3. わんぱく坊主(上)
「……良くもまぁ、そんなに同じ書を飽きもせずに読めるものだな」
目鼻立ちのはっきりとした若い坊主頭が、書机に向かって黙々と書に耽る若い坊主頭に呆れた顔で話し掛けた。
「私は法蓮坊兄の様に、一度で全てを解する事が出来る程に器用では無いですから」
書物から目を離さずにそう言って、若い坊主頭は柔和な笑みを一瞬だけ見せる。が、書に向ける視線は貫く程に鋭く、真剣そのものだ。
「大概の事は、一度見聞きすれば頭に入るだろうに。お前の場合、最初から一字一句を全て覚えようとするから必要以上に時間がかかるんだよ。まずは大まかな輪郭を掴んで、それから一字一句の意味合いを考えればいいんじゃないのか?南陽坊」
法蓮坊はそう言って書院の障子を開けると、大きな欠伸をしながら両の腕を高々と上げて伸びをした。
「それよりも、もうじき出立の刻限であろう。支度は終わったのか?」
法連坊は少し視線を落として南陽坊に訊いた。
「もうそんな刻限でしたか。いやはや、もうここを訪れる事も無いかと思うと欲が出てしまいました。美濃に帰ったら流石にこれだけのものは揃っておりませんでしょうから」
南陽坊はそう言って開いていた書を閉じると、立ち上がって手にした書を書棚へと戻した。
「京から離れているとは言え、美濃国守護代の御曹司なんだろ?不自由もあるまいに」
感慨に浸る南陽坊に法連坊が水を差した。
「それは毘沙童と名乗っていた昔の話ですよ。いまは一介の僧にすぎませんから。ましてや敗軍の将であるにも関わらず、こうして恥を晒しながらも生き長らえている身です。兄 利隆の声掛けで常在寺に呼ばれたとはいえ、情けをかけられたのか身近に置いて監視する為なのか」
南陽坊は振り返って法連坊に心情を吐露した。
「あ。それは済まない事を聞いてしまったな。失言であった」
法連坊は頭を掻きながら頭を垂れた。
「そうは言っても、年端も行かない童が担ぎ上げられただけの話だろうて。お前が全てを背負い込む必要は無いだろ。兄上からのお声掛かりなのだから、大手を振って戻ればいいではないか」
法連坊はばつの悪そうな顔をしながらも、南陽坊の懸念を和らげようと言葉をかけた。
「そう……ですね。ですが、あの日戦場に散って逝った者たちの霊を弔う事が私の使命なのではないかと今では思います」
南陽坊は両の眉尻を下げて、法連坊に言った。
「だから気負い過ぎなんだよ。じゃ、またな」
法連坊はいつもの様に軽く言って南陽坊の肩を軽く叩くと、書院から出ていこうとした。
「あ。ちょっと、法連坊兄!」
書院を出ていこうと背を向けた法連坊を南陽坊が引き留めた。
「まだ言いたい事でもあるのか?」
今生の別れとまではいかないものの、少なからぬ感傷を覚えていた法連坊は怪訝な顔をして振り向いた。
「以前、この書院の奥で見つけたのですが……」
そう言って南陽坊は、両の掌に収まる程の大きさをした古びた四角い木箱を法蓮坊へ差し出した。
「なんだこれ?」
法連坊は不意に差し出された木箱に、思い当る節が無い。
「もう、随分と昔になりますね。私が入山した折に法連坊兄が入山した頃の話をして下さったのですが、その話に出てきた品ではないかと思いまして」
南陽坊にそう言われて、法連坊は過去の記憶を辿る。そんな話をいつしたのか、どんな話をしたのかすら覚えていない。
南陽坊は入山した当初は非常に寡黙で、他人と関わるのを極度に嫌っていた感があった。入山の経緯が経緯であったから仕方の無い事だろうと、今では思える。しかし当然の事ながら、集団で生活を共にする修行僧の仲間達からは少し浮いた存在となったことは言うまでも無い。そんな南陽坊の先行きを懸念して、当時の貫主に教育係として付けられたのが法蓮坊だった。南陽坊とは対称的に、何事も卒なく熟して誰とでも打ち解けられる人当たりの良さがあったからなのであろう。当然そんな性格であるから、いいかげんも良い加減なのである。差し当たり、その場凌ぎの適当な事を言って取り繕っただけの事だったのだろう、と法蓮坊は自身の軽率さに舌を巻く。
そんな法蓮坊は困惑した顔のまま、手渡された木箱を開いた。中には、古びた木箱には似つかわしくない純白の絹布に包まれた物体が鎮座していた。
「はて……?」
法蓮坊は怪訝な顔で小首を傾げると、絹布の端を摘まんで包みを開いた。
「こ、これは……」
怪訝な顔をしていた法蓮坊の顔が、一瞬にして驚愕の表情に変わった。滑らかな純白の絹布の中に彩豊かな七色の宝珠が連なった首飾りの様なものが納まっていた。
澄みきった清水の様な透明の珠、碧空を凝縮した様な紺碧の珠、盛夏に息づく新緑の様な碧の珠、宵闇を詰め込んだ様な紫紺の珠、陽の光を集めた様な黄の珠。そして深淵の闇の様な漆黒の珠と、燃え盛る炎の様な真紅の珠はそれらよりも一回り大きく見えた。
「間違いない。父上が俺と一緒に、この妙覚寺へ預けた七彩色の宝珠だ……」
絶句する法蓮坊に南陽坊が声を掛ける。
「俺は七彩色の宝珠と一緒に父上に捨てられた様なものだ。そう仰ってましたよね」
法蓮坊の脳裏へ瞬時に記憶が蘇る。預けたと言えば聞こえは良いが、実際のところは捨てられたも同然だった。文字通りに寺へ預けられた子供達には、その縁者から寺へと定期的に付け届けがあるものだ。無論、南陽坊はそれに該当する。年に数回、美濃斎藤家より幾許かの金子と米が届けられていた。それに比して、捨てられた子供となると付け届けは言うまでも無く、縁者の往来すらも無い。法蓮坊の父は子を寺に預けた後、一度も寺を訪れてはいない。それどころか、その生死所在も分からないままなのだ。そんな話をして、縁者が居るだけまだマシな方だと言ってやったのを思い出した。だが、法蓮坊が絶句したのはそんな思い出話についてでは無い。
「これ、そんなところで何か善からぬ事でも企んで居るのか?」
不意に開け放たれた障子の方から声を掛けられ、背を向けて木箱を覗き込んでいた法蓮坊が反射的に振り返る。
「あ、あぁ……」
魂の抜けた様な声を発して法蓮坊が振り返ると、そこには厳格さを象徴する様な皺を顔中に刻み込んだ小柄な老人が豪奢な袈裟姿で立っていた。
「こ、これは貫主様」
慌てて南陽坊は平伏するも、法蓮坊は心此処に在らずといった状態で立ち尽くしていた。
「これ、法蓮。なにを惚けておる」
貫主にそう言われても尚、法蓮坊は立ち尽くす事しか出来なかった。そんな法蓮坊の傍に貫主は静かに歩み寄ると、その手にしていた木箱の中身に視線を落とす。
「左様か。ならば仕方あるまい」
貫主はそう呟くと、法蓮坊と南陽坊をその場に座らせて自身も書机の前に座した。




