1. 油売りの男(上)
「――目に物見せてやる! 倍付けで払ってもらうからなっ!!」
目鼻立ちのはっきりとした若い男は威勢良く啖呵を切ると、両の袖を肩まで捲り上げて天秤棒の先に括られた瓶の中に柄杓を突っ込んだ。
「ははは。よかろう、武士に二言は無い。その代り、一滴でも溢したら鐚一文も払わぬぞ!」
太刀を腰に帯びた無精髭の小男が、腕を組みながら嘲笑混じりに言った。その嘲りを真っ向から受けて立とうと睨み返した若い男は、足元に置かれた手桶の中から一枚の銅銭を取り出して頭上に掲げると、行き交う通りに向かって声高に口上を述べる。
「これに取り出したるは一文銭! この抜き穴へ寸分違わずに油を通して御覧に入れましょう! 漏れ出でたる時は御代を頂きません。見事に通したる暁には、御代を倍付けにてこちらの御武家様より頂戴致します。寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! この山崎屋、一世一代の大勝負。とくと御覧あれ!!」
山崎屋を名乗る若い男の朗々とした口上に、通りを往来する人々の足が止まる。店の軒先で立ち話をしていたおば様達が、
「あら、随分と男前な油屋さんねぇ」
などと言って歩み寄り始めると、それに合わせるように野次馬達が集まり始める。山崎屋の口上を聞いた者は勿論、人が集まっているから取り敢えず覗いてみた、という者まで老若男女が集まり来る。人が人を呼び、やがて通りの傍らに山の様な人だかりが出来上がる。一世一代の大勝負の立会人が集まったのを確認すると、山崎屋は油で満たされた瓶に突っ込んだ柄杓を高々と掲げる。
「さあさ、目にも見よ! 秘技、白糸の滝!!」
掛け声と同時に、掲げられた柄杓の淵から白糸の様な一筋の油の糸が舞い降りる。山崎屋は手にした一文銭の穴に、舞い降りてくる白糸の先を素早く差し込んだ。大勢の野次馬に囲まれて熱気が溢れんばかりであるにも関わらず、周囲の者達は時間が止まった様に静まり返る。人だかりを形成する人々は、柄杓一杯の油が時間をかけて嫋やかに舞い降りてくる様を息を潜めて見守り続ける。その間も白糸のような油は銅銭の四角い抜き穴の真中を通過し続け、地面に置かれた油壷の中で元ある液体としての姿に戻って行く。
「はっ! 何時まで続くことやら。そんなにのんびりしてると日が暮れるぞ!」
無精髭の小男が鼻を鳴らして茶々を入れるが、野次馬達は一様に唇へ人差し指を当て男を無言で制する。無精髭の小男は反論しようとするも、野次馬達の刺す様な視線に言葉を溜飲せざるを得なくなり、野次馬たちと共に日光を浴びて光り輝きながら舞い降りて来る白糸を見つめている他無くなってしまった。暫くすると、柄杓を持った山崎屋の腕が頭上から腰のあたりまでゆっくりと下された。そして更に腰を屈めて、油壷の淵際まで銅銭と柄杓を近付けた。
「いよっと!!」
掛け声に合わせて柄杓の先を水平へ戻すのと同時に、反対の手に持った銅銭を高々と頭上に掲げる。
「とくと御覧あれ! この銅銭に油の染み一つ御座ろうか! さぁ、さぁ、さあ!!」
朗々とした声で野次馬達を煽りながら、掲げた銅銭を周囲の者達へ見せつけるように身体ごとぐるりと回る。緊張感から解放された安堵の吐息が出るのと同時に、それを見た野次馬達が
「無い」
「無い」
「無い」
と、口々に漏れ出す様に声を出し始めた。そしてそれは拍手を呼び起こし、やがて歓声へと変わって行った。そんな中、野次馬達の高揚ぶりとは対照的に、無精髭の小男だけが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「さあさ、御武家様。心行くまで御検分あれ」
山崎屋は揚々とした表情で言いながら、手にしていた銅銭を無精髭の小男に手渡そうとした。
「……たかが行商人風情が」
無精髭の小男は唾棄する様に言い捨てながら銅銭を持った山崎屋の手を払い除け、その手で腰に帯びた刀の柄を握った。と、その時だった。無精髭の小男が刀を抜こうと右腕に力を入れようとするのを、その隣に並び立つ様に前に出て来た男が刀の柄頭を抑え込んで制したまま、山崎屋に向かい合う。
「拙者は矢野五左衛門貞重と申す。当家の家人が失礼な物言いを致し、忝い。」
矢野と名乗った男はそう言って、折り目正しく山崎屋に頭を垂れた。
「あ、いやいや。矢野様に頭を下げられては何とも……」
山崎屋はそう言って慌てふためいた。
同じ家中の武家の者と言っても、山崎屋が初見で解る程に無精髭の小男と矢野とでは格の違いが歴然としていた。恐らく、無精髭の小男はこの矢野と言う武士の家来 若しくは、それ以下の立場の者なのであろうと山崎屋には瞬時に察しがついた。謂わば、子供の喧嘩に親が出てきてしまった様な状況に、「話が拗れて大事にされては、今後の商売にも難儀が生じる」と、山崎屋は慌てふためいたのである。
山崎屋とは名乗ってはいるが、店を構えている訳では無かった。京の都にある奈良屋で、油問屋の手代として働いていた折に、主人である又兵衛に力量を買われて娘婿となった。行く行くは独立を、とも思ってはいたものの如何せん奈良屋がある京は戦乱の傷跡も未だ癒えぬ状況。暖簾分けして新しく店を構えても、正直商売にはなりそうにも無い。灯火に使う油などは貧困に喘ぐ民草には無用の物であり、貧乏貴族に貸し売りしても踏み倒されるのが関の山。奈良屋と数少ない客の喰い合いをしても意味が無い。そこで、暖簾分けをして山崎屋と称してはいるが、油と商売道具は奈良屋のもので己が身一つが山崎屋という行商を始めたのだ。
油の入った瓶を括り付けた天秤を担いで京を出る。大きな湖を西から船で渡り、湖の東端に降り立つ。そこから陸路で美濃へと向かう。瓶に入った油を売り歩きながら行けるところまで行き、空になったらそこから戻りがてらに旬の物やその地で手に入る希少な物などを買い集め京へと持ち帰り、それを奈良屋を通じで京で売り捌く。それが山崎屋の商売だった。
近江と美濃との国境にあるこの村は、京と美濃を往復するには必ず通らねばならない立地にある。仮にこの武士たちがこの村に大きな影響力のある家の者達で、ここでの商売が出来なくなると言う事態にでも成り様ものならば、最悪の事態である。立ち入る事までも拒否されたら、この村以東への商売の道が絶たれてしまう恐れすらあるからだ。
一気に押し寄せて来る様々な思惑と想定に目を白黒させていた山崎屋に、矢野が声を掛ける。
「実に良い物を見させて貰い申した。これは品代と貴殿の研鑚された妙技への賞賛の意も込めて御座る。受け取られよ」
矢野はそう言って袂から取り出した包みから小豆大の黄金の粒を山崎屋に手渡した。そして矢野は無精髭の小男に油壷を持たせて先に帰すと、
「とは言え、実に口惜しいものよ。もし其方がその修練、研鑽を武芸に注ぎ込んでいたものならば、間違いなく一廉の武士となっていたであろう。その様な者であれば、今すぐにでも当家に迎え入れたいものであるに」
呟くような声で山崎屋に言った。
「ははは、こんなに頂いては余り有りますが、お言葉に甘えて有り難く頂戴致します。そうですか、先の戦乱でどこの御武家様も人手不足ですか。さりとて、我々民草にしてもそれは変わりませんよ」
山崎屋は笑顔で応じるが、棘を含んだ言い方で返した。
「其方が言うのも一理ある。戦乱が続いて疲弊しているのは民草とて同じ事に御座るな。これは某の失言に御座った。あの戦乱を長引かせた一因は某らにもあるのかも知れぬしな。持是院妙椿公を御止め出来なかった我らの先達にも責はあろうというもの」
矢野は頭を掻きながら眉尻を下げて山崎屋に述べた。
「斎藤家の方に御座いましたか。お噂は……」
と言い掛けて山崎屋は口を噤んで軽く会釈をすると、背中を向けて商売道具を片づけ始めた。そんな山崎屋の背中を見て、矢野は山崎屋の気遣いを悟った。
「何れまたどこかで。励まれよ」
矢野は黙々と道具を片付ける山崎屋の背中に向かって言うと、足早に通りの往来に姿を消して行った。




