じたままに口にする。息を殺し、耳を澄ませて外の状況を探り、見つかれば恐らく命は無いという張り詰めた空気の中の出来事だ。
「賊は頻りに『峰丸』と『宝珠』について父様へ問い質していましたが、父様には身に覚えの無き事であった様で答え様が無く、知らぬ存ぜぬと申しておりましたが敢え無く――」
それまで気丈に振舞っていた千佐ではあったが、自身の父の最後を語る途中で嗚咽が混じり、それ以上は語れなくなってしまった。又兵衛の躯は直ぐ傍にある。娘の存在を秘して最後を迎えたのだから、娘に声を掛ける事も無く逝ったのであろう。庄五郎へ抱きついた千佐の手は、庄五郎の着物を握り緊めたまま震えていた。庄五郎には、その震えが恐怖に因るものでは無く、何もする事が出来なかった千佐自身の自責の念が多分に含まれている事は聞かずとも計り知れた。
「もう、それ以上は言わずとも善い」
庄五郎はそう言って、震える千佐の肩に両手を置いて落ち着かせると、瞬時に思考を巡らせる。
「何かがおかしい……」
庄五郎は思考の端にある違和感を否定できなかった。そもそも、明け方に隣家で家捜しなどされていれば隣人も気付くはずであるし、隣人が店を開ければあの異様な様には気付くはずだ。となれば、所司代に使いを出すのは朝方だろう。それにも拘わらず役人は昼過ぎに来た。しかも、なぜ庄五郎が行商から戻って来た今なのか。
「――しまった! 監視されていたのか!!」
庄五郎は黒い思惑の中に居た事に気付かされる。この界隈で商売をする者達は古くからの馴染みである。しかし、隣人である作兵衛は半年程前から商売を始めた新顔であり、その乾物店と奈良屋を挟む反対隣は先月から空き家になっていた。空き家の元住人は出立前に、叡山の口利きにより堺で大きな商売の話が纏まったからと言って引っ越して行った事を思い出した。既に、一月以上も前から堀は埋められていたのだ。そうして牙を磨き、襲い掛かる時期を虎視眈々と窺っていた事であろう。
違和感の輪郭が少しずつ明らかになって来ると、朧げであった全体像が否応も無く浮かび上がって来る。恐らく押し込みの下手人は、隣人の作兵衛であろう。半年近くの時間をかけて庄五郎を監視しながら生活習慣を洗い出し、行商で長期間留守になる事を知ってその時を待っていたのであろう。そして、作兵衛は庄五郎が行商で屋内に居ない事を知っていたからこそ、店でも無く人だかりからも離れた場所から庄五郎を誰よりも先に見つける事が出来たのであろう。更にそれを庄五郎に強く印象付けたのは、乾物商には似つかわしく無いあの無骨な手だ。庄五郎も法蓮坊と名乗っていた折には僧兵としての調練も受けていた為、相手の力量は無意識でも察知してしまう。普段は温容な表情ではあるが、その裏に隠された只ならぬ狂気は肌を通して感じずにはいられなかった。
「……庄五郎さん、これからどうされる御積りですか?」
千佐の肩に手を置いたまま思考を巡らせていた庄五郎に千佐が問い掛けた。
「千佐、良く聞かせてくれた。恐らく、押し込みと所司代の役人は結託しているのだろう。このまま詮議を受けても、真面な結果など得られそうに無い」
庄五郎はそう答えて自身の羽織を千佐に羽織らせると、千佐の手を取って更に語り掛ける。
「聞いてくれ、直ぐにでも此処を離れよう。親父殿や皆には申し訳無いが、そうする他無い。このまま此処に居ては危険だ」
千佐は、庄五郎に言われると無言で頷き、それを確認した庄五郎は足元に横たわる薙刀を手にして裏木戸へ向かって走り出した。




