7. ミネマル
すっかり日も沈み、脂燭の明りでようやっと対面する人物の表情が窺える様な薄明りの本堂に、妙覚寺の貫主である日善が座している。そして、それに相対する様に妙覚寺へと来訪した叡山からの使いが三名座していた。豪奢な袈裟姿の童僧が奥の中央に座して居り、その左側には鋭い目つきの若い僧が、そして右側には初老の男が座していた。開け放たれた障子の向こう側には裹頭姿の大男と小男が控え、さらにそれを注視する様に妙覚寺の僧達が十数名程控えていた。
「峰丸を知って居るという者が在ると言う事は、伺っていた内容とは異なりますなぁ。日善殿」
鋭い目つきの若い僧が、甲高い声音と共にしたり顔で日善に問い質していた。
「――――――」
日善は問い質されるも、全く言葉を発さずに黙って瞑目していた。
「峰丸なる人物は知らぬ存ぜぬと仰っておられたが、これは一体どういう事に御座いましょうや」
若い僧は斜に構えて、どことなく鼻につく物言いで日善への追及を続ける。
「――――――」
しかし、日善は如何な問い掛けにも瞑目したまま微動だにしない。こんな遣り取りが、既に数回繰り返されていた。
「日善殿! いい加減、お答えになられよ! 」
如何な質問にも如何な恫喝にも屈さない日善の不動の態度に、若い僧が顔を赤くして声を張り上げた。
「――――」
それでも尚、日善は一言も発せずに瞑目したままだった。すると、
「峰丸なる者がこの妙覚寺に匿われていると言う事は、我らも然る御方より伺って居る。故に隠し立ては無用の事。早々に我らへお引渡し頂こう」
今度は初老の男が口を開いた。しかし、日善はそれでも瞑目したまま口を開かなかった。
正確に言えば、開かなかったのでは無く開けなかったのだ。そもそも、日善は当初の示し合わせの通りに知らぬ存ぜぬで切り抜けられると思っていた。しかしながら、それは厭くまでも峰丸である法蓮坊がこの寺から脱出しているという事が前提の話であった。その為、法蓮坊が寺を抜け出す既の所で叡山の僧兵に見つかる、という思わぬ事態に見舞われて日善の思惑は瓦解した。機転を利かせた南陽坊が『ミネマル』を知って居ると言って注意を引く事で法蓮坊を寺から出す事には成功したものの、その真意は日善には知らされていなかった。当の南陽坊は、「準備をして来ますので」と言ったきり姿を見せていないのだから、矢鱈な事は語るに語れない。ましてや、叡山から遣わされたのが後柏原天皇の第五皇子である尊鎮法親王であったのだから、始末が悪い。不用意な事を言えば、朝廷に仇為す物言いとして首が飛ぶかも知れないなどという思いも、少なからずはあったのであろう。尊鎮法親王とは即ち、日善の正面に座する童僧の事である。
「僧籍に在りながら人を謀るとは、是は如何な料簡か!!」
若い僧は、今にも嚙みつきそうな勢いで日善に言葉を浴びせた。すると、
「はいはい。大丈夫ですから、少し静かにしていてくださいねー」
開かれた障子の向うから、子供をあやす様な口調で南陽坊が姿を現した。
「……なっ。せ、拙僧を愚弄しておられるのかっ!!」
若い僧が薄明りでもはっきりと判る程に、顔を赤くして憤慨した。
「はいはい。怖く無いですから、大丈夫ですよー」
南陽坊はそう言いながら薄明りの本堂へと入って来ると、日善の隣に座った。
「悪ふざけにも程が過ぎますぞ!!」
今度は初老の男までもが声を荒げた。しかし、当の南陽坊は他人事の顔で座して
「はて、何故その様に声を荒げておられるのか……」
と小首を傾げていた。すると、今まで微動だにせず座像の様に座っていた日善が、漸く口を開く。
「これなるは当寺にて修養に励んでおりまする、南陽坊に御座います。委細に付きましては此の者より言上仕りまする」
尊鎮に向かってそう言いながら深々と丁寧に礼をすると、日善は南陽坊に事後を託した。
「南陽坊に御座います」
そう言って南陽坊は来訪者達に頭を下げると続けて、
「こちらが『峯丸』に御座います」
そう言って膝に乗せていた黒い物体を、両腕で自身の眼前に掲げた。
「は??」
顔を赤くしていた若い僧と、初老の男。そして尊鎮までもが揃って間の抜けた声を発した。
「ですから、こちらがミネマルに御座います」
南陽坊は念を押す様に三人へ言い聞かせる。
「なぁーぅ」
突然南陽坊に掲げ上げられた事に反応したのか、黒い物体が声を発した。その物体は何の反応も見て取れなかったのが不服だったのか、呆然とする一同の眼前で自身の存在を主張するかの様にもう一度大きな声を本堂に響き渡らせる。
「にゃぁーう」
暫しの沈黙が本堂内を支配する。そんな時間の流れが止まった様な空間の中で、黒い物体だけが己の四肢を舐めまわす様に動き続けていた。薄明りの中に光る縦長の瞳孔と、全身を覆う黒い獣毛。そしてつんと立った両耳に、時折動く短い尾。
「こ、これは如何なる戯れかっ! 猫なんぞを持ち出して何を申されるかっ!!」
若い僧が額に血管を浮かばせながら南陽坊に詰め寄ろうとしたが、尊鎮が袂を掴んでそれを制した。
「御説明頂けますでしょうか」
尊鎮は南陽坊をじっと見据えて落ち着いた声で問い掛けた。
「畏まりました」
南陽坊はそう言うと、掲げていた猫を膝に置いて尊鎮の問いに答え始めた。
「当寺では代々このような畜生の類を養い、修養の一環としております。畜生道に落ちた者たちの救済もまた、我らの務めに御座います故」
そこまで南陽坊が言うと、尊鎮は「なるほど」と言って南陽坊の言葉に耳を傾けている。
「畜生とは言え、峯丸という名を与えられて修養に励む我らの同志に御座います。修養の年数も長く、こちらの峯丸は既にこの妙覚寺に十数年も居りまして、私の先達に御座います。頭ごなしに引き渡せと申されましても、お渡しして良いものか否か。こればかりは峯丸自身の意思も訊かねばと思い、何度となく峯丸に問うたのですが、話す言葉を我らが解せずに難儀しておりました由に御座います」
南陽坊はそう言って尊鎮に視線を向けた。
「猫が人の言葉など解し様もあるまい。斯様な戯言、茶番に過ぎぬわ!!」
初老の男が床に拳を突き立てて、南陽坊に吐き捨てる様に言った。しかし、南陽坊はそんな怒気を意にも介さず、「さて」と一息突くと涼しい顔で答える。
「私は峰丸なる人物を知って居ると申しては居りませぬ。厭くまでも『峯丸』を知って居ると申し上げた筈です」
初老の男は南陽坊の発言を反芻してみるが、言っている意味が解らない。若い僧も同様に只々、怒気を含んだ視線で南陽坊を睨み付けいる。
「ミネマルの名を聞いてその形すら問わず、早く差し出せと急かすだけであったのは、何処の御仁か!」
読経で鍛え上げられた大きな声量で、南陽坊が一喝した。すると、その声に反応したのか、黒猫は軽い身の熟しで尊鎮の膝元に移動して行った。
「ふむ、なるほど。確かに、南陽坊殿は『ミネマル』を知って居るとは仰っておられたな。しかし、それが必ずしも人であるとは申しては無かったか」
尊鎮はそう言って膝元に擦り寄って来る峯丸の首元を愛撫した。そしてそれと同時に、峯丸の首輪として七つの色が異なる小さな数珠玉が巻かれている事に気付く。
「七色か――。あっはっはっは! これは愉快! 確かに、これは『ミネマル』に相違無かろう!!」
尊鎮はそれまでの落ち着き払った様相を転じて、快活に笑い出した。
「どうやら、峯丸も尊鎮様には心を許しているようですね。この様子であれば、そちらへお預けしても宜しいかと存じます」
南陽坊は真直ぐに尊鎮を見つめて峯丸を渡す意思を伝えた。すると、尊鎮は
「なれば、峯丸は当方にて責任を持って御預かり致す。この場は、是にて手打ちと致そう」
そう言って峯丸を膝に抱き、満足げな笑みを湛えていた。ところが、
「し、しかしそれでは座主様の御下知に違う事になりましょう」
今度は若い僧が蒼い顔をして尊鎮に声を掛けた。
「これを見よ。雑な作りではあるが、七彩色の宝珠まで身に着けて居るではないか。我らの使命は達成された故、最早ここに用は無い。急ぎ出立するぞ」
尊鎮はそう言って供廻りの者達に出立を促した。
日善と南陽坊はその声を聞いて、平伏した。若い僧や初老の男は不服そうな顔をしながらも、尊鎮の言葉に従い本堂を後にする。そんな中、尊鎮が南陽坊に声を掛けた。
「何処までを存じて居る? 一介の僧にしておくには勿体無い才覚ではあるな。何れどこかで相見える折には、敵対する間柄で無い事を願いたいものだな」
峯丸を抱えた尊鎮は、童僧と言うには似つかわしくない程の落ち着いた口調で頭を垂れる南陽坊の耳元にそう言うと、踵を返して歩み出した。そして開け放たれた障子の前まで来ると、大声で叫んだ。
「町衆の形をして寺を出た男が峰丸に相違無い! 急ぎ京の街より探し出せ!!」




