7.不破の誓い
稜線に赤い夕陽がその姿の大半を隠し、静かな闇が足音を立てずに迫り来る。夕陽を受けて、一層鮮やかさを増した赤や黄色の木立を抜けて、秋の訪れを赤味掛かった風が運んでくる。日が落ち始めると、ほのかに肌寒さを感じ始める。
そんな穏やかな夕暮れに似つかわしくない、殺気を孕んだ眼差しを向ける男が一人、本堂の中から姿を現すと、半兵衛に一礼してまた本堂の中へと姿を消した。
「彼は喜多村十助直吉。ボクの護衛をしてくれているんだ」
半兵衛は文殊丸に男について述べた。護衛と言われるだけあって、文殊丸はその視線に只ならぬものを感じ、背筋を硬直させたままだった。
十助は、背丈こそ半兵衛とほぼ変わらないものの、体躯の強靭さが明らかに半兵衛を凌駕しているであろう事は、遠方からでもありありと見て取れた。そして、何よりも文殊丸に強烈な印象を与えたのは、左の額から左目の目尻にかけて張り付いていた、夕闇の中でもはっきりと判る大きな裂傷の痕だ。
十助は半兵衛の父、重元の頃より竹中家に仕えているという。源次などに比べると竹中家での勤務年数こそ少ないものの、それを補って余りある実直さと、豪胆さを持ち合わせているのだという。半兵衛は彼に全幅の信頼を寄せているのだ、と言い切る。顔の左側の傷跡は、半兵衛の父、重元に従って岩手長誠を攻めた戦の際に負った傷だという。
「殿、整いまして御座います」
暫くして、十助が脂燭の灯りを片手に、半兵衛達のもとへやって来て跪いた。
「行こうか、文殊丸」
半兵衛は文殊丸を手招きして同道を促した。文殊丸は招かれるままに、黙って半兵衛らに続いて本堂の敷居を跨いだ。
外から見えた寂れた景観とは裏腹に、内部は思いの外綺麗に保たれていた。ただ、一見で判る異様さは、板の間の真ん中に四角い穴がぽっかりと口を開けていた事だ。三人は、草鞋履きのまま板の間を軋ませて、四角い穴へ近づいて行った。近付いてよく見ると、板の間を取り外してその下から現れた、石階段の入り口だった。そして、足元を脂燭で照らす十助を先頭に、半兵衛、そして文殊丸と続いて石階段を下りはじめた。
十四、五段程下りたところだろうか。階段からそのまま、湿った陰気を充満させた小部屋に導き入れられた事がわかる。
「御足元にお気を付けくだされ」
そう言った十助が、足元を照らしていた脂燭を鳩尾の辺りまで引き上げると、小部屋の全景が露わになった。
文殊丸の背丈と変わらぬ程度の天井に、大きめの石を積み上げて造られたであろう石壁。四畳半程の床面の真ん中に、鉢巻の様に注連縄を飾られた、大きな球状の灰白色の石が、その姿を僅かに地中へ沈めた状態で安置されていた。
「何コレ、どうやって運び入れたんだ?」
そう言いながら近寄った文殊丸は、思わず大石の頭頂部をペチペチと叩いてしまった。
「罰が当たるやも知れませぬぞ」
それを見ていた十助が、鋭い眼光の一瞥で窘めた。
「おぉう、ソーリー。この石、壁石と明らかに質感が違うから――」
文殊丸は、軽率な行動の理由を述べて謝罪しようとしたものの、十助の鋭い眼光に牽制されて途中で断念した。十助がやれやれといった表情で文殊丸から視線を反らして自身の主の方を見ると、文殊丸はようやっと殺気から解放されて深い吐息をついた。
「さて、では始めようか」
そんなやり取りを傍で見ていた半兵衛が、文殊丸と十助に言った。何事が起こるのかと視線を彷徨わせる文殊丸を他所に、半兵衛は腰から下げた竹筒の中の液体を懐から出した小皿に移していた。すると十助は、それに合わせるかの様に懐から巻かれた小さな簾のようなものを取り出して、縛られていた紐を解き始めた。
「海苔巻きでも作るのか?」
そんな文殊丸の予想とは裏腹に、十助が手にしていた小さな簾のような包みの中からは一本の筆が姿を現した。そして、その筆は文殊丸へと手渡された。
「では、文殊丸。キミに不破の誓いを立ててもらうよ」
何の説明も無しに、半兵衛は文殊丸に言った。
「不破の誓い?」
文殊丸は説明を求める様に、復唱した。
「キミを疑っているわけではないんだよ。ただ、これから話す内容がちょっとね。だから、その内容についてはボクの家中の者以外には絶対に話さない、と誓約してもらいたいんだ」
半兵衛は文殊丸の疑問を置き去りにしたまま、事の重大さを仄めかして文殊丸に同意を求めた。
「ん、んー。」
文殊丸は視線を宙に彷徨わせて、黙考していた。そんな煮え切らない文殊丸の態度を、十助が鋭い眼光で一瞥した。
「う。わ、分かったよ。誓約するよ」
文殊丸は視線の端に十助の鋭い眼光を感じながら、半兵衛に同意した。どうにも強引に誓約させられた感は否めない。
「それじゃぁ……」
と言って、半兵衛は文殊丸が源次から持たされたてきた黒珠を文殊丸の左手に握らせると、
「この皿に入った清水とその筆を使って、この大石の上に『我不破誓』と書いて。そうしたら、続けてキミの名前を書くんだよ。忘れずにね」
そう言って半兵衛は大石の頭頂部を指差した。渋々ではあるが、文殊丸は頷いて半兵衛に言われた通りに水筆で大石に文字を書き始め、
『我不破誓文殊丸』
と灰白色の石肌に記した。
「これでいいのか?何かマズイ事とか起きたりしないよな?」
文殊丸は、持って生まれた徳の低さを自覚している。半兵衛はその問いに、何も?という素振りだけ見せて、口を開かなかった。
ただ、文殊丸の左手に握られた黒珠の青い光が一層増したことに、文殊丸だけが気付いていなかった。