18.六男当主
「名を申せ――」
広々とした板張りの奥の間に通された文殊丸と十助は、挨拶の口上を述べる間も無く、広間の一段高いところから重厚な声音に問われた。
「私共は、雑貨――」
襖が開け放たれた奥の間の入り口に平伏したまま、文殊丸がそこまで言い掛けると、
「善い、其方等が竹中家中の者であることは分かって居る。面を上げて、名を申せ」
文殊丸の名乗りを重厚な声音が遮った。すると、
「竹中半兵衛重虎が家臣、喜多村十助直吉に御座います!」
面を上げた十助が名乗りを上げた。
「ふむ。で、其方は――」
十助と並ぶ様に座していた文殊丸に問いが投げられた。
「はっ! 伽羅繰屋が見習い従業員、文殊丸に御座います!」
重厚な声音に気圧されて、十助につられる様に文殊丸は名乗りを上げた。
「伽羅繰屋が見習い従業員とは、一体何者ぞ?!」
遠巻きからでもそれと分かる、桁違いの存在感を主張する極太の眉を逆八の字して、坊主頭の偉丈夫が眼光鋭く文殊丸を睨み付けた。
稲葉彦六郎良通。文殊丸と十助の眼前に座して、文殊丸を値踏みする様に睨み付けているこの館の主だ。稲葉通則の六男として生まれるも、幼少時に出家して僧となった。多分に漏れず、と言ったところか。この時代は、医療水準の低さや衛生水準の低さから出生率や幼児の存命率が低かった為に多産ではあったものの、嫡男や次男が存命であるとなると、それ以降に生まれた男児は相続争いの火種に成り兼ねないとされたからだ。故に幼少期に出家させて俗世との縁を断ち、家督の継承権を剥奪しておくという措置が取られるのが通例だった。それにも拘らず、現在稲葉家の当主として継承権を剥奪されていた六男の良通がここに座するのは、父と五人の兄達が牧田での戦で相次いで戦死するという不遇が重なった為だ。そんな代打起用をされながらも、混迷極まる美濃国内で今日に至るまで稲葉家を存続させて来れたのは、偏に良通の才覚があったからに他ならない。
家督を継いで間もない頃は未だ幼く、祖父・塩塵の後見の下に、姉の深芳野が側室として送られた土岐頼芸に従ったものの、道三が頼芸を美濃から追放すると、これに従った(因みに、深芳野は頼芸が追放される以前に頼芸より道三へと下賜された)。以降、道三の下で着実に実績を積み重ねた良通は、西美濃三人衆と呼ばれるまでになっていた。そして、道三とその子・義龍が争った長良川の戦いでは、姉の子に当たる義龍の側に与してその勝利に貢献し、斎藤家中での影響力を増していったのだった。
ところが、だ。義龍が死去してその子・龍興が斎藤家当主となると、長井隼人佐や斎藤飛騨守等の専横が始まり、現在では斎藤家の先行きを憂う諫言も届かぬ程に、その関係は冷え切ってしまっていた。
「えー、なんと申しましょうか。平たく言うと、半兵衛に養われている便利屋とでも言いましょうか――ははは……」
文殊丸は自身の立場を明確に表す言葉を見つけられずに、言葉を濁した。
「何を言っておる、其方が半兵衛であろうに」
良通は真直ぐに文殊丸を見据えて言い放った。
「あいや、稲葉様! 此の者は先々代の半兵衛重治に瓜二つなれど、然に非ず」
慌てふためいた表情で十助が文殊丸の前に割って入った。
「む――?」
片側だけ、極太の眉を動かして良通は十助に視線を移した。
「元・影武者に御座います。先代の半兵衛重虎が恩情にて、伽羅繰屋なる鍛冶師の下にて修行をさせておりまする」
十助はそう言って文殊丸という人物を説明した。
「む――?」
良通は喉を鳴らすと、繁々と文殊丸を観察し始めた。
「いやいや、そんなに見つめられても……」
文殊丸はそう言って良通の視線を遮るように両の手を振った。
「儂の見当違い、という事か?」
良通が文殊丸を鋭い眼光で観察しながら十助に問うと、
「いやいや、然に非ず。我ら竹中家中の者でも見分けがつかぬ者も居ります故、当然の事に御座います」
十助はそう言って、文殊丸の隣へと座り直した。
「ほう、出来の良い影武者は使い道がある――と?」
良通は鋭い眼光を十助に向けた。
「左様に御座います」
十助は胸を張って快活に言い切った。
影武者とは、当主の身代わりとして用意された見目形の似た者の事だ。即ち、有事には文字通りに命を賭して主を守り抜く役目を負った者だ。とはいえ、主が亡くなった際には殉死するのが通例であり、場合によっては次代の当主から追手を向けられることもあった。それは、影武者当人による主家の簒奪や、影武者を唆して主家を乗っ取ろうとする者達の謀を防ぐ為だ。
「なるほど。そういう設定か」
十助の弁明を聞いていた文殊丸は、ようやっと自分の立ち位置が理解できたという表情で納得していた。とはいえ、文殊丸と十助は未だに良通の鋭い眼光に晒されたままだ。
「して、この筆と書状を手土産に我が館に乗り込むとは――この儂を脅しに来た、と言う事か?」
良通はそう言って件の筆と書状を手に取った。
「ありゃ?」
手に取られた筆を見て、文殊丸は思わず声を発した。それもそのはず、見紛う事無き粗品であったからだ。穂先の腹は痩せ細り、辛うじて線が描けるか否か。軸先には墨の汚れがべったりと染み付き、軸の中ほどには不器用に『六』と彫られた跡があった。
「この筆と書状は何処より入手したものか、などと聞くまでも無い。この筆は、この書状が我が師・快川紹喜から、其方等の主へと出された返書であるということの真偽を裏付ける為の物であろう」
良通は手にしていた粗末な筆を懐かしむ様に見遣ると、
「儂にとって、この筆は価値の付けられるものではない。師の下で手習いを受けていた折に姉の深芳野より贈られ、幼き頃の儂が使っておった物に相違無い」
傍らにあった文机の上へ、そっと置いた。
「龍興様を見捨てよ。さもなくば、城を枕に討ち死にせよ。という事であろう?」
良通は、低く押し殺した声音で文殊丸と十助に問いかけた。
「我らは書状の内容につきましては何も知らされておりませぬ故、何も語る術を持ち合わせておりませぬし、その立場にも無きものと愚考致しまする」
十助は平伏しながら、良通の問いに答えた。
「で、あれば――」
良通はそう言って後ろ手で立て掛けてあった刀を掴むと、大股で文殊丸と十助に向かって歩み出した。
「いやいや! 落ち着いて、落ち着いて!! 」
文殊丸は慌てて、良通の暴挙を止めようと後ずさりながら訴えた。
「主等であろう、織田と浅井の盟約の橋渡しをしおったのは。南から織田、西の浅井で美濃を塞ぎ込み、頼みの綱であった東の武田からは、援軍が来ぬ。これ以上織田にとって有利な戦況はあるまい。それを作り上げた功を手に織田へ寝返る、それが主等の筋書きであろうが!!」
良通はそう言って恫喝すると、手にしていた書状を文殊丸と十助の前に叩きつけた。
「恐れながら、拝見仕る」
怯える文殊丸とは対照的に、十助は落ち着き払った様子で書状を拾い上げると、素早く目を通した。
「何と、斯様な事態になっておりましたとは――」
十助はそう言って広げた書状を綺麗に畳み直すと、文殊丸へ書状の内容を伝えた。