20.感じ方には個人差があります
辿る道が同じであっても景色が異なって見えるというのは、ままある事だ。それは時に状況であったり、時に心持ちであったり。代わり映えの無い同じ通勤路を毎日なぞるように往復していた日々でさえも、そうであった。反りが合わない客先への往訪予定日は、朝の通勤路に転がる路傍の小石ですら疎ましく思えたものだ。かと思えば、そんな客から思わぬ大型案件の引き合いを貰った日の帰路には、門前を過ぎ行く者に見境なく喚き散らす隣家のアホ犬ですら、愛おしく見えたものだ。そんなことを漠然と思い起こしながら、文殊丸は眼前の人物に向けていた視線を、自身の隣に座する十助へと向けた。
「稲葉さんが賛同してくれたら、こちらの方も賛同してくれるって、主の半兵衛様は仰っておられませんでしたかね??」
不安と半ば呆れの入り混じった表情と皮肉の棘を含めた口調でそう言った文殊丸の問いかけに、「左様に御座いましたな」とだけ言って、十助は文殊丸とは対照的に御満悦な笑顔で応じた。
良通から織田傘下へ帰順の同意を得て、曽根の稲葉邸を後にした文殊丸は意気揚々と菩提山への帰路に着こうとしたのだが、十助の気迫に負けて弥次郎への手土産を得た茶店に立ち寄る事となった。茶店に着くなり、十助は好物の黄粉餅と団子その他諸々を手際良く注文すると、文殊丸に並んで長椅子へ腰掛けたのだが、明らかに落ち着きが無い。頬に傷を持つ強面の厳つい男が、童心の儘に対面の時を今や遅しと待ちわびているその姿は、傍目から見れば異様な光景であったろう。
そんな折、文殊丸は背中合わせに腰掛けていた行商人の男から書状を手渡された。「稲葉家の調略を完了されたと御見受け致す。速やかに大垣へ向かわれたし」行商人の男は文殊丸の耳元でそう囁くと、手早く荷物を纏めて立ち去った。突然の出来事に小首を傾げていた文殊丸であったが、辺りを見渡すと先程の行商人の姿は何処にも見当たらなかった。文殊丸は即座に書状へ目を通すと一呼吸置いて思案を巡らせた。差出人の名が記載されてはいないものの、文殊丸にも文字とその内容の判別がつく筆跡から察するに、書状は半兵衛からのものだ。恐らく、あの行商人は源次配下の草の者であったのだろうと感付いた。が、隣に座した十助は、鼻腔を燻る様に店奥から漂い始めた香ばしく炒られた黄粉の香に当てられて、既に心此処に在らず。そんな十助をどうにかこうにか説得し、文殊丸と十助は足早に茶店を後にした。そうしてまた十助は好物の黄粉餅を愛でる事無く、御預けを喰らう事となった。結果、その注文した黄粉餅と団子は御持たせとして、こうして大垣の氏家邸にて接見の間で座する文殊丸達の眼前に有る、という次第だ。幾度となく機会を逸した十助にとっては、今が正に待ちに待たされた対面の瞬間であったのだから、喜色満面であるのは致し方無しというものだ。
「織田は信用ならぬ」
黄粉餅と織田家帰順への稲葉家の同意を手土産に、西美濃第三勢力構想とその中に於ける氏家家の重要性、織田方へ付く事の利も説いた。にも拘らず、相手の口から色好い言葉は紡がれない。確かに、抜け駆けをさせないといった意味では、半兵衛の指示で引き止めを計った源助の策は功を奏していたのであろう。とはいえ事此処に至っては、一緒に立ち上がってもらわねば、織田・斎藤両陣営に対する西美濃第三勢力の影響力は半減し、機を逸するというものだ。利を説き、機を説き、稲葉家の同意を取り付けるという誠意も見せた。それでも、だ。
氏家常陸介直元。元は桑原姓を名乗り、大垣の地に住して代々土岐家に仕えていたが、後に道三に従って土岐家を美濃の地から追い遣った。しかしながら、道三・義龍父子が対立した長良川の戦いでは義龍の側に付き、義龍陣営の勝利に貢献した。その功を賞され、義龍が一色姓へと改めた際に氏家姓を賜ったという。以後、氏家姓を称してその子龍興にも仕え、着々と西美濃の地に勢力を築き上げて来たのだが、現在は良通と同様に龍興からは遠ざけられていた。
「機は熟しておらぬ」
「いやいや。今この機を逃したら、熟すどころか腐っちゃいますよ? でなければ、何時動くの? ――今でしょ?!」
文殊丸は大げさな身振りを混ぜて反論した。すると隣に座していた十助が、
「この機を逃しては……次に何時その機が来るかなど、知れたものでは有りますまい。ましてや、腐らせる等――言語道断!!」
力強く言い切ると、むんずと素手で眼前の黄粉餅を掴み上げ、そのまま一息に頬張った。
「先程も申し上げました様に、この機会を逃しては後々悔やむ事になりかねません。否、必ずやそう成りましょう。それに、氏家様が斎藤家への義理を十分に果たして来た事は、西美濃衆の皆が知っております。主家を憂いた諫言に主が耳を貸さなかったのは、氏家様の責では無い事が道理である事も存じております。そしてまた、この度の戦で斎藤家の命脈を絶やさぬ事は、稲葉様とも理解を共にしています――――」
再三再四説き続けた事を、半兵衛は直元の目を見て今一度述べてみたが、
「それは重々承知しておる」
一言そう返した直元は、その場に不釣り合いな程の笑みを湛えた十助を一瞥すると、深い溜息を吐いた。
「南から攻め寄せる織田、東には織田の息が掛かった遠山がおります。現状、遠山の後背にある武田は内情が安定しておらず、美濃への援軍を出す事は在り得ませぬ。同様に、北の朝倉からの援軍も見込めませぬ。この機に我ら西美濃衆が結束して織田方に付けば、西を塞がれた稲葉山は孤立無援となりまする。戦の趨勢はその時点で決します。この様に、我らは地の利も有して御座います」
半兵衛は尚も根気強く直元に立つべき機と地の利を説いた。
「それも重々承知しておる。故に、ならぬのだ」
起つべき機は熟し、地の利もある。そして今、最後に必要なのは、西美濃第三勢力として結集した人の和だけなのだ。だが、直元はそれを承知した上で、「ならぬ」と言うのだ。半兵衛や文殊丸達が御膳立てした状況が、それ故に拒絶されるとなると、これ以上の手立ては思い付きようも無い。
土岐家に仕えた後に道三へ従い、主であった土岐家を追い遣った。やがて、道三に敵対した義龍の側に付いて道三を討ち時勢を得るも、当代の龍興には疎まれている。稲葉家と氏家家の辿ってきた歩みは同じでも、龍興の助命にて龍興の命脈と斎藤家の血脈を保つという落としどころの見えた良通とは異なり、のらりくらりと拒絶する直元の真意が文殊丸には全く見えて来なかった。
「訳わからん。一体、何が不満なの? 何が足らないの?」
地平の彼方まで続くかと思われる程の平行線を辿る遣り取りに、こうも落としどころが見えぬとなると流石に堪える。根気強く言葉を尽くして説いていた半兵衛を横目に、文殊丸が必死に押し殺してきた諦観が頭を擡げ始め、思わず地が出てしまった。
「不満なんぞ有るものか。これ以上無い程に良すぎる条件であろうが」
直元はそう言って相好を崩すと、膝元に置かれていた木皿を十助へ回すように控えていた下女に申し渡した。
「えっ??」
「へ??」
直元の発言に半兵衛と文殊丸は同時に目を丸くして、互いの顔を見合わせた。




