14.冬木瓜と立浪(下)
与吉はどうにも、あの人物を好きになれずにいる。
あの人物とは、言うまでも無く善祥坊の事だ。僧籍に在りながら、浅井家の禄を食む異色の人物。与吉も、新九郎や喜右衛門が彼の僧という身分を重用しているのであろう事は、理解できているつもりだ。殺伐とした戦国乱世の中にあっても、僧や神職に就く者の生命を奪う事は、仏罰や神罰が当たるとして禁忌とされてきた。それ故に彼らは、時に支配層である武家と近隣の集落の者達との調停役として代官的な役割を果たし、時に他国との連絡役としての任に当たってきたという事実も理解している。それでも、なのだ。
まず気に食わぬのは、相手の都合を全く意に介さず振舞う、あの図々しさだ。交渉事に於いて機先を制する為には必要な資質であろう事は想像に難くない。それは、与吉も重々承知している。だが、彼の場合は万事なのだ。先程の様な遣り取りも、今日に限った事ではない。つい先日も、他家からの使者への対応を喜右衛門と新九郎が内々で打ち合わせている最中に来訪し、与吉へ取り次ぎの間も与えずにずかずかと上がり込んで来たのだ。与吉の静止も馬耳東風。あれやこれやと言いながら、気付けば新九郎と喜右衛門の間に座していた。当然、喜右衛門の眉間には皺が寄り、それを見た与吉は、只々平伏するばかりであった。
そして更に腹立たしいのは、総ての事象を己が予見通りであったかのように言いくるめる、あの舌鋒だ。与吉は、問答に関しては全く持って太刀打ち出来る自信が無い。と言うよりも寧ろ、善祥坊とは対峙すらしたくは無いのだ。機先を削がれ、矛先を変えられ、思い起こした頃には中央突破をされている。善祥坊との舌戦を振り返れば、正にそのままだった。知見と経験の差が天と地程に明らかなのだ。勿論、子供と大人のそれでは比較にもならぬのは言われるまでも無い事ではあるが、その差をまざまざと見せつけられるのだから、心中穏やかでいられる筈も無い。
宮部 善祥坊 継潤。近江国宮部村の小豪族の子に生まれ、比叡山での修業を経て僧侶となった。法事よりも軍事を好む性格が災いし、還俗して故郷である宮部村へ帰郷するも、当地の社僧であった宮部 善浄坊 清潤の養子となって宮部城を継いだ。以来、浅井家に仕えて北近江国内の巡視と、国外情報の入手、対外交渉の任という重要な役割を担ってきた。
だが、そんな善祥坊の姿も与吉の目には、利に賢しく腹に一物を抱えた生臭坊主にしか見えないのだ。ともすれば、善祥坊の生き様は時勢の機微に聡いとも、権力の傾きに明敏であるとも云えよう。それでも、与吉は己の思い描く武士の生き様とは異なる違和感に、不快感を覚えずにはいられなかったのだ。
「喜右衛門様、善祥坊様が――」
苛立ちを悟られまいと平静を装いながら、与吉がそこまで口にした直後だった。
「やはり、此方に御座しましたか」
言うや否や、与吉の隣をするりと足早に通り過ぎた善祥坊は、新九郎と喜右衛門の間に腰を下ろした。そして、僧衣の裾を片手で整えながら床に置かれた紙面に視線を向けると、
「ほう。この句は、何方の手に依るものですかな?」
そう問いかけた後、合掌をしながら新九郎に一礼した。
「な……!? お取次ぎ致すと申しましたのに――」
何食わぬ顔で座した善祥坊へ、赤くした顔を与吉が向けると、
「いやいや、方々探し回りました故、喉が渇き切ってしまいましたな。与吉殿、拙僧に少しばかり水を分けては下さらぬか?」
善祥坊は懐から懐紙を取り出して、額を拭う仕草を見せた。取って付けた様な善祥坊の仕草に、与吉は苛立ちよりも己の不甲斐無さに歯噛みし、言葉を失った。
「これ、与吉。客人は水を御所望だ。御出しせよ」
喜右衛門が与吉に給仕を促した。
「は……、はっ。只今」
またしても完敗だった。腑に落ちない面持ちのまま、与吉は客間を後にせざるを得なくなった。
「徒に、若輩の者を揶揄うで無い」
半ば呆れた表情で新九郎は言うと、床に置かれた紙面を畳んで懐に仕舞い込んだ。
「見所が有ればこそ、に御座いまする。ただ、真直ぐに伸びた高木ほど風に折れ易くもありますれば」
善祥坊はそう言いながら、隣に座する喜右衛門の顔を見遣った。
「善祥坊殿より直々に御指南頂けるのであれば、彼奴の為にも成りましょう」
喜右衛門は、善祥坊の視線を逸らす様に己の手にした湯呑へ視線を向けると、一口啜って床に置いた。
「して、善祥坊。お主がこうして押し掛けて来るとは、火急の用向きなのであろうな。申せ」
善祥坊と喜右衛門の遣り取りを断ち切る様に、新九郎が善祥坊へ問い掛けた。
新九郎は、喜右衛門と善祥坊のその気質が相容れないものである事を承知している。理想主義的な気質の喜右衛門と現実主義的な気質の善祥坊とでは、目指すものが同じであっても道程は異なり、道程が同じであっても目指すものが異なるのだ。この者達の声に耳を傾ける事で、現在の浅井家は絶妙な均衡を保ち続けているのだ。竹生寄りの者達の粛正を行い、政道を正すとした喜右衛門らに対して、粛正を行えば北近江国内を二分する内乱が生じると説いて善祥坊らはそれを制止した。結果、北近江国内で竹生寄りの者達の暗躍を許す事とはなったものの、表立った大きな内乱の戦火を起こさぬ事で、六角家等の近隣他国からの介入を許さずに、浅井家としての名目を保ち続けている。
「彼の句の真意に御座いましょう」
善祥坊は、前置きをしてから言葉を継いだ。
「織田より、再び使者が参りました」
善祥坊はそう言うと、懐から書状を取り出して新九郎へ差し出した。
「ほう、執心な事だ。何時ぞやの木下 某と申す者等か?」
新九郎は言いながら、折り畳まれていた書状を広げて目を通し始めた。
「いえ、不破彦三と申す者にて、美濃者に御座います。安養寺を通じての打診に御座います」
新九郎の問いに善祥坊が答えると、
「美濃の不破か。不破は既に織田と手を組んでいるという事か。なるほど、なれば合点がいく」
新九郎はそう言って、目を通し終えた書状を喜右衛門に手渡した。
「この話が結実すれば、美濃が織田の手に落ちるは必定。竹中殿の旧領は不破の領と接しておりますれば、竹中殿はそれを察して美濃へ戻られたのでしょうな。彼の句は、竹中殿の手に依るものでは御座いませぬか?」
書状に目を通す喜右衛門を余所に、善祥坊が新九郎へ問い掛けた。
「如何にも。半兵衛より遣わされた者が持参した」
新九郎は端的に答えると、喜右衛門へ視線を移した。
「盟約については、織田より遣わされた木下殿へ断りの書状を持たせて、そう日も経ってはおらぬのに――」
目を通し終えた書状を床に置き、喜右衛門が声を発すると善祥坊はそれを遮る様に、
「此の盟約が成れば、此方は何もせずとも――否、動かぬ事で織田へ恩を売る事が出来まする。また、盟約の後に織田が美濃を手中に収めたとなれば、南近江の六角に対する牽制力として尾張・美濃二箇国を領する織田を後ろ盾とすることは、是以上に頼もしいものは無いものと存じまする。此の機を逃す手は御座いますまい――」
此処が攻め時、とばかりに畳み掛けた。すると、
「織田との盟約の利については、殿も我等も重々に承知しておりまする。とはいえ、第一に竹生殿(久政)が首を縦には振りますまい。更に申せば、後ろ楯として頼もしくあっても、何処まで信を置けるものか。一度掌を返されれば、それは当家にとっての大事に御座ろう」
語調は穏やかではあるが、今度は喜右衛門が善祥坊の言を遮った。
「もう善い。其方らの考えが、孰れも変わって居らぬ事は良く分かった。与吉が入る機会を失っているではないか」
新九郎はそう言って二人を制すると、客間の入り口で湯呑を乗せた盆を持ったまま立ち竦む与吉を招き入れた。
「この書状に『織田の誠意を御預けする』とありますが、是はどういう事に御座いますか?」
善祥坊の前に湯呑を置いた去り際に、床へ置かれた書状を覗いた与吉が喜右衛門に訊いた。
「通例であれば、金品乃至は人質と言ったところか。然りとて、遠縁の者を人質として送られたのでは意味もあるまい」
与吉の問いに喜右衛門が答えた。すると、
「ほう、与吉殿は真に目端が利きますな。此度提示された『織田の誠意』は、破格に御座る」
善祥坊はそう言って新九郎へ向き直って襟を正した。
「ほう、破格とな。では聞こう、織田の誠意とは如何なものか」
新九郎はそう言って善祥坊に促した。すると、善祥坊は満面の笑みを浮かべて言った。
「信長殿の実妹である、御市殿を当家へ嫁入りさせると申しまして御座います」




